毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

順送り

2017年07月25日 17時20分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


書店や図書館などで スピリチュアルコーナーの棚が質量共に充実しているさまを眺め 「五感を超えた世界も市民権を得たものだなぁ」 と感心するたびに、この領域を世に知らしめた功労者である先人たちに思いが向きます。

マインド一辺倒の人たちの中にあって おのれの信じるところを貫き通す大変さは 今の私たちの比ではなかったろうし、自分自身さえ確証が得られないものをひたすら信じ 忍耐強く歩みを進めるのが ときとしてどれほど苦しく辛かったことか。

そんな困難に打ち勝って 未知の分野に先鞭をつけてくださった方々は、きっとそれだけ強く優れた人たちだったのでしょう。

彼らが残してくれた数々のありがたい智恵のおかげで 貴秋もまがりなりにもここまでこられたわけですが、そんな自身の体験から 先人たちの智恵の言葉を受け取る際に 留意しておいたほうがいい点があることに氣づきました。




想像するに、先人たちは その困難な役目柄、潜在意識の情報をすんなり受け取れるとか 五感を超えた世界の存在を苦もなく信じられるとか カリスマ性を帯びているとか それなりに有利な条件を設定した上で この世に生まれ出てきたのだろうと思われます。

まだ味方が少なく条件の悪い世界で 多くの人の心を動かすという重大なお役目を担うからには、それぐらいのアドバンテージは当然というものでしょう。

が、これが 今現在彼らの遺した言葉を実践する上で ちょっとした盲点になっているようです。

つまり 彼らはそもそも優れているがゆえに、自分たちには当たり前にできることをできない者もいるということに思い至らなかったのではないかと思うような記述が たびたび見受けられるのです。




貴秋が一番苦戦したのは、彼らがさらりとこともなげに書いている 「これこれこういうマインドの反応や悪いクセはやめましょう」 という言葉にいくら従おうとしても 、マインドのすさまじい抵抗にあったり 具体的にどうしたらいいのかがわからなかったりで 従えなかったことでした。

「やめましょう」 「どうしたらできるのかなどと考えず ただやめればよいのです」 などといとも簡単に書かれていることが、どうして自分にはできないのか。

また、いくら探しても うまくいかないものをうまくいかせる手立てが書かれたものが見当たらないのはなぜだろう。

探せども探せども どうクリアすればいいのかいっこうにわからない、そんなことが続くと なんだかだんだんイジワルをされているような恨みがましい心持ちになってきます。




しかし、今は思います。

先人たちの著書に そろいもそろってできない者へのアドバイスが書かれていないのは イジワル心などではもちろんなく、彼らのお役目柄 そういうハンデは背負わされてなかったため できない者がいようとは思いもよらなかったからで、その書かれていないところを努力して埋めてゆくことこそ 後に続く私たちの役目であり、探究の醍醐味でもあるのだと。

すべて答えが出ていたら あとはそれをなぞるだけ、自分の力でなにかを成し遂げる喜びは味わえませんものね。

だから 怒ったり恨んだりはナシで、その書かれていないところこそ自分の出番! ぐらいの氣持ちで取り組めばいい。

そうして私たちが突き止めたことを手がかりに、次に現れるより大きなハンデを抱えた、言い換えれば 自信があるためより厳しいハンデもいとわない勇敢な魂たちが 後を引き継いで 私たちの死角をまた埋めていってくれる、そんなふうに順送りされながら 五感を超えた世界の智恵が どんどんわかりやすくなって裾野に広がり、世界が明るく豊かになってゆく、それが 分離から統合へ、マインドからハートへと進む 今のこの “かえる” 道のりのありようというものだろうと思うのです。