毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ほんものの自由とは、私たちが真の性質全開で 誰にも邪魔されず生きられること

2022年06月14日 19時34分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前の記事で 「人間にしか適用されない概念」 をいくつか挙げましたが、その後もぞくぞくと浮かんできて、メモ用紙に書き切れないほどに。

世間体、ステイタス、忖度、権威、名誉、うぬぼれ、卑下、常識、迎合、政治、経済、外交、労働、職業、商売、産業、資源、効率、利潤、利息、保証、説明、証明、予報、曜日、医療、診断、衛生、余命、ダイエット、保険、勝敗、優劣、教育、教養、娯楽、ファン、エリート、ブランド、エコ、エゴ、ピラミッド構造、愛玩、同調圧力、承認欲求、所有、権利、義務、堪忍、笠に着る、溜飲を下げる、損得勘定、本音と建前、エトセトラエトセトラ。


・・・なんかね、書いているうちに 窮屈な氣分になってきちゃいました。

人間特有の概念って、メンドクサイというか うっとおしいというか。

だって、他の生き物にはない人間だけの価値観やルールでやたら線引きをして、その線の内側なら○、外にはみ出したら×、みたいに監視しあったり牽制しあったりして、その分人間特有のストレスも増えてる感じなんだもの。

いや、貴秋が否定的な方からばかり見ているせいかもとも思ったんですが、ならばと自由、充実、調和、豊かさ、健康、など私たちの本質を彷彿とさせるような言葉を思い浮かべると、「人間にしか適用されない」 とは言い切れなくなるし、ならばと高潔、実直、正直、誠実、正義、など人としての “徳の高さ” を表すような言葉を引っ張り出すと、高潔 ↔ 卑劣、実直 ↔ 狡猾、正直 ↔ 不正直、誠実 ↔ 不誠実、正義 ↔ 不義、というように必ず対になる否定語があって、これらはやはり人間界特有の否定形あっての肯定形なんだな、否定形がなければそもそも登場しない概念なんだなと思い知らされたり。

で、改めて冒頭の 「人間にしか適用されない」 ワードの数々に目をやると、こういった概念に 私たちの本来の自由がいかに侵食 ・ 阻害されているかというのが見えてきます。




もし出し抜けに 「あなたは自由ですか?」 と問われたら、とっさに出てくるのはどのような答えでしょうか?

「そうねぇ、うん、まあ自由なほうかな」 みたいな答えが大半なのではないかしら。

いや もしかすると、昨今では 「う~ん、自由とは言い切れないかな」 ぐらいが多いかも。

「暗黙の了解」 みたいなものも含め 社会のルールに従わねばならないという意味では 完全に自由とも言い切れないけれど、住むところや食べるものや着るものはかなり選べるし、旅行できる国や地域もけっこう多いし、将来設計にも選択の余地があるし、言論の自由なんかも 某国に比べればずっと保証されてるし。。。というのが、日本人の平均的な自由のイメージかな、と思うのですが、最近はコロナの余波や経済状況などから 以前より自由が減ったと感じる人が増えたかもしれません。

ただ こうして書き出してみると、程度の差はあれど、私たちが思い浮かべる 「自由」 とは、真の自由ではないことが見えてきます。

あくまでも どこかの誰かが取り決めたルールの枠内に収まる程度の 「自由」 でしかない。

全き自由とは 他者からの制限など入り込む余地のない自由であり、私たちの本質そのものです。

私たちが真の性質全開で 真我とひとつになり、思うまま感じるままに生きるのを妨げるものなど何一つない、それが全き自由というもの。

いま私たちが自由と思い込んでいるものなど、誰かの許可という囲いの中での ほんの限られた 「自由」 に過ぎません。

もちろん 不自由をこそ体験したくてこの世界にやってきた魂もたくさんあるはずですから、自由がよくて不自由が悪いということではないのですが、あくまでもコントラスト効果を引き出すためのネガ体験であるという点と いまがかえりの道の途上であることを思えば、私たちは そろそろ催眠で刷り込まれた不自由を脱ぎ捨てて、真の自由に目覚めてもいいのではないかしら。

そして それはとりもなおさず、混迷の度を深めるばかりの現状に もっとも無理なく平和的に収拾をつける手立てでもあるのです。




長くなりそうなので、次に続きます。