毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

人生とは自作の物語、いくらでも書き直しが可能です

2022年06月11日 21時15分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
私たち人間は、自身の意のままに物語を創り、その物語を生きています。

「私は○才、どこそこ出身、誰それの子どもであり、誰それの配偶者 ・ パートナーであり、誰それの親であり、これこれこのような学歴を経て職業はこれこれ、○○が好きで △△が得意で。。。」 といった自己認識をベースに、「いま私は幸せで充実している」 「いま私は不幸で落ち込んでいる」 等の設定のもと どのように考え どのように行動するかを決めて実行することで、日々人生ドラマを創作し続けています。

私たちは 人生という物語の書き手であり、その物語の登場人物 (主人公)でもあるわけです。

ここで 「物語」 という表現を使うのは、それが書き換え可能だということを言いたいから。

「 『意のままの物語』 っておっしゃいますけど、私の毎日はぜんぜん思い通りなんかじゃありませんよ」 と言われる向きもおありでしょうが、知覚できる顕在意識だけで見れば意に沿わない物語も、知覚できない潜在意識も引っくるめたトータル意識からすれば、きちんと思い通りに創られているのです。

つまり、顕在意識よりはるかに広大な潜在意識というブラックボックスに、取り入れた覚えのない否定的な情報がいつの間にか入り込み居座って、筋書きを決定しているわけなんですね。

人生にしばしば理不尽を感じるのは、このコントロールするどころか どこにどう居座っているのかさえつかめない相手に 人生の操縦桿を握られているからなのです。




こういう見方をするなら、人生の理不尽は 生まれや育ちのせいではありません。

その条件は、生まれ出る前に魂レベルで 「今生ではこれこれこういう体験をしよう」 との意志のもと 進んで取り決めたものなのですから (もちろん決めたことを覚えてはいませんが) 。

私たちが味わう理不尽は、自身が物語の作者でもあり ストーリーの決定権を持っているという事実に目隠しをされたがゆえに強いられたものですが、魂目線で見れば、この 「形と五感の世界」 にやってくると決めたということは、大なり小なりの苦難体験を了承済みということなのです。

形なき意識体としての自分は 非の打ち所なく完璧で、不幸も苦労も知らない存在ですから、そのままでおれば 苦難など体験する必要はまったくないわけで、それをわざわざ制限多い肉体をまとい 面倒な体験世界にやってくるのは、もともと自分にはないはずの否定的要素をあえて体験することで、コントラスト効果で本来の自分の素晴らしさをとことん堪能したいからなんですね。




これらはあくまでも貴秋個人の世界観ですが、もしお氣に召したなら、これを仮説として 日常のあらゆる場面に当てはめてみられてはいかがでしょう。

ものの値段がぐんぐん跳ね上がろうが、国同士のいさかいや疫病や自然災害に脅かされようが、家族や友人とのもめ事に頭を抱えようが、いわれなき中傷や差別に神経をすり減らそうが、会社で過酷な労働を強いられ疲れ果てようが、とりあえずいったんは 「この苦しさも恐怖も怒りも痛みも 魂が一度は体験したいと望んだこと、万事が計画通りうまくいっているからこそこんな目に遭っているのだ」 と思ってみる。

そしてすぐに思い出すのです、その体験は一度で十分だということを。

否定的体験が一度でおしまいにならないのは、目を背けて逃げようとしたり、言い訳や自己弁護をしたり、相手を悪者にして反撃に出たり、自己否定や自己嫌悪に陥ったりするのに忙しくて、せっかく魂が仕組んだイベントをきちんと味わっていないからなのです。

体験の世界で 「味わう」 とは、言葉をいっさい使わず からだに響く感覚を ただじっと感じること。

ここにうかつに言葉を持ち込むと、負の物語を終わりにするどころか 新たに言い訳や戦いや自己否定の物語を生み出してしまいますから、言葉を用いず ただ感じるというのがミソです。




人生の筋書きの中には、避けて通れないものもあります。

一番はっきりしているのは、死。

いつかはこのキャラクターを脱ぎ捨てて、前もって魂が定めておいたタイミングで 元いたところへ帰らねばなりませんからね。

あと、要所要所に これだけは必ず体験するぞと魂が決めたイベントというのもあるようです。

が、スタートとゴール、あといくつかの定まった体験以外は、意識のコントロールのコツさえつかめば 物語の作者として自由に創造できるらしいと、最近いささか自信がついてきました。




自然の法則 ・ 宇宙の法則など とりあえずは自由に動かせない決め事もありますが、目の前の制約が書き換え可能かどうかの見分け方は簡単です。

それが人間以外の生物にも当てはまるかどうかを見ればいい。

例えば、地図のあちこちには 国境と呼ばれる線が引かれていますが、実際の大地や海には もちろんそんな線などないわけで、「国境というものがある」 というのは 人間にしか通用しない物語、他の生物にすれば知ったこっちゃない話なんですね。

同様に、お金、時間、法律、地位、身分、宗教、マナーなど、いま私たちがさまざまな場面で影響や制約を受けている決め事も ことごとく人間という種族だけに適用される物語。

誰かが好きに創った物語でしかないなら いくらでも変更が可能なはずですが、ここで 「社会的ルールを私が書き換えるって? そんなの無理に決まってるじゃない」 と言いたくなった方は、ご自身が物語の書き手であることを忘れておられるだけなのです。




これまで当然と思っていた世界が危なっかしく揺らいでいるいま、人生という物語の作者である自分を思い出し、自身を取り巻く世界が計り知れないほど広大であると同時に 手のひらに乗るほど小さいという感覚を取り戻すかどうかで、今後のストーリーが大きく分かれることになります。

あなたはこの先の物語をどのように展開させていきたいですか?