落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

山の日本人

2017年05月03日 | movie
『哭声/コクソン』

山間の田舎町・谷城で突如頻発しはじめた一家惨殺事件を捜査する警官ジョング(クァク・ドウォン)は、山の中にひそんでいる謎の日本人(國村隼)が怪しいという噂をききつける。一方で毒キノコの幻覚作用が原因という報道も流れるなか、捜査が進展しないうちに娘ヒョジン(キム・ファニ)の身体にも異変が表れはじめ、ジョングは義母の勧めるまま高名な祈祷師(ファン・ジョンミン)を招くのだが・・・。
國村隼が青龍映画賞男優助演賞を受賞したことでも話題のスリラー。

主人公が警官(警察組織に属する人物)という設定の映画は世界中でつくられてるけど、たいていのその設定の大前提は“主人公=正義”だ。
警察は市民の安全と社会の秩序をまもるための組織である。彼らが依って立つのは法、つまり市民と国家の合意に基づいて形成された論理による社会契約である。
だが現実の世の中ではそうした基本概念がしばしばおざなりにされる。誰かが必要とする「敵」が設定され、その「敵」を排除するために「正義」を行使することが正当化される。法に基づく根拠の証明は後回しになり、そこで法はただの道具でしかなくなる。正義を保証するのは、しばしば多数決の感情論になる。
この映画は、それをスリラーという形で娯楽映画化している。なかなかチャレンジングです。

まずおもしろいのが主人公がさっぱり活躍しない。本人も活躍する気がない。そもそものどかな平和な村の警官だから、おそらくふだんは村人同士の些細なご近所トラブルやこそ泥を相手にする程度の仕事しかしていないのだろう。一家惨殺事件なんて捜査できるスキルなんかない。事件の規模としても、ちゃんと科学捜査ができる中央警察に任せればいいし、自分には出る幕などないと思いこんでいる。
ところが娘の身に異常が起こってしまってからはそんな平静も保てなくなる。とにかく一刻も早く、自分の手でなんとかしなくてはと思いこんで対策に奔走し始めるのだが、その対策に根拠がない。家族がこういった、近所の人がああいった、単純に身近な人々にいわれたことだけを鵜呑みにして、自分の頭では考えずに流されていく。それで自身では解決を目指しているつもりになっている。

スリラー映画なので、当然主人公の思惑通りには物事は運ばないのだが、韓国映画の特色であるクドさがここでも大炸裂です。
主人公が振りまわされるどんでん返しにつぐどんでん返しが、これでもかととにかくしつこくクドく繰り返される。途中からはもう何が何だか観客もワケがわからなくなる。
たぶん意図としてはそこにあるんだろうね。ホラ、わかんないでしょ。わかんないのによく考えもせずに「敵」を「排除」するってこういうことだよ。それってただの暴力じゃん。暴力で解決なんかしっこないよ。勝手に「敵」を決めて「排除」し始めたとき、ほんとうの敵は己の心の中にある。ほんとうに恐ろしいのはそれに気づかない、気づいていて知らないふりをしてしまう人間の愚かさなのだ。

ふだんスリラーってなかなか自分から観ることがないけど、図らずも韓国映画のコシの強さを再認識しました。
おもしろかったです。