毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

鏡の中の鏡

2018年02月17日 23時23分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


いったん大きな氣づきが訪れると、触発されるのか これまでパズルのかけらのように持っていたいくつもの断片的な答えや情報が 次々組み合わさって さらに大きなパズル片が出来上がっていくのは、いつものことながらワクワクします。

今回はこれまで以上にこの動きがすごくて、次に登場したのが 「鏡の中の鏡」 。

ドイツの児童文学作家、ミヒャエル ・ エンデ氏の作品に 「鏡の中の鏡」 という短編集がありますが、このタイトルは 禅の公案 「鏡に映った鏡は何を映すか?」 と関連すると 対談集 「エンデと語る」 で読んで以来、この互いに映し合う鏡というイメージが ずっとどこかに残っていました。

この 「鏡の中の鏡」 が、真我とマインドの立体メビウスの輪と結びついたのです。




真我はつねに すべてに氣づき、すべてを見つめ、すべてを映し出しています。

マスター濱田浩朱氏によれば、氏が脳梗塞で意識を失っているあいだも 見聞きする者不在のまま あたりの景色が観え 音が聴こえていたと あとから氣づいたそうです。 (「 『ただ観る者』 がただ観ていた」 より)

一方、マインドのほうは すべてを観ている真我を たいていは忘れていて、ときおりふと思い出すぐらい。

これに思い当たったとき、ふとこの 「鏡の中の鏡」 のイメージが浮かびました。




マインドが真我の存在に氣づいているときって、まさに向き合う鏡みたい。。。。どちらも相手の存在を感知して 互いに意識に映し合っているのだから。

氣づいていないときは・・・・・・ああ、それが主なしの自動反応か、そして真我は観客不在の映画館のスクリーン。

そういえば、感覚フォーカスの最中は まさにこの 「映し合う」 状態なわけだ。

ということは、向かい合って置かれた鏡のような二つの意識に挟まれることで ほんとうでないものが消えるのかな?




そうか!

真我はすべてを余すところなく映すから、マインドが嘘をついたって 嘘も嘘をついた自分も映し出されて逃れようがない。

ただ、マインドがそっぽを向いているときは 真我のスクリーンは忘れられ、主なしのマインドは 嘘でも隠し事でもやりたい放題、偽りの物語をいくらでも創り続けられるわけだ。

マインドが 真我の映すものに氣づき、その気づいていることさえも映し出されているのを観れば、自分に自分の嘘がばれ、それ以上嘘がつけなくなり、えんえん創られてきた物語もストップする。

そうなれば 嘘偽りは二枚の鏡の間で隠れるところがなくなって、実体のない幻であることが露見し 消えていくんだ。

マインドのほうでも “在る” を意識しているときは、空っぽだったマインドの主の座に真我が宿り 一体となって、幻や作り話は消え去り、真我から伝わるものをマインドが形に表すというコンビネーションが働き始める。。。。それが この三次元世界での 「本来の自分」 なんだね。




ここまでトントンとわかったのは とてもうれしいことでした。

真我を忘れずにいるときは 主のないマインドが空回って生み出す妄想や被害者意識に悩まされることもないとわかれば、あの 「セルフのままでいてください」 にも熱が入ります。

あとは、どうかこの氣づきが ただの言葉や観念から 一日も早くすっかり腑に落ちて 自分のものとなりますように。

このからだは保ったまま、真我主体のほんとうの自分に戻れますように。




とここに またまた強力なパズル片が登場し、氣づきが大きく進むことになったのです。


















立体メビウスの輪

2018年02月17日 07時40分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ムージ師の数ある動画に 一貫して出てくるのが、

        「観る者は 観られることができるのか?」

という問い。

決まった答えがないというこの問いかけは、答を見つけることよりも 取り組むこと (体験すること) 自体に意義があるようにも思えます。

もしかすると、人それぞれで 見えてくるものが違うのかもしれない。

で、すぐ理屈で割り切れる答を出したがるマインドの動きを制したり受け流したりしながら問い続けていると、その間ずっと 意識が “在る” に貼りついていることに氣づかされます。

なので、師の真意はまだわからないながらも、とりあえずこの問いかけは あの 「セルフ (真我) のままでいてください」 というメッセージと同義であると仮定して、取り組みを続けます。




・・・・とここまで書いておいてなんなんですが、この 「観る者は 観られることができるのか?」 に自分もぜひ向き合ってみようと思われる方は、ここから先の話がかえって邪魔になる怖れがあります。

そのほうがいいと思われたなら、ごめんなさい、ここで終わりになさるのがいいかもしれません m(__)m













*            *            *            *            *














では続きをば。

そんな中、“在る” に意識を置く時間が増えるのと並行して 日常の出来事に 今までになく氣持ちいい反応をすっと返せることが多くなっているのに氣がつきました。

こうしなきゃ、こうしようと意図して頑張るようなことは なにもしていないのに。

これはやはり 「セルフのままでいる」 ことに、理屈を超えた なにか大切な意味があるらしい。




しかし、どれほど (心の) 目を凝らして見つめても 「観ているものを観る」 ことはできません。

観ているもの = 在る があることは なぜか感じ取れるのに。

それにしても、形も定まった場所も持たない “在る” に氣づいているものって いったいなんなんだろう?

氣づいているものは 氣づかれているものより先に存在していなければならないはずなのに、無限の “在る” より先行するものなんてある?




ところがある日、すとんときました。

“在る” に氣づいているのって マインドじゃない?

いやいやいやいや、マインド ・ 小我が真我より先にあるわけないでしょうが!

でもそれなら、なんでマインドが 「“在る” があるのはわかるんですが」 なんて納得して書いたりしてるのよ!?

とそこで突如ひらめいたのが、あのおなじみ 「立体メビウスの輪」 。

これだ!

先も後もない、輪、メビウスの輪だ。

あらゆるところに遍在する “在る” は 当然マインドも内包しているけれど、マインドに氣づかれているときは その意識の中に捉えられているともいえる。

でもマインドは、“在る” の無限を感じとって 再びその中に飲み込まれる、その果てしない繰り返し。




マインドが主なしの自動反応だと知り “在る” の存在感が増すにつれて、氣持ちいい反応が増える一方で 日常がぎくしゃくしたものになってもいました。

ひとり部屋にこもって “在る” に浸っていられる間はいいけれど、いったん階下で家事など始めると とたんに自動反応に引き戻される、そのギャップのしんどさよ。

マインドが疎ましくさえ思えて、自己分裂の危機といったありさまだったのです。

しかし この世に意味なく存在するものなんてないわけで、マインドにも必ずなんらかの存在意義があるはず。

真我とマインドって いったいどんな関係なんだろう?




この疑問の答えが、あの山中の散歩で不意に飛び込んできた 「立体メビウスの輪」 だったとは。

伏線回収相変わらず絶妙

しかし、この答えもまだ言葉であり観念、腑に落ちたという感じではありません。

さらに、これがあの 「観る者は 観られることができるのか?」 の最終解答だという確信もないから、もっとほかに見えてくるものもあるかもしれない。

というわけで さらに取り組みを続けていたら。。。。。