むにゃむにゃな関係で脱原発活動に関わっておるぐりですが。
先日話したある人は、「あんなにたくさんの人が毎週デモやってるのに、『大きな声だね』で流すような政府を動かせるわけがない」といって、市民運動に否定的になってしまっていた。
その人はもともとこれまでに市民運動をさんざんやってこられて、それでもダメなんだから方法が間違ってるんじゃないかといった。
まあそういう気持ちになってしまうのも致し方ない。
ぐりからみれば日本は既に民主国家でも文明国家でもなんでもない。政府も行政も大企業もマスコミも既得権益しか眼中になく、責任を取るといえば問題を投げ出して逃げることくらいしか考えていない。改革といえば弱者に犠牲をおしつけて切り捨ててることにばかり拘泥してなぜか堂々としている。
日本人はおとなしいから、そこには確かに血は流れていない。だが声もなく圧殺されていく人たちの存在がどこまでも無視される世の中が果たして平和といえるだろうか。
でもそれならばなおさら、市民の力こそが社会を変えるための唯一の手段じゃないかとも思う。
大飯原発3号機は再稼働したし、他にも再稼働を予定している原発はある。しかし日本には他に58基の原発がある。1基や2基再稼働したからといってハイそうですかと諦めるわけにはいかない。
電力会社から買う電気を減らそうと生活を変えて地道に努力している人たちもいる。個人で線量検査をしてまわっている人たちもいる。変えられないから受け入れるというのでは、いつまでたってもものごとは変わらない。変わるまで続けるしかない。
もちろん方法はいくらでもある。ひとつがダメなら他の方法を考えればいい。
デモがダメなら、地元の選挙区の議員事務所に端から電話をかけて意志をただすのもひとつの方法だ。新聞社やテレビ局に電話をかけて、ちゃんと報道してほしいと要望を伝えるのもいい。自分のお金を預けている銀行や契約している保険会社に「原発に投資しないでほしい」と求める権利もある。
ひとりひとりにできることはいっぱいある。誰かがやってくれるのを待つのは、自立した社会人の行動とはいえない。
それはもう社会人の義務ともいえる。
それとは別に、せんだって某官公庁の方と被災地の話をする機会があり。
義捐金を遊興に浪費してしまう被災者がいるという話になった。
彼は、そういう「被災地の影の部分」が報道されないことに腹を立てていた。心ある人たちから寄せられた義捐金や、国民の税金で支援されている被災者に、生活を立て直すために渡されたお金が浪費されるのが許せないらしかった。
気持ちはわかる。確かにそういう面もある。
だがしかしそれだけでその被災者の行為を「間違っている」と断じてしまうことの方がおかしいとぐりは思う。
正直な話、いったん人の手に渡ったお金はその人のものでしかないのだから、何に遣おうが自由じゃないかと思う。腹を立てるのは、そのお金が、寄付した人間のお金、行政が恵んでやったお金、という上から目線があるからじゃないだろうか。
ぐりはそう思う。
そういう風に捉える人は、この未曾有の天災の本質をいまだにきちんと捉えられていない、消化できていないのではないかと思う。
難しい話ではない。
毎月のように被災地に通うぐりでなくても、ほんの少し想像力を働かせさえすれば、ちょっとした偶然が被災者と非被災者とをわけた現実の過酷さくらいすぐわかるだろう。
まったく先の見えない長い長い復興の道を、地に這いつくばるように耐え忍んでいる被災地の人たちの絶望と苦悩は、たまたま偶然によってもたらされたものなのだ。誰も悪くない。それはもしかしたらぐりの身に起こっていてもおかしくない。件の官公庁の方の身に起こっていてもいいし、近い将来、日本のどこにいても誰にでも降りかかる可能性の高い災難なのだ。
もし現実に自分がその状況に置かれたときに、前を向いて自己を捨てて復興のためだけに生きられるかと問われて、はっきりと回答できる人がどれだけいるだろう。
もし答えられる人がいたとしたら、ぐりは問いたい。あなたはどれだけ今回の震災のことを知っていますかと。
震災にも原発事故にもさまざまな側面がある。
一番間違っているのは、簡単に答えを急ぐことだと思う。
状況は日々刻々と変わる。だって人は生き物だから、社会も生きているから。
大切なのは、いつも現実から目を離さないこと。自分の価値観だけでわりきれない、思い通りにならないことがあることを受け入れて、そのときにできることを続けること。
それしかないと思うし、ぐりはそう信じている。
「エネルギー・環境に関する選択肢」に対する意見の募集
7月末まで。
先月参加した植樹祭で植えた木。
山登りがキライなぐりにはキツいイベントだったけど、実際植えてみると妙に愛情がわいてきて、ちゃんと大きくなってくれるといいなと思った。
