落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

ヤヲイならなんでもいいのか

2007年07月14日 | movie
『ゴー!ゴー!Gボーイズ!』

最低。カネ返せ。時間も返してほしい。
DV収録にしても映像汚すぎ、音もひどい、台本もボロボロ、演出にもカメラワークにも編集にもやる気のカケラもみうけられない、音楽も衣装もダサすぎる。一体何をやりたいのかがまったくわからない。こんなものはるばる海外までもってきてよくも人前になんか出せたものだ。招待した映画祭の審査基準にも著しく疑問を感じる。ハッキリいって同じ低予算でもぐりがつくった方がよっぽどマシなのつくれるよ。断言できるね(ぐりは以前中編の自主映画を一般公開した経験がある)。
一生懸命演じてる役者が心底気の毒だった。とくに主人公(TAE)の幼馴染みで無口でおとなしいアーシン役の唐振剛(トン・ジャンコン)はかなりの熱演だったのが痛々しかった。
よほど途中で退場したかったのだが、うっかり出にくい席に座ってしまったので最後まで観る羽目になって大後悔。あーあ。

即位の歌

2007年07月13日 | play
『国盗人』

シェイクスピアの傑作『リチャード三世』を狂言に翻案化した時代劇。
野村萬斎でシェイクスピアといえば世間的には『ハムレット』だと思うんだけどぐりはこの舞台は観てなくて、『間違いの喜劇』をやはり狂言で表現したコメディ『まちがいの狂言』は観ている。
シェイクスピアといえば古典だし、悲恋やら歴史的悲劇やら重めなテーマが多いようなイメージがあるけど、作品そのものには喜劇的な要素も大きい。シェイクスピアが活躍したエリザベス朝時代には彼の舞台は完全な大衆演劇だったわけで、日本の歌舞伎と同じく、一般庶民が家族連れで楽しむごく気楽な娯楽だった。芸術性やら文学性はともかく、笑えてなんぼである。笑えただけじゃなくて芸術的に文学的に優れていたから結果的に古典になったけど、それはもともとは観客を楽しませるためにつくられた演劇の余得みたいなものともいえるかもしれない。

『国盗人』の主人公は15世紀に実在したイングランド王リチャード3世がモデル。薔薇戦争末期、血で血を洗う政権争いを戦ったヨーク朝最後の王で、実際にシェイクスピアが描いたほどの極悪人かどうかはわかっていないが、『国盗人』の主人公・悪三郎はもうもう滑稽なほどの超ウルトラ極悪人である。目的のためなら肉親だろうが誰だろうが相手構わず欺いては殺しまくる。
でもその動機がすんごい矮小なの。醜くて誰も愛してくれないからだってさ。笑えるよ。アホかい。
最後の最後にはその動機─愛の不在─がしっかりと主人公の運命のもとへめぐってくる。因果応報である。

シェイクスピア劇は先述の通り基本は喜劇なので狂言に置き換えるのには実に向いていて、この『国盗人』もシリアスでありつつしっかりとシャレありギャグあり歌あり踊りありのコメディにもなっている。おもしろかったです。とっても。ものすごーく、萬斎さんらしい舞台でした。
コシノジュンコの衣装もかっこよかったし、ヘアメイクもよかった。
『まちがいの狂言』のときも萬斎さんひとり二役ででずっぱりだったけど、『国盗人』も出てないシーンは皆無に近いくらいでずっぱり。みてる方が疲れて来そうなくらいの大活躍。つくづくこの人スゴイです。そんなん常識ですけど、改めてみるとそのスゴさにまた畏れいる。白石加代子のひとり四役も技術的にはすばらしいとは思いますが。

立ち見も出ていてカーテンコールはスタンディングオべーション。人気のプログラムなのだねー。
ぐりはいつなんでこの舞台を観よーと思ったのか、動機をすっかり忘れてしまった(爆)。けど観れてよかったです。ハイ。


Mother country

2007年07月10日 | book
『海峡のアリア』田月仙著
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田月仙(チョン・ウォルソン/公式HP)は1957年東京生まれ。桐朋学園を経て1983年プロのオペラ歌手としてデビュー、朝鮮の民族歌謡を母国語でかつオペラの発声法で歌う声楽家として、韓国・北朝鮮のみならずヨーロッパ各国も含め国際的に活躍するソプラノ歌手である。
この本は、彼女自身の手で生立ちや家族のルーツ、南北両国で公演した歌手活動を通じて、「故国=朝鮮」と「母国=日本」との海峡の距離を描いたノンフィクションである。

この手の在日コリアンの手記としては以前に『海峡を渡るバイオリン(陳昌鉉著)』を読んだことがあるけど、この本とはちょうど対照的でよかったです。
陳昌鉉氏は教育を受けるために日本に来た在日一世、田月仙女史は学徒動員で15歳で来日した父の娘で在日二世。陳氏は在日コミュニティとはあまり関わりを持たない孤高の楽器職人であり、田氏はバリバリの総連系育ちで常に朝鮮半島という出自に立って活動して来た音楽家である。世代もちょうど一世代差、故国を思う気持ちは同じでも、それぞれにアプローチも違えば故国との現在の関わりも違う。
逆に、在日コリアンと朝鮮半島との距離感は、この本の方がさらに数段わかりやすくなっていると思う。現在日本に60〜70万人が暮すという在日コリアンが、いつどのようにして来日し、なぜ半島解放後も日本に住み続けているのか、彼らは故国に対してどんな思い─反日政策・日本人拉致問題など─を抱いているのかが、彼女自身の言葉で、簡潔に率直に書かれている。

