毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

いま ・ ここにある “からだ”

2018年03月02日 15時15分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


真我とマインドばかり追いかけていた貴秋の前に現れた、第三の要素 ・ からだ。

なぜか 「体」 でも 「身体」 でもなく 「からだ」 とひらがなで書きたくなるのですが、このからだって よくよく考えるとすごいんですね。




その昔 某栄養補助食品の販売にいささか携わったとき、細胞についてけんめいに学んだことがありましたが、細胞の情報は 新しいものがどんどん出てきているようで、成人一人当たり60兆個とも70兆個ともいわれる細胞のひとつひとつに意識も記憶もあり 互いに交流し合っているというような話も耳にします。

このへんのことは詳しく書き出すときりがないのでやめておきますが、なんといってもすごいのは、からだは つねに “いま ・ ここ” にあるということ。

つま先をぶつけて 「アイタッ」 というときの痛みは、いつだって 「ここ」 にあるからだに 「いま」 起こります。

きのうの痛みとか明日の痛みなんてものはなくて、つねに “いま ・ ここ” 。

これがわかってきたのは、やはり感覚フォーカスを通してでした。




どんなドラマチックな悩みも苦しみも、言葉を切り離して感覚だけに集中すると ドラマ要素はきれいさっぱり削ぎ落とされ、「ここから先工事中」 の看板のように 味氣ないほど即物的 ・ 実用的な情報のみが残ります。

それが からだに起こる痛みやざらつき、圧迫感など 性質も強弱もさまざまな感覚であり、そのまま静かに眺めていると やがて消えていきます。

からだという “いま ・ ここ” にがっちり留め置かれては、過去の記憶の反映でしかない痛みや苦しみは 幻という正体を露呈せざるを得ないのでしょうね。




マインドは、単独では 主のない自動反応装置のようなものです。

過去の記憶を未来と結び合わせ、「こんなことがあった」 「次もきっとこんなことがおきるだろう」 と 「いま」 以外のあらゆる時制にアクセスし、湧き起こる感情に言葉を乗せて さまざまな物語を生み出します。

この物語に振り回されているとき、からだは忘れられて蚊帳の外です。

「からだが馬で 自分が乗り手でもあるかのように、おとなしくついて来いといわんばかりに引きずり回す」 とどこかで読んだ覚えがありますが、思考や感情や記憶に集中し過ぎて からだも自分の一部だという意識が希薄になっているんでしょうね。

そして あまりにも上の空だと、不意になにかにぶつかったり躓いたりして からだに走る衝撃や痛みという “いま ・ ここ” に引き戻されますが、でもまたすぐ忘れて突っ走りだすのが マインドというもの。




このマインドの特定自動反応パターンを作っているのが、意識の奥深くに埋め込まれたままの幼時の体験の記憶と、そこから生じた判断解釈だと思うのです。

犬を相手に怖い思いをしたら、どんな犬に出会っても からだがこわばり 逃げ腰になる。

最初に食べた柿が渋柿だったら、柿を見るたびなんだかいやな氣持ちになり 決して手を出さない。

空っぽのマインドは、そんなふうにして 古い記憶に私たちを縛り付けて制限を課します。




そんなマインドが “在る” に氣づくと、互いに映しあい 合わせ鏡になって、メビウスの輪状態でひとつになります。

空だったマインドの主の座に “在る” が収まり、自動反応に代わって “在る” を通し 無限の叡智が 必要に応じてマインドに流れ込み 言葉化されます。

あの 「ルームランニング」 で起こっていたのは こういうことだったと思うのです。

「透知」 とは 聞いたことも教わったこともないのに なぜか答がわかる力のことだそうですが、 “在る” に氣づいて一体化することで 宇宙のあらゆる情報につながれるとなれば、なんら不思議なことではないのですね。

“在る” は 「すべての顕現にも また永遠にも開かれる扉」 なのですから。(ムージ師動画 「絶対への扉 第一部」 より)

そしてこれは 特別な人だけというのではなく、“在る” を感じていれば 誰にでも開かれていることなのです。

あのムージ師の 「セルフ(真我 = “在る”) のままでいてください、それが賢者の極意です」 というのは まさにこういうことだったのかと感じ入る思いです。























あなた誰?

