毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

起きてくる

2016年06月03日 16時05分57秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「観照者」 こそが 真の私、などと言っておきながら、ブログでの 「私」 は 相も変わらず ちっちゃな個の私なのですが (^_^;)

仕方ないんですよね、「観照者」 は 形を持たない純然たる意識そのもので、書くとか語るとか 五感を通して動くことはありませんから。

そこは 形ある小我の受け持ちということで、ブログも どうしても偏った個の視点から書かざるを得ないのです。

「神との対話」 にもありますが、できる限り余計な色付けをしない 通りのよいフィルターたらんとするのが、小我の役目。

マザーテレサの 「神のペン」 という言葉も、自我の勝手な判断解釈を能う限り避けて、“おおいなるひとつ” の意思を まっすぐそのまま伝える役目を果たす、という意志の表れととれます。

そんな神のペンたるには まだまだ戸惑い多い私ですが、「観照者」 が見せてくれるものを 精一杯素直に伝えるパイプ役であろうと努める 「小我 ・ 書記担当」 といったところでしょうか (*^-^*)ゞ

精進してまいりますので、今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます m(__)m




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まだ3歳かそこらの幼児のころ、ほうきで空飛ぶ魔女に憧れて 座敷ぼうきに横座りに腰かけ、両手でほうきの柄を握り エイヤッと引っ張り上げて宙に浮かぼうと ひとしきり試みたあげく、この方法で飛ぶことはできないと 悲しくも悟った思い出があります。

今 内的変容のプロセスを思うとき、ちっちゃな個たる 「私」 の力だけで 個の領域を超え、大きなひとつである自分へとシフトしようというのは、まさにこの 自分で自分を持ち上げようとする試みのようなものだという氣がします。

内的開花は 小我だけで引き起こせるようなものでは とうていなく、はるかに大きな “なにか” の存在を感じます。

小我が事を起こすというよりも 事のほうから起きてくる感じなのです。




ミヒャエル ・ エンデの短編集 「鏡のなかの鏡」 に、半分造られたまま放置されている橋についての「この種の建築物は、向こう側からこちらにむかって同じように建設されないかぎり、完成できない」 という表現がありますが、この 「起きてくる」 について思うとき ふとこの言葉が思い出されます。

分離した個として この世界に放たれた私たちを、元のひとつに呼び戻す力も 絶えず働いていて、でも こちら側からも望んで 戻ろうとする意志を持ち、双方から手を差し伸べ合わない限り、その力が形になることはない、という氣がするのです。

逆に言うと、私たちが そう望み 簡単にあきらめたりしなければ、助けや導きは必ずやってくる、ということ。

パウロ ・ コエーリョ作 「アルケミスト」 には、主人公が 夢で示された宝を見つけることを 全身全霊で欲したとき 「クリスタルの店にいた時、グラスでさえ、君が成功するように協力してくれたことに、君はきっと氣がついたことだろう」 とあります。

この 「アルケミスト」 には 「マクトゥーブ = すべては書かれている」 というアラブの言葉も出てきますが、まさにあのパラレルワールドの話のとおり、思い浮かべることができるあらゆるものは 潜在的可能性として すでに存在しており、その中のどれかを選んで求めると、向こうからも力が働いて 双方が引き寄せあうようにして実現する、そんなイメージが湧き起こります。




肝心かなめの 「観照者 = 私」 という点は腑に落ちないまま、これまでの度重なる経験から この 「起きてくる」 ものの存在は受け入れたとき、なにがなんだかわからないながらも とにかくこれからは 「観照者」 を導き手として信頼し 従おう、という意志が生まれました。

以来、ときに 「観照者 = 私 が先に腑に落ちてたら、すべてがずっと楽だったろうになぁ」 などとぶつぶつ言いながらも、これも個よりはるかに大きな意識が決めたこと、よくも悪くもこれが私の道なのだから とにかくついていくのだと思い返し、え~なんで~? いったいどこへ連れて行こうっていうのぉ!? と、ジェットコースターに乗りっぱなしのように スリリングな日々を過ごす貴秋です ( ̄∇ ̄;)























あんたが大将♪

2016年06月03日 00時58分02秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「観照者」 が真の自分であることについて、腑に落ちる前に アタマのほうが妙に得心させられてしまったおかげで、一時期自分という存在について なにがなんだかわからなくなり、ひとしきり混乱動揺しました。


   今こうして (心の中で) しゃべっているのが私でないなら、いったいなんなの?

   そもそも 私って 自分って なんなの?

   「観照者」 = 私 だっていうことを どう納得すればいいの?

   これまで私だと思っていたのが私じゃなかったことを どう納得すればいいの?

   でもって、これから私 いったいぜんたいどうなるの?


