毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

I am

2018年02月18日 21時18分18秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ジル ・ ボルティ ・ テイラー博士の動画と出会い、こちらの記事でご紹介したのは、もうかれこれ5年近く前になるんだなぁ。

あのとき書いたとおり まさにパーフェクトな出会いだったって思います。。。。ナイス予言♪

これはあとから知ったのですが、あのマスター濱田浩朱氏も 脳梗塞を起こす少し前に 博士の本を読んでおられたのだそうで、すごいシンクロだ (゚0゚*)

今でもお勧めの動画なので、改めてリンクを貼っておきますね。

            「奇蹟の脳」 脳卒中体験を語る/ジル ・ ボルティ ・ テーラー




ジル ・ ボルティ ・ テイラー博士は アメリカの脳科学者ですが、1996年にご自身が脳卒中に見舞われたとき、脳科学者の視点から 思いがけない体験をします。

詳しくはぜひ動画をご覧いただきたいのですが、この動画の中に、「私がある (I am) 」 という言葉が出てくるのです。

博士の左脳の血管が破裂し 脳卒中の症状が出始めて 左脳の働きが止まったり動いたりを繰り返していたとき、停止状態になると 「自分のからだと周囲の景色」 や 「印刷物の文字と背景の地」 などの境目がなくなり 区別できなかったそうです。

どうやら 右脳を通して見える世界は すべてがひとつながりのエネルギーとして感じ取れるようで、そこに 「これは私」 「これは○○」 「これは△△」 という線引きをして 形を分け出すのが 左脳の役目らしい。

そして 左脳が 「私がある」 と言い続けることで、私たちは 自分と自分でないものの区別をつけ、個である自分を保っているようなのです。




この話だと、「在る」 は左脳の担当のようですが、ムージ師の話の 「私は在る (I am) 」 は むしろ右脳の世界を指しているように思えます。

同じ 「I am」 でも、二つの指し示すところは違うのか。

ここで初めて、“在る” ではなく 「私」 のほうに 意識が向かいました。




このブログで 「私」 という一人称を極力使わなくなったのは もうだいぶ前になりますが、理由はわからないまま なんとなく使いづらくなり、以来 「貴秋は~」 というように三人称で代用してきました。

あのころから 「私」 は どこか扱いづらく落ち着きの悪い言葉だったのです。

誰にとっても身近で 幼いころから当たり前のように使い慣れている 「私」 (もちろん呼び方は 僕 ・ 俺 ・ 拙者 ・ それがしなど いろいろとありますが) 。

それでいて、「 『私』 って何?」 と訊かれて 即座に自信を持って確かなところを答えられる人が どれぐらいいるでしょうか?




「りんご」 という文字を見かけたら、即座にイメージが浮かびますよね。

色や形のみならず 手触り、重さ、味、匂い、食感なども。

それは、五感でその現物を体験した記憶と 「りんご」 という言葉がしっかり結びついているから。

じゃあ、「私」 という言葉を見聞きしたら 反射的に浮かぶのはなんだろう?

「私」 を体験していないはずはないけれど、なら 「りんご」 と同じぐらい鮮明なイメージを 「私」 についても持っているだろうか?

二つの 「I am」 が氣になっているさなか ふと 「私って何?」 という疑問と徹底的に向き合いたい衝動が湧き起こり、意識して 「私」 と心の中で二、三回唱え、すぐさま内側に現れる感覚を観察しました。

こういうとき あの感覚フォーカスの経験が役に立ちます。




「わ ・ た ・ し」 という音ではなく その指し示すもののほうに向かって 意識をぐーっと深く下ろしながら、からだに感じるものに注意を凝らします。

そして感じたもの。。。。。それは、あの “在る” でした。




生まれてこのかた 数え切れないほど 「私」 という言葉を使ってきたはずなのに、自分が何を 「私」 として知覚しているか 考えたこともありませんでした。

それはたぶん、からだや思考や記憶を 「私」 だと思い込んでいたから。

当然知っているつもりのことを わざわざ疑ったり考えたりしませんものね。

でも、からだも思考も記憶も その他自分の一部と思ってきたものみんな 「私の○○」 と言い表せるものばかり、「私」 が所有する ・ 借り受けているもの、「私」 に属するものではあっても、「私」 そのものではなかった。

そして、五感に賑々しく響くそれらの奥でひっそりと 「私」 として知覚していたもの、それが “在る” だったのです。

誤った認識の奥で ちゃんと真実も感じ取っていた、ただそれにまるで氣がついていなかったことを 初めて思い知らされたのでした。