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ゲイ小説特集、打ち止めです。もうしばらくは読まないぞ。流石に飽きて来た。ははは。
映画『モーリス』と云えばぐりには忘れられない思い出があります。コレ前にも書いたような気がするけど面白いからまた書く。
ぐりが高校生の頃のボーイフレンドにマサトくん(仮名)と云う子がいました。そう、かまととにも彼氏はいたのです。意外にも。
眉目秀麗頭脳明晰な優等生のマサトくんには、アキラくんと云うこれまた眉目秀麗頭脳明晰な優等生の親友がいました。
優等生ではあっても地味で無口なアキラくんはどう云う訳か3年の2学期から学校に来なくなり、そのまま留年することになりました。
一方マサトくんは現役で京都の私立大に合格し、卒業後引越すことになりました。
卒業式の数日後、マサトくんはアキラくんに「引越したらなかなか会えなくなるから、その前にゆっくり話がしたい」と泊りがけで自宅に招かれました。
行ってみるとアキラくんの家族は留守でした。夕食にアキラくんの手料理をご馳走になった後、マサトくんは「ビデオを観よう」とアキラくんに誘われました。その時アキラくんがマサトくんに観せたのが『モーリス』と『アナザー・カントリー』だった。
2本の映画を観終わったふたりは無言で就寝し、翌朝も特に何も話さずにマサトくんはアキラくんの家を後にしたそうです。
マサトくんはこの話をぐりにした時「『ゆっくり話したい』ってアキラがゆうから行ったんやけど、結局何も話さんかったなぁ」とのんきそうにコメントしただけだし、ぐりもただ面白くてゲラゲラ笑ってたけど、今にして思えばこれはどう考えてもやっぱり“愛の告白”だよね(笑)。そう思うと、気の毒なくらい大人しかったアキラくんがいじらしく、可哀想に思えて来ます。ひとりぼっちのおうちにマサトくんを招待したのだって随分勇気が要ったろうなと。
ぐりはいつだかは忘れましたが一応この映画『モーリス』は観ています。観た時も原作を読んでみたいとは思いましたが、あの表紙があまりに恥ずかしくてこのトシになるまで手にとることが出来なかった。映画のスチール写真が使われてんだよね。もういかにも少女趣味なボーイズラブ文学、ってカンジでさ。
今回読んでみて、映画を観てから十年以上抱いていた思いが果たされた気分でスッキリしました。ぷはー。
原作を読んでみると、映画が小説にかなり忠実に映像化されたことが分かります。台詞や情景描写など細かいディテールもそっくり映画に再現されています。ただ忠実であるだけに、決して映像で表現出来ない、文学でしか表現し得ない大切な部分がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
この物語は、モーリスと云うやや鈍感な少年が人として成熟し自分が何者であるかを知り、苦悩の末に自らの人生を選びとるまでの精神的な成長を描いています。つまり恋愛小説ではない。恋愛は彼の成長を促す重要な試練のひとつではあるけど、あくまでモーリスの内面的な葛藤と、イギリス上流階級の凋落ぶりへの皮肉たっぷりなノスタルジーがメインである。
映画ではこの“内面的なドラマ”が効果的に表現されないまま、モーリスとクライブの関係の変遷が淡々と綴られる。他の登場人物や状況設定に関する説明もほとんど無い。ところどころ肝心な箇所の欠けたモザイク画を眺めているような、昼メロのダイジェスト版を観ているような印象を受けるのはそのせいだと思います。
あとね、モーリスとクライブがかっこ良過ぎ(笑)。原作のイメージと全然違う。
ぐりはフォースターの作品を他に読んだ記憶がないので、これが作風なのかどうかよく分からないけど、この人の人物描写がまた物凄く辛辣です。モーリスがどれだけアタマのめぐりが悪いか、クライブがどれだけ醜悪な俗物か、容赦なく実に手厳しく登場人物を嘲弄する。ただその厳しさにもどこか親愛の情のようなものがあって、高いところから見下ろしたような書き方なのに、読者は著者に嘲られる人物に妙な親近感を感じるし、そんな彼らに構成されたごくあやふやな人間関係の世界にリアリティさえ感じる。そう云う不思議な感覚を味わわせてくれる作家だなと思いました。
この小説の最も魅力的な場面はラストシーンです。
補欠選挙に立候補しようとしているクライブは、モーリスとの最後の邂逅の後、ほんの一瞬、友の呼ぶ声を聞く。遠くケンブリッジのキャンパスで、いつも友が呼んでいた美しい名を。
フォースターはクライブのその一瞬の感覚にふっと軽く触れてみせるだけにとどめています。それだけで、その瞬間の光景が、音が、香りが、読む人の心にせつないほど彩やかに瑞々しく蘇る。誰にでもあった輝かしい日々、二度と戻らない時代、永遠に続くように思われた黄金の季節。
ある意味でフォースターは人生の残酷さを描きたかったのかもしれないと感じる一文です。青春は束の間に過ぎ去り、人は年をとり、年をとれば引き受けなくてはならない責任は誰の肩にものしかかって来る。それから逃れると云うことは人生そのものを投げ出すにも等しい。自分自身の人生を自ら選択すると云うことが今よりも遥かに難しかった時代に同性愛者としての人生を主人公に選択させた著者は、あるいは彼らの将来に一縷の希望を託したかったのかもしれない。
今回読んだ3冊の中ではコレがいちばんオススメですね。表紙はちょっとなんとかして貰いたいけど、一度は読んでみても良い本だと思います。
