毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

私の人生は私のもの、とことさら言い立てる必要もない清々しさ

2023年01月23日 12時20分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前回の記事で 「いまの貴秋はノーを言うのが快感」 というようなことを書きましたが、これは 貴秋が半世紀以上抱えていたある根深いバグを ほぼほぼ手放したこととつながっています。

それは、「この人困ってる、助けてあげなきゃ」 と認定した相手の世話をとことん焼かずにおれないという強迫観念。

この “認定” というところがクセモノで、実際に困っているかどうかに関係なく、貴秋にそう見えた時点で脊髄反射的に発動するから、ほんとうに貴秋の助けを必要としているのか確かめるヒマもなくからだが動いちゃうんですね。

「世話焼き母さん」 と (母親でもないのに) 名付けていたこのバグ、貴秋のエネルギーや時間をたっぷり吸い取り、セルフイメージをガタ落ちさせていた元凶でした。




これが母親から受け継いだものなのは、疑う余地がありません。

母は かゆくないところにまで手が届くほどの世話焼きで、世話の域を通り越して お節介や過干渉にまで達していたため、受ける側だったころは 助かる半面疎ましく思うこともしょっちゅうでした。

が、はっと氣づけば 自分が同じことをしちゃってる。

これが物心つく前の意識の共有の恐ろしさ、自他の区別がないまま 他者の意識を自分のそれとして そっくり取り込んでしまうんですね。

そもそも父と暮らすようになって以来、自立心旺盛な父を相手にいらぬ世話を焼いてはうるさがられることの連続に 「これは何かあるな」 とずっと氣にかかっていたのです。

それが三年ほど前 このバグをことさら誘発するような事態がにわかに増えた時期がありまして、「これは このバグと徹底的に取り組んでさっさと手放せということだな」 とピンときて、感覚フォーカスに全力を注ぐこととなったのでした。




「世話焼き母さん」 は 飛んできた物を避けるなどと同様の自動反応なのですが、そのとき自分の中で起きていることをつぶさに見ていくと、反応の原動力は 「大切な人を守らなきゃ」 という懸命な思いであり、さらにその奥には 「大切な人を悔いが残るような形で失う、もしくは苦しむ姿をただ見ているしかないことへの強烈な恐れ」 が存在していました。

が、貴秋は10年余り前に母を亡くすまで 身近な人を失った深い哀しみや喪失感を体験したことがありませんから、これもまた 母経由で入り込んだ 根拠のない幻の恐れの可能性が大。

実際 母の “世話焼き母さん” が発動したときの記憶をたどると、こちらは危険どころか たいして困ってもいないのに、母の方が一方的に 「こんなことがあると困るから こうこうしておきなさい」 「こんな羽目に陥ったときのために これこれを持っていきなさい」 と 事態を悪い方へ悪い方へと想定して手を打ってくるのです。

だから受け取る側にすれば、役に立ちそうなところだけ受け取って あとはうっとうしがるのが自然な反応なのですが、こちらが世話を焼く側になると、「こんなに一生懸命尽くしているのに、当たり前のように受け取るかうっとうしがるかだけってひどくない?」 という氣持ちになってしまう。

で 世話を焼く側と焼かれる側双方の視点を突き合せて検討した結果、やはり本来自分のものでないはずの感情が起点になっているところに問題があるらしいとわかって、さらなるフォーカスにいそしむことになりました。




結果氣づいたのは、恐れや不安を払拭しようと必死になっているときの貴秋は、相手ばかり見ていて 自身のほんとうの氣持ちに目をやるのをすっかり忘れているということ。

対処法としては、スイッチを押されて反射的に動きそうになったところで 「それは自分の “いまの一番” ?」 と自分に訊く、それだけでよかったんです。

幻の恐れの感覚が手放しにより薄らいだおかげで、それはほんとうに自分がとりたい行動かと自問するだけの余裕が生まれ、動く前に熟考できるようになったんですね。

で “いまの一番” かどうかを問うことで 何が変わったかというと、恐れベースでなく 喜びベースで行動できるようになったところ。

まず、生命に関わるような場合は別として、相手にも否定的体験をする権利があると思い出すのが肝心です。

相手の魂の意図を、貴秋の余計なお世話で潰してしまうかもしれないのですから。

その上で、恐れから身構えるのではなく、相手を喜ばせ その喜びをわがものとして感じるために手を差し出すようにすれば、空回りの 「世話焼き母さん」 は出番がなくなることを知りました。

実は 相手が甘えの氣持ちから こちらのお節介を期待するようなこともけっこう多かったのですが、そういうときって よほどニーズがかみ合わない限り 手出しをしてもこちらが楽しくないんですね。

そういう場合はきっぱりノーと言ったり氣づかぬふりをしたりすることも覚えたおかげで、自分のために使うエネルギーと時間がぐっと増え、自分を大切にするありように自信が持てるようになって、人生の舵をわが手に取り戻した思いです。




「世話焼き母さん」 に振り回されていた頃は、よく 「私の人生は私のもの」 と唱えて 自身を戒めていましたが、そんなおまじないも必要なくなったいまは、これが当たり前のありようなんだと感じて 心に清々しい風が吹き渡るような日々を過ごしています。

自由とは 外ではなく内にあるものと思い知らされた、大きな氣づきです。