田氏は民族学校=朝鮮総連が運営する朝鮮学校の出身で日本の義務教育はまったく受けていない。
チマチョゴリを着て学校に通い、朝鮮の歴史と朝鮮語を学び、コテコテの共産主義教育を叩き込まれ、今に至るまでずっと朝鮮名で通している。
そんな彼女にとっても、現実には北朝鮮も韓国も外国だった。幼くして故国を出た父母の思いや、学校で聞かされた故国のイメージに憧れはあっても、それでも半島は遠かった。実際に訪れることになれば不安で、彼の地を踏めば違和感ばかりが強烈に押し寄せる。どれだけきちんとした民族教育を受けて自由に朝鮮語を操ることが出来ても、日本生まれは日本生まれ、日本育ちは日本育ちだった。
また彼女の異父兄4人は帰国事業で1959年に北朝鮮に渡っている。その後の苛酷な運命はショッキングでもあるし、なぜ在日コリアンたちが日本に住み続けているかという答えのひとつにもなっていると思う。疑問のある人には是非一読をお勧めしたい。ぐりは兄弟を連れて帰った義父(田氏の母の前夫)が帰国後どうなったかがいっさい書かれていないのがムチャクチャ気になったけど。

読んでいてぐりがもっとショックを受けたのは、日本統治時代に朝鮮人音楽家によってつくられた歌についての調査のくだり。
当時日本政府は朝鮮人を日本に同化させるため、“愛国的”な歌を朝鮮人につくらせて歌わせていた。もちろん朝鮮人がそんなものを進んでつくったわけはなく、つくらなければ命がなかったから従わざるを得なかった。そういう時代だった。ところが韓国では2004年に日本統治時代の真相を調査する法律がつくられ、そうした歌をつくったアーティストたちは「親日人名事典」という不名誉なリストに記録されることになってしまった。
そんな歌のひとつが「息子の血書」(作詞:趙鳴岩 作曲:朴是春)である。

 母上にあて この手紙を書いています
 皇軍兵士になれたのも 母上の御恩です
 お国に捧げたこの体 故郷に還るそのときは
 降り注ぐ敵弾の下 白木の箱で戻ります
       
この歌は白年雪という人気歌手が歌って大ヒットしたそうである。もちろん元の歌詞は朝鮮語で。
これ以上なにもいう必要はないと思う。というか、ぐりには、なにもいえない。

関連レビュー:『悲情城市の人びと』 田村志津枝著

We are all the same

2007年07月08日 | book
『ぼくもあなたとおなじ人間です。 エイズと闘った小さな活動家、ンコシ少年の生涯』ジム・ウーテン著 酒井泰介訳
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ぐりがエイズという病気について初めて耳にしたのは1988年、高校2年の生物の授業でのことである。
教師が教壇で1冊の科学雑誌を広げ、グラビアページを開いて教室全体に見えるように掲げたあと、回覧した。
グラビアにはアメリカ人のごく平凡な家族写真が一枚、大きく印刷されていた。ハンサムだけど印象的なほどではない父親と、はつらつとした母親、かわいい女の子と金髪の幼い男の子の4人が、緑あざやかな芝生に座って身を寄せあい、カメラに向かって笑いかけている。
名前も知らない一家だが、ぐりはこの家族写真のことをとてもよく覚えている。
教師は、写真に写っている4人家族のうち生きているのは上の娘ひとりで、あとの3人はみなエイズで死んだといった。感染源は父親。不注意な婚外交渉によってウィルスは家庭に持ちこまれ、妻に感染し、息子に母子感染した。そして一家は崩壊してしまった。
このとき教師は、エイズがHIVというウィルスによって免疫機能が破壊される病気であること、80年代に入ってアメリカで猛威を振るい日本でも既に感染者(キャリア)が確認されていること、HIVは性交渉や注射の回しうちなど体液を媒介して感染すること、ただしそれ以外の日常生活では感染しないのでキャリアを隔離する必要はないこと、潜伏期間が10年以上に及ぶケースもあり自覚症状のないままパートナーに感染させてしまう危険性が高いことなどを説明した。

当時の彼の説明は、今のエイズ予防の常識とまったく変わりない。
それなのに、たかだかこれだけの常識が、80年代の地方の高校で一介の生物教師が子どもに教えられた程度のことが、未だに世界中できちんと浸透していない。
一体どういうことなのか。
人間はなんでこんなにアホなのか。

