小学校教師が生徒に「サンタは存在しない」と言い解雇される
実をいうとぐりは生まれてこの方サンタクロースを信じたことがない。
確か通っていた保育園でも普通にクリスマス会をやっていて、赤い服に白いヒゲの仮装をした「サンタクロース」にプレゼントをもらったりしていたはずだが、そのときでさえ「この人はサンタクロースじゃない」と妙に醒めた目でみていた。ただし幼いなりに既に空気を読むことは心得ていて、口に出して「あの人はサンタじゃない」なんてことはいわなかった。他の園児といっしょになってはしゃいでみせるくらいのことはやっていた。
ぐりがサンタクロースを信じなかったのは単に性格がひねくれていたからではない(笑)。母にはっきりと「クリスマスプレゼントは父が働いたお金で買ってくるものであって、それを見ず知らずの他人にもらってるなんて教えるのはおかしな話だ」といわれたからだ。まあ彼女の発言はまったくその通りだし、クリスマスどころか誕生日のお祝いごとからも縁遠かった両親の子ども時代を思えば、信仰してもいない宗教のお祭りを祝って贈り物をするなどという習慣が理解できないのもしかたがない。けどちょっと実もフタもなさすぎる物言いじゃありませんか?とも思わなくもない。石原壮一郎なら「大人気ない」というだろう(笑)。
ところがぐりが公立の保育園に入ったあと、ふたりの妹が預けられた私立の保育園はミッション系だった(爆)。クリスマスどころか毎日朝に夕に食事どきに礼拝やらお祈りの時間があり、普通の保育園では童謡を歌うところで賛美歌を教えられ、年中行事も全部キリスト教一色(たとえばお遊戯会の演し物は“東方三博士の礼拝”)の保育園で「サンタクロースは存在しない」なんて口が裂けても誰もいえない。なので妹たちは当然サンタクロースを信じていた。彼女たちが毎年クリスマス前に出すサンタクロースへの手紙を代筆して投函してやったり、24日の夜にはプレゼントを入れてもらう靴下と、サンタクロースをもてなす飲み物と軽食を枕元に用意するのにつきあってやっていたのを覚えている。
彼女たちが「サンタクロースは存在しない」と知ったのがいつのころなのかはわからない。初めからサンタクロースを信じていなかったぐりの子ども時代と彼女たちのそれに、どんな違いがあったかもわからない。
サンタクロースの存在を信じるのは確かに子どもの特権だが、その意義はいったいどこにあるのだろう。
疑問に思ったぐりが小学校の図書館で借りて読んだのがこの本。
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4034210109&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
これはニューヨーク・サンという新聞に1897年に掲載された伝説的に有名な社説で、以後長い間、毎年クリスマスシーズンにあらゆる新聞に転載されている(原文/日本語訳)。
当時これを書いたフランシス・チャーチ記者は「サンタクロースは存在するのか」と問う8歳のヴァージニアに、ごく優しい言葉でサンタクロースを信じることの意味を説いている。本を読んだ時点でぐりは10歳になるかならないかくらいの年齢で、うんなるほどねと素直に納得したものだったが、よく考えてみれば、「サンタクロースを信じることの意味」はサンタクロースの存在への疑念があったうえで理解されるものであって、その存在を信じるべきか否かという問いの回答にはなり得ない。
だから未だにぐりは、子どもに「クリスマスプレゼントはサンタクロースがくれるもの」と教える意味はよくわからないままである。
たとえこの世にサンタクロースがいなくても、人は妖精の夢や詩や音楽の美しさを楽しんだり、身近な人を愛しその笑顔を大切にすることはできる。
たとえこの世にクリスマスがなくても、人は誰にでも優しくしたり許したり受け入れたりすることはできるはずだ。
でもそのことをついつい忘れてしまうのも人間だったりする。残念なことに、けっこう人間は忘れっぽい生き物でもある。
それを年に一度、いちばん夜が長い寒い季節にみんなで集まって思い出すために、クリスマスとサンタクロースはやってくるのだろう。嘘でも幻でも、そんなものが必要なのが人間の愚かさなのかもしれない。
