過去記事 「 『戦いに勝てば平和が訪れる』 という幻想」 で 「否定的な共同創造」 という言葉を使いましたが、肯定的であれ否定的であれ 相手のある行動はすべて共同創造だと思っています。
口ゲンカだろうが戦争だろうが、双方の思惑がぴったりかみ合って成立するという意味では共同創造なのです。
そこから降りたければ、かみ合っている意識を変えるしかありません。
この意識を変える際に 大きな障害となるのが、(戦いをやめるのでなく) 戦って勝ちたいという執着。
貴秋が古いわだかまりを手放そうというとき 激しく抵抗したのがこれでした。
怒りを長いこと押し込めていると、「いまに見ていろ」 という仕返しの欲求もどんどん強くなってしまうんですね。
戦いたい氣持ちにマインドでブレーキをかけると、喉元からみぞおちのあたりに 二つの流れがぶつかったときのように逆巻き乱れる感覚が生じます。
これが暴れまわって心を落ち着かせてくれないのです。
すごくいやな氣分なので、一刻も早く逃れたくなります。
その衝動に押されて、八つ当たりでも逆ギレでもなんでも とにかく外にはけ口を見つけて戦いに飛び出してしまうんですね。
そしてこの衝動をさらに助長するのが、いまや至るところで見受けられる 「戦って勝つ」 物語だと感じます。
幼児の絵本からアニメ、テレビドラマ、映画に至るまで、「正義が勝利を収め、それからはみんな平和に暮らしましたとさ」 の筋書きのなんと多いことか。
悪い鬼が退治される場面に、悪の結社が叩き潰される場面に、冷酷非道な犯罪者が逮捕される場面に、悪代官が切り捨てられる場面に、私たちはどれほどのカタルシスを得てきたことでしょう。
そしてそのカタルシスは 私たちの内に鬱積したままの負の感情のはけ口でもあるのです。
そうやって疑似体験する中で 戦って勝ちたい欲求はどんどん膨らむ一方、フィクションと違ってそうそうきれいな決着を見ることのない自身の現実に ますます不満が募ります。
本のようにテレビのように “悪” を氣持ちよく一刀両断できたらどんなにいいだろうという思いがどんどん強化され、それが膨れ上がった欲求を叩きつけやすい相手に向けられる。
中でももっともその対象となりやすいのが 弱者です。
このところの難民問題 ・ 無差別殺人 ・ 家庭内や施設での虐待 ・ 煽り運転事故 ・ さまざまなハラスメントなど 弱い者に向けられる度を越した暴力や呵責や放言は、こんなからくりから道がついて 起こるべくして起こったことなのではないでしょうか。
貴秋にはそんなふうに見えます。
どんな人でも、幸せで満ち足りているとき わざわざ誰かをいじめたり何かを壊したりなんてしないでしょう。
暴力的なことを引き起こす人は、まずその人自身がいまの境遇を辛い苦しいと感じているのです。
五感の世界視点 (物語の内視点) しかないときは 外に向けて吐き出すしかなかったそんな負の衝動も、五感を超えた視点 (俯瞰の視点) が加われば それまでと違う扱いが可能になります。
マインドの自動反応で 他者に向かって爆発させていたものを、自身の内で溶かし手放すという第二の選択肢が現れます。
あとはどちらを選ぶかで、その人の世界のありようが決まります。