この本の主人公はゾラニ・ンコシ・ジョンソン。
1989年に南アフリカで胎内感染によって生まれつきHIVウィルスをもって生まれた。出生時の体重は2000g前後、乳児期に発症したがゲイル・ジョンソンという活動家の女性にひきとられ、手厚い看護をうけたっぷりと愛情を注いで育てられた結果、奇跡的に就学年齢まで成長することができた(アフリカの胎内感染児のほとんどが3歳前に死亡する)。ふつうの子どもと同じに学校に通いたいンコシ少年だったが、エイズを発症した子どもの受入れに反発する他の父兄と激しい衝突になり、このときのゲイルとンコシの奮闘がきっかけで、彼らは南アフリカでエイズと闘う弱者のヒーローになった。
2000年第8回国際エイズ会議でスピーチ(原文と画像)して国際的にも有名になり、活動家として2度渡米したが2001年、ついに志半ばにして世を去った。12歳だった。
ゲイルは彼の名を冠したエイズ母子のためのホスピス(ンコシズ・ヘブン)を今も南アフリカで運営している。
ンコシの生涯は映画化が決まっており、ゲイル役にはナオミ・ワッツの名が挙がっている。

HIV感染児をひきとって育て、ホスピスをつくり、差別や無理解と真正面から闘いつづけたゲイルだが、本人は決して完璧な女性ではない。
彼女は人間としてすべきこと、やって当り前のことをしただけだと思っている。単に誰もやろうとしていないだけのことだと。
困っている人が目の前にいて、自分にその窮状を助ける手段があるなら、手を差し伸べるのが当り前ではないかと。
彼女自身はもともとエイズに詳しかったわけではない。偶然、末期のエイズ患者である友人の兄に出会い、なんとかせねばと思いついたのがきっかけでホスピスを開設した。ホスピスの存在をたまたま知ったンコシの母親が赤ん坊を預けにきたから受け入れた。経済的な事情でホスピスを閉じたとき、ンコシに行き場がなかったから家にひきとった。ひきとったからには全力を傾けて育てた。
べつにヒーローになろうとしたわけでもなんでもない。やるべきことがあったからやっただけ。ルーツやらナショナリズムやら信仰やらそんなものは関係ない。いちばん大事なもの、いちばん必要なものをまず求めただけ。
だがその道のなんと険しかったことか。逃げも隠れもせずにエイズに立ち向かった彼女の姿勢はやはり美しいし感動的だ。誰もが彼女のように、やるべきことを完遂できたらどんなにいいだろう。それができないのが人間の弱さであり愚かさだ。

ンコシ少年は12年しか生きられなかったが、胎内感染児としてはもっとも長寿のひとりでもある。
とはいえたった12年の生涯では本にはなかなかならない。なのでこの本には、南アフリカの近代史、アパルトヘイト、アパルトヘイトがもたらした社会の荒廃、荒廃の中で拡散するエイズと無策な新政府への批判など、南アのエイズの悲惨極まりない現状が広範囲に解説されている。
ただボリュームそのものは重くはなくかなり読みやすい量にまとまっているし、かといってお涙頂戴の難病メロドラマにもなってはいない。誰にでも気軽にさくっと読めて、全体がからっと理解できる、いい本です。オススメ。

関連レビュー:『中国の血』 ピエール・アスキ著

七夕と書いてなぜ“たなばた”と読むのか

2007年07月07日 | movie
『傷だらけの男たち』
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うーーーーーーーーーーーん・・・・イマイチ!
ってことはわかって観にいったんだけどもー。金城武やら梁朝偉(トニー・レオン)やら舒淇(スー・チー)やら徐静蕾(シュー・ジンレイ)やら、ただ人気があるだけじゃなく実力もあって国際的にも評価の高い演技派を揃えてるだけに、もんのすごく惜しい感じ。
ストーリーもテーマもモチーフも悪くないし、やりようによってはもっともっとおもしろい映画になったはずなのになあ〜〜〜・・・。

とりあえずシナリオが全然ダメですわ。
香港映画十八番の因縁モノなので登場人物が多くて相関関係が複雑なところが特色なのに、この映画ではそれをまったく活かさずむしろ完全に殺してしまっている。なんだか意識して金城くんやトニーや舒淇や徐静蕾以外の人間を画面から排除しよう、排除しようとしすぎて、逆に不自然になってしまっているよーにみえる。金城くんやトニーが映ってなくていいよーなシーンや、逆に映ってない方がいいシーンでもいちーち顔出しなんだもん。
もちろん物語には他にも重要人物が何人もいるので、彼らが画面に出てこないことには話が進まない。そーゆーところは台詞とモノローグで説明して一丁上がり。
安い。チープだ。かー。

つまりは金がかかってて人気俳優が出てるだけのB級サスペンス。香港映画観てていちばんハラたつパターンですよ。もったいない。何を考えてこんな風にしてしまったんだろう。監督たちのヤル気を真剣に疑っちゃいます。
ただ、ストーリーやテーマやモチーフは非常に魅力的なので、またレオたん主演とゆーハリウッドバージョンには期待しようと思います。『ディパーテッド』『インファナル・アフェア』より好きなくらいなんで(爆)。ひねててすんません。