百貨店のツリー。
実をいうとぐりは生まれてこの方サンタクロースを信じたことがない。
確か通っていた保育園でも普通にクリスマス会をやっていて、赤い服に白いヒゲの仮装をした「サンタクロース」にプレゼントをもらったりしていたはずだが、そのときでさえ「この人はサンタクロースじゃない」と妙に醒めた目でみていた。ただし幼いなりに既に空気を読むことは心得ていて、口に出して「あの人はサンタじゃない」なんてことはいわなかった。他の園児といっしょになってはしゃいでみせるくらいのことはやっていた。
ぐりがサンタクロースを信じなかったのは単に性格がひねくれていたからではない(笑)。母にはっきりと「クリスマスプレゼントは父が働いたお金で買ってくるものであって、それを見ず知らずの他人にもらってるなんて教えるのはおかしな話だ」といわれたからだ。まあ彼女の発言はまったくその通りだし、クリスマスどころか誕生日のお祝いごとからも縁遠かった両親の子ども時代を思えば、信仰してもいない宗教のお祭りを祝って贈り物をするなどという習慣が理解できないのもしかたがない。けどちょっと実もフタもなさすぎる物言いじゃありませんか?とも思わなくもない。石原壮一郎なら「大人気ない」というだろう(笑)。
ところがぐりが公立の保育園に入ったあと、ふたりの妹が預けられた私立の保育園はミッション系だった(爆)。クリスマスどころか毎日朝に夕に食事どきに礼拝やらお祈りの時間があり、普通の保育園では童謡を歌うところで賛美歌を教えられ、年中行事も全部キリスト教一色(たとえばお遊戯会の演し物は“東方三博士の礼拝”)の保育園で「サンタクロースは存在しない」なんて口が裂けても誰もいえない。なので妹たちは当然サンタクロースを信じていた。彼女たちが毎年クリスマス前に出すサンタクロースへの手紙を代筆して投函してやったり、24日の夜にはプレゼントを入れてもらう靴下と、サンタクロースをもてなす飲み物と軽食を枕元に用意するのにつきあってやっていたのを覚えている。
彼女たちが「サンタクロースは存在しない」と知ったのがいつのころなのかはわからない。初めからサンタクロースを信じていなかったぐりの子ども時代と彼女たちのそれに、どんな違いがあったかもわからない。
サンタクロースの存在を信じるのは確かに子どもの特権だが、その意義はいったいどこにあるのだろう。
疑問に思ったぐりが小学校の図書館で借りて読んだのがこの本。
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これはニューヨーク・サンという新聞に1897年に掲載された伝説的に有名な社説で、以後長い間、毎年クリスマスシーズンにあらゆる新聞に転載されている(原文/日本語訳)。
当時これを書いたフランシス・チャーチ記者は「サンタクロースは存在するのか」と問う8歳のヴァージニアに、ごく優しい言葉でサンタクロースを信じることの意味を説いている。本を読んだ時点でぐりは10歳になるかならないかくらいの年齢で、うんなるほどねと素直に納得したものだったが、よく考えてみれば、「サンタクロースを信じることの意味」はサンタクロースの存在への疑念があったうえで理解されるものであって、その存在を信じるべきか否かという問いの回答にはなり得ない。
だから未だにぐりは、子どもに「クリスマスプレゼントはサンタクロースがくれるもの」と教える意味はよくわからないままである。
たとえこの世にサンタクロースがいなくても、人は妖精の夢や詩や音楽の美しさを楽しんだり、身近な人を愛しその笑顔を大切にすることはできる。
たとえこの世にクリスマスがなくても、人は誰にでも優しくしたり許したり受け入れたりすることはできるはずだ。
でもそのことをついつい忘れてしまうのも人間だったりする。残念なことに、けっこう人間は忘れっぽい生き物でもある。
それを年に一度、いちばん夜が長い寒い季節にみんなで集まって思い出すために、クリスマスとサンタクロースはやってくるのだろう。嘘でも幻でも、そんなものが必要なのが人間の愚かさなのかもしれない。
百貨店のツリー。