今年最初の記事でも書いた、「パーフェクト ・ センス」 という映画。
相変わらず映画自体は観てなくて 筋を知っているだけですが、五感が次々と使えなくなってゆくというストーリーには なにか魅かれるものがあります。
お話の中では 嗅覚 → 味覚 → 聴覚 の順に失っていき、さらに目が見えなくなったところで終るようですが、ではそこから触覚までも失ったらどうなるか? と想像すると、それはもう生きているとはいえないのではないかと思えてきます。
触覚とは皮膚の表面だけではなく 当然からだの内側にもあるもの。
鼻の粘膜に花粉などが触れれば それが刺激となって伝わりくしゃみが出るし、熱いものを飲めば食道に温もりを覚え、食べ過ぎれば胃が重くなり、腸に異変が起こればお腹が痛くなる。
そういった体内の触感さえことごとくシャットアウトされてしまえば、まだ生きて心臓が動いていたとしても からだはなくなったも同然です。
あの 「奇蹟の脳」 のジル ・ ボルティ ・ テイラー博士は、脳卒中で左脳の機能が失われたことで 自身のからだとそうでないところの区別がつかなくなったそうですが、死を待たずとも からだと意識のつながりが断たれてしまえば、その存在を感知することはできないのですね。
では、からだがなくなれば 「私」 は消滅するのか?
貴秋はそうではないと感じます。
五感のつながりが断たれたつもりになって 静かな部屋で目を閉じ 息も極力抑えてじっと横になっていると、どれだけからだの感覚から遠ざかっても まだ消えようとしないものがあるのに氣づかされます。
そう、あの “在る” です。
五感によって自身の存在を感じるとは、「私」 でないものがあって初めて 「私」 があるとわかるということ。
が、“在る” という意識は そんな対比とは無関係です。
ある ・ ない の 「ある」 ではなく、それらを超越した絶対的なもの。
あの臨死体験者 ・ 木内鶴彦さんは、病み衰えた心臓の鼓動が 「あ 止まった」 と氣づき、次の瞬間 「え? じゃあこの 『止まった』 と思っている自分って?」 となったそうですが、そんなふうに 生死さえ超えたところで つねに起きていることすべてに氣づいているもの、それが “在る” だと感じます。
“在る” には果ても境界もなく、五感でつかむことも 度量衡ではかることもできません。
ただ “在る” ことに氣づいているしかない。
このさいごまで消えることのない “在る” こそ私たちの本質なのだとすれば、私たちは無限で永遠の存在だということになります。
・・・・・というようなことをいくら語っても それはただの言葉遊びでしかありませんが、これに実感が伴えば 万事が違って見えてきます。
私 = からだ + マインド から 私 = 在る へと意識が移行するにつれ、自分や世界のありようが ゆっくり静かに変貌を遂げています。
ドラマチックとか衝撃的とかいう感じではなく、四季の移ろいのように穏やかで緩やかな変化です (^^)