毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

嫌なことはもう十分、反転してからが人生の本番

2022年04月09日 14時25分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
やはりというか、ウクライナ侵攻の影響で 対立する国どうしの経済制裁やら輸出入の差し止めやらで、さまざまな物の値段が上がってきましたね。

このままどんどん進んで、コロナに加えてこういう事情だから仕方ないよね、自己責任でなんとかしてねということになるのかな?

でも忘れないでおきましょう、戦争紛争の類いは人為的に引き起こされるものだし、コロナだって ウイルス自体は自然発生だとしても (そうではないという話もあります)、それにまつわる政策が特定の人の意思で動かされてきた結果 このような事態に立ち至っているのだということを。

現行のお金のシステムは 一見理論的に組み立てられているようでいて、実際には感情に動かされやすいものですから、私たちが冷静にものを見る目を忘れて 不安や恐れにあおり立てられると、たちまち状況が悪化し 今以上に多くの人々が困窮生活を強いられることになりかねず、これまで人ごとのように見ていた戦争に自分たちが引きずり込まれることだっておおいにあり得るのです。

いまほどすべての人が引きの視点に立ち、広い視野から落ち着いて物事を見極めることが大切なときはないと感じます。




以前にも書いたと思いますが、大学生のころ、友人を奈良公園の飛火野に連れて行って ひどく落胆されたことがあります。

友人は 飛火野の幻想的な写真だかポスターだかに感動して以来 ずっと実物と相まみえることを夢見ていたそうなのですが、実際に行かれた方はご存じの通り 観光地なだけに人も多いし、すぐ近くにはバスも通る道があるし、足下には鹿のフンが一杯落ちていて臭いもするし、少し離れた県庁前の大通りからの喧噪も聞こえてくるし、広々と美しく氣持ちのいいところではありますが、幻想からはほど遠い場所です。

写真はたしかにありのままの景色を写し出すけれど、それはあくまでも過去のある一瞬を部分的に切り取ったものに過ぎず、今この瞬間の現地とイコールではないし、ましてや意図的に部分を誇張したり 加工が施されたり 演出が成されたりしていれば、それを真実と見なすのは危なっかしいことでしょう。

ウクライナの惨状が連日報道されて世界の注目を集めていますが、その裏で 影が薄くなってはいるけれど、アフガニスタン、ミャンマー、シリア、イラク、ほか多くの国々でもまた命の危険にさらされている大勢の人がおり、さらに戦争紛争でなくとも さまざまな言論統制、弾圧、治安の悪化などで苦しんでいる多くの人々がいるのですね。

でも、私たちの顕在意識は どうしても五感に強く訴えかけるもののほうに注意が集中しがちで、それ以外の情報が忘れられやすく、そんな性質が意図的に利用されることだってままあるわけで、いまのように世界情勢が剣呑なときこそ、死角が多く 感情に左右されやすい顕在意識だけで事に当たるのは危険なことだとわかっておくほうがいいように思います。




さて。

ここしばらく あまり楽しくない話が続いてしまいましたが、とにもかくにも自分たちが創った世界ですから、一度はそのありようを根底から直視しないと、負の要素を終わらせてゼロに戻すことができないんですね。

とはいっても ただいたずらに苦しめられているわけではなく、魂の意図は、ネガとの対比からのコントラスト効果で 真の自分の素晴らしさをより際立たせて味わい尽くすことにあるのですから、いったんゼロ地点に立てば そこからがいよいよこの世に生まれ出た真骨頂、お楽しみの始まりです。




貴秋が感覚フォーカスを始めた当初は、とにかくネガティブな思い込みを手放すことしか頭になかったんですが、少しずつ効果を実感できるようになってきたかなというあるとき、新たに 「これからは手放しと同時進行で、ネガがなくなり空いたスペースに よりよい新しいものを入れていくこと」 というアドバイスが飛び込んできました。

なるほど、負の感情を手放したあとには 当然空きスペースが出るわけだし、再生とは 破壊 + 新たな創造 ですものね。

これはいいと 「よっしゃ~、嫌なものはもうさんざん見たから、ここからがお楽しみだぞ~♪」 と張り切ったまではよかったのですが、ここに意外な盲点がありました。

否定的な思いは 何十年もかけて細胞一個一個に刻み込まれるほど味わっていましたから、感覚もイメージも鮮明で フォーカスしやすかったのですが、いくら好ましいとはいえ、まだ経験したことがない世界を具現化できるほど鮮やかに思い浮かべるのは けっこう難しいのです。

楽しいことをイメージするなんてたやすいことと思っていたのが案に相違して、ここからまたかなりの時間を試行錯誤に費やすことになりましたが、おかげでとんだ思い違いをしていたと氣づくことができました。