毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

語らずとも伝わるもの

2018年10月30日 15時37分27秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事で 「 『私 = からだ』 から 『私 = 意識』 へと認識の軸足を移す」 と書きましたが、実際なにか神秘的な体験をして意識が一氣に切り替わったわけではなく、「私 = からだ」 と思えてならないものを 「私 = 意識」 であるという仮説を繰り返し持ち出しては少しずつ慣らしてきただけです。

悟りなどの特別な体験に憧れて そういう経験のまったくない自分に引け目を感じ、もっと精進しなくちゃと力んでいたこともありましたが、いまはそんな脅迫観念からも解放されたようで、おしまいに行き着くところはみな同じで たどる道筋が違うだけのことなんだなぁ、と。

むしろ (急激にであれゆっくりとであれ) 意識が切り替わった後のありようのほうが大切なんじゃないかという氣がします。




中国の禅僧 ・ 廓庵という人の作で 「十牛図」 というものがあります。

悟りへの十段階の道筋を牛と牧人になぞらえて表したもので、八番目の 「人牛倶忘」 というところが いわゆる “悟り” に当たるようですが、ここで終わりではなく、九番目と十番目では再び俗世に戻ってくるんですね。

たしかに悟ったからといってそのままあの世に逝ってしまうわけではないのですから、当然その体験を踏まえての新たな人生が始まることになる。

ここで、それ以前から持ち続けている個としての意識のありようがカギになると思うのです。

どんな神秘体験も この五感の世界に戻って伝えようとすれば 再び個の意識の枠組みに絡め取られざるを得ないのですから、意識のフィルターの通りのよしあしが大きく影響することになります。




その昔の貴秋は、何人もの傑出した知恵や特殊な能力をお持ちの方に出会っては 影響を受け憧れてきました。

が しばらく経つと、その方々にもそれぞれに思い込みやわだかまりがあって そのせいでせっかくの知恵や力をもってしても諍いやトラブルを避けられなくなる様子をいく度も目撃することになり、そこに自分への警告を読み取らざるを得なくなりました。

どれほど素晴らしい知恵も能力も 意識のフィルターに曇りがあれば それに応じた結果しか生まない、これほど同じようなものを次々見せられるのは それが今の自分の姿そのものだからだ、いくら悟りを求めたところで 今のままでは望むような幸せにはつながらない、まず自分のフィルターの汚れや曇りを取り除くのが先だ、と、まるで面と向かって言われたかのように響いたのです。




警告に従って意識の曇りを取り除くことに専念していたら、心の飢えがしだいに治まり、秀でた自分でなければ認めてもらえないという強迫観念からもだんだんと解放されていきました。

十牛図の十番目 ・ 「入鄽垂手」 では、悟りを経て戻ってきた人は 裸足で胸をはだけ 土ぼこりにまみれながら徳利を下げて現れます。

高貴な身なりをしているわけでもなければ お供をおおぜい引き連れているわけでもない、ことさら人を集めて教えを垂れたりすることもなく いたって普通のありさまで、ただその人がその人らしくあるだけで いっしょにいる人々がおのずと変わっていくといったふうなのです。

貴秋自身はそんな境地にはまだまだ至りませんが、この道の先にはそんな未来が待ち受けているようだとなんとなく感じられるまでにはなってきました。

特別な存在でなくてもいい、どのような平凡な生き方だろうと ありのままの自分を感じて好きなことをしながら楽しく暮らしていれば、共振共鳴の作用でまわりの人にも自然と幸せの波動が伝わって 場全体が勝手にいいように変わってゆく。。。。まさに 「入鄽垂手」 の現代版、そんな毎日だったらどんなにか楽しいだろうなあ♪




悟りにまで到達しようとしまいと、心の曇りを取り去ってゆくプロセスは それ自体が味わい深く体験する価値のあるものだと思います。

そしてその素晴らしさは、ことさら声高に主張しなくても その人の変化そのもの ・ 生きる姿そのものが十分語ってくれるのかもしれません。