ゲイ小説特集、打ち止めです。もうしばらくは読まないぞ。流石に飽きて来た。ははは。
映画『モーリス』と云えばぐりには忘れられない思い出があります。コレ前にも書いたような気がするけど面白いからまた書く。
ぐりが高校生の頃のボーイフレンドにマサトくん(仮名)と云う子がいました。そう、かまととにも彼氏はいたのです。意外にも。
眉目秀麗頭脳明晰な優等生のマサトくんには、アキラくんと云うこれまた眉目秀麗頭脳明晰な優等生の親友がいました。
優等生ではあっても地味で無口なアキラくんはどう云う訳か3年の2学期から学校に来なくなり、そのまま留年することになりました。
一方マサトくんは現役で京都の私立大に合格し、卒業後引越すことになりました。
卒業式の数日後、マサトくんはアキラくんに「引越したらなかなか会えなくなるから、その前にゆっくり話がしたい」と泊りがけで自宅に招かれました。
行ってみるとアキラくんの家族は留守でした。夕食にアキラくんの手料理をご馳走になった後、マサトくんは「ビデオを観よう」とアキラくんに誘われました。その時アキラくんがマサトくんに観せたのが『モーリス』と『アナザー・カントリー』だった。
2本の映画を観終わったふたりは無言で就寝し、翌朝も特に何も話さずにマサトくんはアキラくんの家を後にしたそうです。
マサトくんはこの話をぐりにした時「『ゆっくり話したい』ってアキラがゆうから行ったんやけど、結局何も話さんかったなぁ」とのんきそうにコメントしただけだし、ぐりもただ面白くてゲラゲラ笑ってたけど、今にして思えばこれはどう考えてもやっぱり“愛の告白”だよね(笑)。そう思うと、気の毒なくらい大人しかったアキラくんがいじらしく、可哀想に思えて来ます。ひとりぼっちのおうちにマサトくんを招待したのだって随分勇気が要ったろうなと。
ぐりはいつだかは忘れましたが一応この映画『モーリス』は観ています。観た時も原作を読んでみたいとは思いましたが、あの表紙があまりに恥ずかしくてこのトシになるまで手にとることが出来なかった。映画のスチール写真が使われてんだよね。もういかにも少女趣味なボーイズラブ文学、ってカンジでさ。
今回読んでみて、映画を観てから十年以上抱いていた思いが果たされた気分でスッキリしました。ぷはー。
原作を読んでみると、映画が小説にかなり忠実に映像化されたことが分かります。台詞や情景描写など細かいディテールもそっくり映画に再現されています。ただ忠実であるだけに、決して映像で表現出来ない、文学でしか表現し得ない大切な部分がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
この物語は、モーリスと云うやや鈍感な少年が人として成熟し自分が何者であるかを知り、苦悩の末に自らの人生を選びとるまでの精神的な成長を描いています。つまり恋愛小説ではない。恋愛は彼の成長を促す重要な試練のひとつではあるけど、あくまでモーリスの内面的な葛藤と、イギリス上流階級の凋落ぶりへの皮肉たっぷりなノスタルジーがメインである。
映画ではこの“内面的なドラマ”が効果的に表現されないまま、モーリスとクライブの関係の変遷が淡々と綴られる。他の登場人物や状況設定に関する説明もほとんど無い。ところどころ肝心な箇所の欠けたモザイク画を眺めているような、昼メロのダイジェスト版を観ているような印象を受けるのはそのせいだと思います。
あとね、モーリスとクライブがかっこ良過ぎ(笑)。原作のイメージと全然違う。
ぐりはフォースターの作品を他に読んだ記憶がないので、これが作風なのかどうかよく分からないけど、この人の人物描写がまた物凄く辛辣です。モーリスがどれだけアタマのめぐりが悪いか、クライブがどれだけ醜悪な俗物か、容赦なく実に手厳しく登場人物を嘲弄する。ただその厳しさにもどこか親愛の情のようなものがあって、高いところから見下ろしたような書き方なのに、読者は著者に嘲られる人物に妙な親近感を感じるし、そんな彼らに構成されたごくあやふやな人間関係の世界にリアリティさえ感じる。そう云う不思議な感覚を味わわせてくれる作家だなと思いました。
この小説の最も魅力的な場面はラストシーンです。
補欠選挙に立候補しようとしているクライブは、モーリスとの最後の邂逅の後、ほんの一瞬、友の呼ぶ声を聞く。遠くケンブリッジのキャンパスで、いつも友が呼んでいた美しい名を。
フォースターはクライブのその一瞬の感覚にふっと軽く触れてみせるだけにとどめています。それだけで、その瞬間の光景が、音が、香りが、読む人の心にせつないほど彩やかに瑞々しく蘇る。誰にでもあった輝かしい日々、二度と戻らない時代、永遠に続くように思われた黄金の季節。
ある意味でフォースターは人生の残酷さを描きたかったのかもしれないと感じる一文です。青春は束の間に過ぎ去り、人は年をとり、年をとれば引き受けなくてはならない責任は誰の肩にものしかかって来る。それから逃れると云うことは人生そのものを投げ出すにも等しい。自分自身の人生を自ら選択すると云うことが今よりも遥かに難しかった時代に同性愛者としての人生を主人公に選択させた著者は、あるいは彼らの将来に一縷の希望を託したかったのかもしれない。
今回読んだ3冊の中ではコレがいちばんオススメですね。表紙はちょっとなんとかして貰いたいけど、一度は読んでみても良い本だと思います。