毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

分別はきっちりと。。。ゴミの話ではありません(笑)

2012年03月14日 12時34分56秒 | ふと思うこと
もうだいぶ前のことですが、ある人に「自分の問題と そうでないものをきちんと分けて考える」という話を聞いて、大いに感銘を受けたことがあります。

それ以来、いつも心の片隅にこのことを置くように習慣付けてきましたが、これ ほんと大事なことですね。


この仕分けがきっちり出来なかった頃の自分は、人の問題まで我が事として背負い込んでは、答えの見えない悩みに四苦八苦してた氣がします。

たとえば、誰かにうれしくないことを言われたりされたりしたとき、以前の私は「なんて嫌な人」「腹立つ~」と どこまでも相手に意識が貼り付いて そこから離れることが出来なかった。

これは(私なりの分け方で言えば)三次元的視点。


でも、もうちょっと離れた上のほうから冷静に見れば、実は相手は関係ないんですね。

そういうことを言ったりしたりしてしまうのは 相手の問題で、私のじゃない。

そもそも相手は問題とも思ってないだろうし、どのみちその人のしたことには 「因果応報」とか「ブーメランの法則」とか言われるような力が作用して それ相応のものが返っていくのだから。

それが その人と天の決めた学びの道なのだから、その人をどうしようこうしようというのは私の役目じゃない。

相手をコントロールすること、変えることに執着したら、今度は私が横暴な人間になってしまうものね(^_^;)


じゃあ私にとっての問題とは何かといえば、その出来事や その相手との関係において どういう自分であろうとするか。

意識を向けるべきは どこまでも自分。



私が持ってるのは自分の答えだけ、なのにうっかり人の問題にまで首を突っ込むと、答えの見えない袋小路に迷い込んでアタマを抱えるハメになってしまう


親とのなんやかんやも この区別がはっきり出来ていれば、どんなにもつれていても 必ず道は開けるようです♪

ただ、前にも書いたように 昔ながらの根深い条件付けに引きずられて ときどきこんがらがって悩んじゃったりもするんだけど(^^ゞ


両親の抱えてる問題、母の心のもつれや 父の心身の負担などは、これまでに彼らが積み重ねてきた選択の結果。

自覚しようとしまいと、彼らが引き寄せたことなんですね。

こんなふうに言うと冷たく聞こえてしまうかなぁ。。。でもね、いい悪いは関係なく、ただシンプルに それが事実。

そこをしっかり見てないと、つい親の苦しみをなんとかしようと余計な考えを起こしてしまう。

でも、基本それは私のすることじゃない。。。私は 彼らの選択の自由・彼らの選んだ道に敬意を払って 少し離れたところから静かに見守るだけ。

もちろん その中で私の言うべきことするべきことがあると感じたときは それに沿って行動するよう心がけるけれどね。


彼らといっしょのとき 私が常に意識を置くのは、自分の内側を感じて 瞬間瞬間最善の選択をすること。

どういう自分でありたいか。どういう自分を表現するか。

その選択に喜びや誇りがもてるかどうか。

その道を進んで 幸せになれるかどうか。

ほんとうの望みが叶うかどうか。


ここに焦点を合わせ続けることで、怒りや恨みの念から 少しずつでも離れられる氣がします(^^)












コメントを投稿