そんな嵐を通り抜けた今 わかったのは、自我とは 言葉があって初めて成り立つ存在であるということ。

必ずしも 「言語」 に限ったことではありませんが、なんらかの形あるものを発し (創り) 続けていないと存在できないのが、自我 ・ マインド ・ ちっちゃな個 であるようです。

考える、不安に駆られる、どうにかしようとする、悩む、解決方法を調べる、実践しようとがんばる。。。。。どこまでも 脳を働かせ 活動し続けずにいられないのです。

それが自分というものだと信じきっているから、考えるのをやめるのは 存在しなくなる、つまり死ぬことと同じに思えて、恐ろしくて とてもじゃないが そんな選択などできないのです。

そんな自我の必死なパフォーマンスの向こうに 本来の自分のありようを ちらとでものぞこうとする試みが、座禅や瞑想だったり、ワクワクの追求だったり、感覚フォーカスだったり (手前味噌でごめんなさい) するんですね。




自我が沈黙したところに ほんとうの私がいる。

自我にしてみたら、死ねとでも言われているようで パニックになっちゃうのもまあ無理ないか、という感じですが、落ち着いて思い返せば、これまでも 景色を眺めてぼぉ~っとしたり、感覚フォーカスで言葉を使わず感じたり、それと氣づかず 「観照者」 が主体となっていた時間が 何度となくあったわけで、その間自我がことさら否定されたり苦しんだりしたわけでもない。

そう氣づいたあたりから、徐々に落ち着きを取り戻しました。




自我は別に ジャマなものでも 消し去るべきものでもないんですね。

ただ、真の自分に氣づくと、その位置づけや役割、真我たる 「観照者」 との関わり方が変わるだけのこと。

「観照者」 とは、おそらく 私たちがこの世に分け出される前の “おおいなるひとつ” のことなのでしょうが、それがわざわざこんな不自由な形ある世界を創り出したのは、「体験する」 ためであり、それには このいろいろとめんどくさい自我がなければ、自身の素晴らしさを 五感を通して 体験的に知ることはできないのです。

だから、自我さんにも 大切なお役目があるわけで、安心していていいんですね (*^^*)

ただ、自分が力んで先頭切って あれこれ取り仕切ったり 引きずり回したりするのはやめて、そこは 「観照者」 にお任せする、と。

これまでの自我さんの問題は、ここにあったんですね。。。。。要するに 使い方を間違えていた、ということ。

自我さんは、「観照者」 の手足となって働く存在、形ある世界の手先 とでもいうようなものだと思えばいいのでしょうね。




こう氣づいたとき、すぅっと力が抜けて すごく楽になりました。

マザーテレサの 「私は神が持つペンに過ぎず、文字を書くのは神ご自身」 という言葉がわかった氣がしました。

力むのをやめて、リーダーの座を 「観照者」 に明け渡し、ちっちゃな個たる自分は 五感の世界でのサポートの位置につく、それだけで ずっとずっと生きやすくなるんだとわかりました。




まだすっかり腑に落ちたわけではないけれど、うっかり自我が先に立って仕切ろうとしていることに氣づくと すかさず 「そうだったそうだった、あんたが大将♪」 と 「観照者」 にお返しする、これを繰り返すうちに 新しい役割分担が少しずつ定着し、不安がぐ~んと減った氣がします。

「観照者」 の真我さんは、そもそも物差しも持たず 分離せず、不安も怖れもないのがデフォルトだけれど、自我さんたちを通して 自我さんたちの開放感や喜びを 共に味わっているわけで、これこそ この三次元世界でのトータルな 「私」 の 調和のとれた姿なのでしょうね。




おかげさまで、ここ2日ほどは まあまあ平和です

さぁて これからどうなることやら、興味津々だわ☆
























ピンチの威力

2016年06月02日 14時41分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


危機的状況というのは、つくづくすごい力を持っているものです。

危機とは ピンチとチャンスを同時に言い表す言葉ですが、実際この表裏一体のコンビネーションを うまく使いこなせさえすれば、想像をはるかに超える成果とあいまみえることが可能なのだと 改めて思い知らされています。

ピンチが大きいほど 背中合わせのチャンスも大きく、命に関わるほどの危険を感じれば、なんとしてでもそこから逃れるべく 普段は出さないようなパワーを発揮して 必死で事に当たるので、思いがけないほどの結果に行き着ける。

俗に言う 「火事場の馬鹿力」 ってことですね




人間誰しも 好ましい事象を欲し 好ましくないものは排除したくなるのが 人情というものですが、この二元対立の世界に そんな都合のいいことばかりが続くはずもなく、禍福はあざなえる縄の如し、平和な時間の後には 大なり小なり 面倒なことが訪れるのが この世の習い。

そして そんなやれやれな面倒ごとこそ、平和時には得られないような 人間レベル ・ 魂レベルでの成長を促す 絶好の機会なのですね (^^)