2018年03月02日 11時20分13秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 に、「素朴な関係はつねに二元的だが、崇高な領域の関係は必ず三元的」 という話があります。

空間でいえば、素朴な世界なら 「ここ ・ あそこ」 ですが、崇高な領域なら 「ここ ・ あそこ ・ その間」 となるのだと。

「その間」 とは 時間でいう 「今」 と同じで 五感の物差しが通用しなくなる場とでもいうものかなと思うのですが、真我とマインドという二つばかり追いかけていた貴秋に 第三の要素が現れたのは、これまたマスター濱田浩朱氏のブログのおかげでした。

ブログテーマ 「身体が変わると現実が変わる」 という一連の記事に 「走ることで現実が変わる」 というお話があって、ひととおり読ませていただき 心を動かされたのですが、当ブログを以前からお読みくださっている方はご存知のとおり 貴秋は理数系と並んで 運動も苦手でキライ (T_T)

すごいことだけれど これは自分向きじゃなさそうだと決めつけてそれっきりになっていたのですが、去年の二月ごろ あまりに頭を使い過ぎて煮詰まり爆発しそうになったとき、本能的にからだを動かして発散しようとして ふとこの 「走ることで現実が変わる」 が脳裏をよぎり、そのまま走り出したのです。

走るといっても しかるべき装備で外へ出てというのではなく、室内のその場で まあ走るというより 片足ずつよたこらよたこら飛び跳ねているようなものでしたが、これが思いがけず定着したのは、あの感覚フォーカスの成果。




さまざまなフォーカスの過程で氣づいたのですが、貴秋の体内には 決まった痛みを抱えている箇所がいくつかあって、ずっと昔からのこととて当たり前になり過ぎて ことさら意識もしていませんでしたが、その内の一箇所が 氣道 (でいいのかな?) の内側下方の部分。

呼吸が荒くなると鈍痛が走るので 激しい運動も深呼吸さえも苦痛だったのですが、これにフォーカスしたら あっけなくすぅっと消えて、なんと以後二度と戻ってこなかったのです。

このことはすっかり忘れていましたが、他愛ない室内走りとはいえ 5分以上走り続けても いつもの痛みが起こらないと氣づいたときのうれしさといったら。

以来 この 「ルームランニング」 は習慣付き、脚の状態も心肺機能も向上していったのですが、あるとき 走っている最中に 姿勢やからだの動かし方などにあれこれ修正の指示を出しているものがあることに ふと氣がつきました。

「上体と腰の位置がずれている、もっと腹筋締めたほうがいい」 とか 「首を立てて視線上げて、あごは引き過ぎないで」 とか こまごまと注意が飛ぶ。。。というか 浮かぶのです。

運動オンチの貴秋のこと、正しいランニングフォームなど知るはずもなく 我流で適当だったはずで、その報いか 走っているとあちこちに痛みや不具合が生じるのですが、その感覚にフォーカスしていると ふと動きやバランスをどう変えればいいかが浮かんできます。

で そのとおりにすると 痛みや違和感が消え、しばらくたつと からだつきまでいくぶん変わってきました。

正しく使われていなかった部分が使われるようになったことで 筋肉の締まり具合や脂肪の燃焼具合などが変わり、体形に反映したようなのです。




これまでいくらダイエットや運動をがんばっても凹まなかったお腹や太ももまわりが締まってきたのは なんともうれしく励みになりましたが、それにしても不思議なのは、いったい誰がこれらの指示を出しているんだ、ということ。

繰り返しますが、貴秋はスポーツは大の苦手で 正規のトレーニングなど受けたこともなく、その方面の情報に関心を持ったこともありません。

なのに よたよたの自己流ルームランニングに 腕利きのコーチかトレーナーでもついたかのように、フォームから体形体調までが まったく無理のないペースで改善され、また 暮らしの中で一時的に続いた筋肉疲労や痛みについても 「これは過去の否定的思考が浄化されているんだな、2、3日休もう」 「痛みはまだ残っているけれど、走り出せば消えるから大丈夫」 などとアドバイスが下りて、実際そのとおりになるのです。

うれしいんですけど、とってもうれしいんですけど、でも あなたいったい誰?




その答えが あの立体メビウスの輪とつながることになるのです。