毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

厳しくも怖くもないよ、これからは “神” と仲良くなる時代

2023年02月28日 12時24分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
“主よ、願わくば、変えられないことを従容として受け容れるゆとりと、変えられることを変える勇気と、その違いを知る知恵をお与えください” という 「従容の祈り」 ですが、これは ラインホルド ・ ニーバーというアメリカの神学者の作だそうですね。

ウィキペディアに載っていた原文と日本語訳を見ると、これは 祈り全文 (「平静の祈り」 「静穏の祈り」 などと呼ばれているそう) の最初の三行ということらしい。

ちょっと長いですが、ウィキの日本語訳をそのままコピペさせていただきます。



     神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
     変えるべきものを変える勇気を、
     そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

     一日一日を生き、
     この時をつねに喜びをもって受け入れ、
     困難は平穏への道として受け入れさせてください。

     これまでの私の考え方を捨て、
     イエス・キリストがされたように、
     この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。

     あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
     そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。

     アーメン



貴秋は無宗教で キリスト教のことはよくわかりませんが、それでもこの祈りの内容には 素直にうなずけます。

形ある世界は 形が変化することで成り立っていますから、形のほうから何かを変えようと思ったら、できることはたくさんある。

でも 何を成し遂げようとも あとはエントロピー増大の法則で崩れて消えてゆくだけだし、二項対立世界の性質上、成功の可能性の裏にはつねに失敗の可能性がついて回ります。

でも、真の変化は (形を生み出すおおもとである) 形を持たない領域から起こしていくものなので、そこでできるのは 真の自分でないものを手放してゆくことだけ。

真実でないものが消えれば、その向こうに最初からあった真の答え、真の完成形が見えてきます。

ここまでで、最初の三行はすでに成されたといえるでしょう。

そして それができれば、後に続く 「一日一日を喜びと共に生きる」 「困難は平穏への道として受け入れる」 「この罪深い世界をそのままに受け入れる」 というのは、ことさら努力せずとも おのずとできるようになるものなんですね。




無宗教で どんな宗教についても詳しく知らない身で大それた見方かもしれませんが、「行き」 の時代に根付いた宗教概念には、「かえり」 の道では手放すことになる二つの点があるように思います。

まずは、「~が得られますように」 「~が成功しますように」 などと 形としての結果を求める祈りのスタイル。

特定の形を望めば望むほど、それが実現しない可能性にもつきまとわれることになりますが、「~を得られる ・ ~が成功する自分になる」 と 自身の内を変えるのは 自分の意志でできることだし、それができれば 結果はあとからついてくるので、望む形が整うことを神に願う必要はないわけです。

助けを求めるとすれば、自分に合った手放しの方法を知りたいときや、「言葉を引っ込めただ感じる」 ことに集中しづらいときかな。

言葉に振り回されて感覚フォーカスがうまくいかないときなど、貴秋もよく 「集中できないよ~、助けて~、力貸して~」 なんて心の内で叫んでたりします (笑)

それ以外でなにか言いたくなるとすれば、望みが叶ったときや幸せなときに自然と口をついて出る 「ありがとう」 ぐらいかな。

「神社やお寺にお参りするのは、願うのではなくお礼をいうためだ」 という話をちょくちょく聞きますが、あれはこういうことなんじゃないかなと思っています。




そしてもうひとつは、神という存在を 手の届かない高みに置く見方。

「内在神」 などという言い方もあるようですが、それを神と呼ぼうが呼ぶまいが、私たち “個” の意図をはるかに超えた “源” の力というのは、私たちの外にも内にも遍在しているんですね。

そして、海からすくい取った海水が もとの海と同じ成分を持つように、源から分け出された私たちも 源と同じ性質を持っている。

「行き」 の道で 高貴な神と卑しき人間が明確に区別されたのは、そこを忘れていたからで、「かえり」 の道では その線引きがゼロに戻され、人も神と同じ性質や力を持つ神の一部であることを思い出すときがやってきます。

五感では掴めずとも、自分の内に 暖かく親しみ深く頼もしい芯のようなものを そこはかとなく感じ取れるようになる。

そのとき、神とは はるかな高みから見下ろす荘厳でいかめしい存在ではなく、つねに傍らに寄り添い 見守り 助言し 励ましてくれる頼もしい友のようなものであったことが、誰から教わるのでもなく 自然とわかることでしょう。




貴秋愛読の書、ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 の続編のタイトルは 「神との友情」 ですが、いまはまさに、厳しいジャッジを下す神から 友情を築けるほど親しく信頼できる神へと 大きくイメージが移り変わる時代。

自分の内に神なる存在を感じるとき、困難は困難でなくなり、不可能は可能へと転じる、それが自分軸で生きるすばらしさです。