前回の 「観照者」 の記事の前後の空白期間、これまでにないほどの危機的状況に見舞われておりました。

外の世界で起こったことが引き金でありながら、表側は大した変化もないまま、内側がえらいことになっていました。

正しくは、氣がついたら そうなるように 自らもっていっていたわけなのですが。

もちろん好んでのことではありませんが、内なる指針に従っていたら なんかそういうことになっちゃったのです ( ̄∇ ̄;)

内的変化の例に漏れず 一連の明確な始まりも終わりも見えないまま、もう過ぎたことなのか、まだならいつどのように終るのかもわからないありさまですが、とりあえずブログが書けるほどにはなったのですから 一息つくところまではこぎつけたといえましょうか。




もっともっとず~っと時が経ってみないと このことにどういう意味や役割があったのかは おそらく見えてこないでしょうが、とりあえず今言えそうなのは、これまでにない大きな変容を促されたらしいということ。

前の記事で 「観照者」 の視点が存在感を増してきたことについて書きましたが、その後 この 「観照者」 こそが ほんとうの私なのだ という理解に行き着きました。

今こうしてブログをしたためているこの 「私」 さえ 内外の世界を見つめるひとつの小窓のようなものに過ぎず、“私” というものの主体は これまでその存在すらろくに感じとれていなかった 形を持たない絶対意識とでもいうべき 「観照者」 だったのだと。

これが 腑に落ちるというところまではいかないまま、マインドレベルですとんと受け入れさせられてしまったので、一時期大混乱に陥りましたよ

五感の感覚さえ怪しくなって、万事を水槽の中から眺めているかのような 実感の希薄な氣分で過ごしたことも。




そんな中で ありありとわかったのが、悩んでいたのも 悩みを生み出していたのも それを解決しようとしていたのもぜ~んぶ ちっちゃな個である自分だったということ。

マインド ・ 自我である自分を 私そのものだと思い込んでいると、「私が悩んでいる」 「私が解決しようとしている」 という切迫した意識になりますが、「観照者」 が主体ということになれば、それは小我たる私が繰り広げる一人芝居を 眺めるともなく眺めているようなもの。

よく見かける 「 (悩むことを) やめようとするのではない、ただやめればいいのだ」 というアドバイスが 長いこと どうしてもわからずにきましたが、ここへきて腑に落ちました。

小我 = 自分 と思えば、キリキリ舞いしている当人なわけですから、「そんなこと言ったって どうすればやめられるのぉ」 となるのは ムリもないことですが、「観照者」 は ジャッジせず ただ見つめるだけの存在ですから、この視点から小我のやってることを眺めると、「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ( ̄  ̄) 」 っていうだけのことなのです。

そして、主体と認めた「観照者」 の そんな視点を通して 改めてキリキリ舞いの様子を眺めると、自分で仕掛けておいて 苦しんだり勇み立ったり ひとりでなにやってんだ、ということになり、そこで初めて「や~めた」 という選択が可能になるようです。

問題を解決するのでなく、そもそも問題を作り出すところから やめにできるのです。




頭では 「観照者」 こそ ずっと望んできた ありのままの真の自分と思っていながら、感覚的には 自分とはあくまでも悩みの当事者たるちっちゃな個で、「観照者」 は 神のように 高みから光を投げかけ照らしてくれる 神々しい特別な存在、という捉え方だったことが よくわかりました。

そして、「観照者」 を主体と認めるということは、内なる指針に100%従うこと、すべての答は 小我の自分の中にはないと認めて 悩むのも 悩みを作るのもやめること、導きはすっかり 「観照者」 にゆだねて 赤ちゃんのように安心しきって生きることなのだ、と知りました。




どういうわけか、このことが腑に落ちるより先に マインドレベルで納得せざるを得ないところにもってこられてしまったので、行動が理解に追いつかないことも。。。。というか 追いつかないことのほうが多く、悩みかけては 「待て~い、やめやめ~」 となることの繰り返し、特に 朝起き抜けは 無防備な眠りの中で 意識が引き戻されやすいのか、いきなり旧マインド世界の感覚からスタートしたりするので、抜け出すのに四苦八苦させられたりと、見つめる自分と演じる自分を行ったり来たり、心休まらない日々が続いています。

言葉で理解していたことが 現実になってみると、平面だったものが立体で現れるとでもいうか、同じものなのに ぜんぜん肌合いが違う感じで、なるほど 実際そうなってみるまでは わかったなどと言えるものではないんだな、と思わせられます。

こんな混沌から あるときすとんと腑に落ちる瞬間がやってくるのかどうか、先のことはまったくわかりませんが、とにかく大きな変化の真っ只中にいるのは間違いないようで、それもこれも かの感覚フォーカスを重ねに重ねたその先に起こったことであるからには、今見えるもの感じることについて 文章にできる限りは 少しずつでもご報告していければと思います。