先日話したある人は、「あんなにたくさんの人が毎週デモやってるのに、『大きな声だね』で流すような政府を動かせるわけがない」といって、市民運動に否定的になってしまっていた。
その人はもともとこれまでに市民運動をさんざんやってこられて、それでもダメなんだから方法が間違ってるんじゃないかといった。
まあそういう気持ちになってしまうのも致し方ない。
ぐりからみれば日本は既に民主国家でも文明国家でもなんでもない。政府も行政も大企業もマスコミも既得権益しか眼中になく、責任を取るといえば問題を投げ出して逃げることくらいしか考えていない。改革といえば弱者に犠牲をおしつけて切り捨ててることにばかり拘泥してなぜか堂々としている。
日本人はおとなしいから、そこには確かに血は流れていない。だが声もなく圧殺されていく人たちの存在がどこまでも無視される世の中が果たして平和といえるだろうか。
でもそれならばなおさら、市民の力こそが社会を変えるための唯一の手段じゃないかとも思う。
大飯原発3号機は再稼働したし、他にも再稼働を予定している原発はある。しかし日本には他に58基の原発がある。1基や2基再稼働したからといってハイそうですかと諦めるわけにはいかない。
電力会社から買う電気を減らそうと生活を変えて地道に努力している人たちもいる。個人で線量検査をしてまわっている人たちもいる。変えられないから受け入れるというのでは、いつまでたってもものごとは変わらない。変わるまで続けるしかない。
もちろん方法はいくらでもある。ひとつがダメなら他の方法を考えればいい。
デモがダメなら、地元の選挙区の議員事務所に端から電話をかけて意志をただすのもひとつの方法だ。新聞社やテレビ局に電話をかけて、ちゃんと報道してほしいと要望を伝えるのもいい。自分のお金を預けている銀行や契約している保険会社に「原発に投資しないでほしい」と求める権利もある。
ひとりひとりにできることはいっぱいある。誰かがやってくれるのを待つのは、自立した社会人の行動とはいえない。
それはもう社会人の義務ともいえる。
それとは別に、せんだって某官公庁の方と被災地の話をする機会があり。
義捐金を遊興に浪費してしまう被災者がいるという話になった。
彼は、そういう「被災地の影の部分」が報道されないことに腹を立てていた。心ある人たちから寄せられた義捐金や、国民の税金で支援されている被災者に、生活を立て直すために渡されたお金が浪費されるのが許せないらしかった。
気持ちはわかる。確かにそういう面もある。
だがしかしそれだけでその被災者の行為を「間違っている」と断じてしまうことの方がおかしいとぐりは思う。
正直な話、いったん人の手に渡ったお金はその人のものでしかないのだから、何に遣おうが自由じゃないかと思う。腹を立てるのは、そのお金が、寄付した人間のお金、行政が恵んでやったお金、という上から目線があるからじゃないだろうか。
ぐりはそう思う。
そういう風に捉える人は、この未曾有の天災の本質をいまだにきちんと捉えられていない、消化できていないのではないかと思う。
難しい話ではない。
毎月のように被災地に通うぐりでなくても、ほんの少し想像力を働かせさえすれば、ちょっとした偶然が被災者と非被災者とをわけた現実の過酷さくらいすぐわかるだろう。
まったく先の見えない長い長い復興の道を、地に這いつくばるように耐え忍んでいる被災地の人たちの絶望と苦悩は、たまたま偶然によってもたらされたものなのだ。誰も悪くない。それはもしかしたらぐりの身に起こっていてもおかしくない。件の官公庁の方の身に起こっていてもいいし、近い将来、日本のどこにいても誰にでも降りかかる可能性の高い災難なのだ。
もし現実に自分がその状況に置かれたときに、前を向いて自己を捨てて復興のためだけに生きられるかと問われて、はっきりと回答できる人がどれだけいるだろう。
もし答えられる人がいたとしたら、ぐりは問いたい。あなたはどれだけ今回の震災のことを知っていますかと。
震災にも原発事故にもさまざまな側面がある。
一番間違っているのは、簡単に答えを急ぐことだと思う。
状況は日々刻々と変わる。だって人は生き物だから、社会も生きているから。
大切なのは、いつも現実から目を離さないこと。自分の価値観だけでわりきれない、思い通りにならないことがあることを受け入れて、そのときにできることを続けること。
それしかないと思うし、ぐりはそう信じている。
「エネルギー・環境に関する選択肢」に対する意見の募集
7月末まで。
先月参加した植樹祭で植えた木。
山登りがキライなぐりにはキツいイベントだったけど、実際植えてみると妙に愛情がわいてきて、ちゃんと大きくなってくれるといいなと思った。