落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

被災地での瓦礫撤去とは

2011年09月10日 | 復興支援レポート
8月26日(金)~9月4日(日)震災ボランティアレポートIndex

国は被災地の瓦礫撤去を来年3月までに済ませるという目標をたててますが。
先月末時点で、被災地全体の3分の1の自治体では作業が半分も進んでないという報告もある。

とかなんとか数字でいってみても、実際に現地を見なければ、大抵の人はどの程度の進行状況なのか想像もつかないのではないだろうか。
ぐりが今回行った三陸地方に限っていえば、幹線道路だけはそれなりに片付いている。破壊された橋や、地盤沈下で冠水する道路の補修もある程度進んでいる。破壊された家屋の破片など大きな瓦礫も少なくなっているようには見える。壊れた車輛は何ヶ所かにまとめて積み上げられている。
一方で、倒壊した建物など解体しなければ動かせない構造物は大多数がそのまま放置されてるし、重機で回収できない大きさの瓦礫も一面に散乱したままになっている。一見して、この地域でまた人が住めるようになるまでにはまだまだ気の遠くなるような過程が必要とされている状態である。

自衛隊が撤収した今、瓦礫の処理は地元の解体業者と自治体に雇用されている被災者とボランティアが行っている。当然人手はまったく足りていない。一部には8月に瓦礫撤去が始まったばかりという地域や、作業人員の安全が確保できない環境でまだまったくの手つかずのままの地域もある。気仙沼市などは駅周辺の中心地ですら、全壊家屋がそっくりすべて解体されないままになっている。正直な話、こんな状況で本当に来年3月に全部かたづくとはちょっと思えない。
とくに、冬には雪も降る北国で、今と同じようなペースで作業ができない時期もあるだろう。ボランティアの数も減っている。やりたくても人手が集まらなければどうしようもない。瓦礫がかたづいても解体業者のスケジュールが確保できず、家屋の取り壊し作業が3ヶ月待ちなどという地域もある。

建造物の解体は解体業者がやるとして、ボランティアや被災者などで構成された瓦礫撤去作業員が行うのは、散乱した瓦礫を集めて分別し、処理場まで運ぶ作業である。
GW前に行ったボランティア説明会では「被災者の前で“瓦礫”“ごみ”という言葉を使わないように」という注意があったが、ひとことで瓦礫といっても実にいろいろなモノが現場には散乱している。これらを拾い集めて分別するのもボランティアの仕事である。
ぐりが参加した現場では、
①瓦
②壁
③木材
④プラスチック
⑤ガラス
⑥布
⑦金属
⑧電化製品
⑨可燃物
⑩思い出の品
の10種類に撤去物を分別していた。もちろん手作業である。

⑩の思い出の品とはアルバムや写真やフィルム・文集・ビデオテープ・トロフィーなど、捨てるに忍びない記念品と思われるモノで、これらは他の撤去物とは別に回収しクリーニング作業に回される。
この手のものが意外なほどたくさんみつかるのだが、半年も泥と海水に浸っていたせいもあって、残念ながら再生不可能なものも多かった。
クリーニングが済んだ思い出の品は役場やお寺などの公共スペースで展示され、持ち主が見つかれば返却される。
ときどき貴金属やお金、高級な装飾品などが出てくることもあるが、たいていのケースでは持ち主がわからない。こういうモノの処理がどーなってるかは、ぐりはよくわかりません。
どーなってんだろね。


折れた電柱。
気仙沼市沿岸部の地盤沈下した地域は満潮時に冠水するので通行止めの箇所が多く、このため市街地ではしょっちゅう渋滞が発生する。行き止まりが多いうえに地盤がズレていてカーナビもあてにならず、何度も道に迷った。
日が暮れてから倒壊の被害が広範囲にわたる地域に迷い込むと現実的にかなり危険だし、見た目にもはっきりいってホラーである。

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被災地で聞いた話

2011年09月08日 | 復興支援レポート
8月26日(金)~9月4日(日)震災ボランティアレポートIndex

今回は活動期間が長く、またいろいろなボランティアメンバーや地元の方々とお話する機会があり、ここでしか聞けない話題を耳にすることが多かった。

そのひとつが「被災太り」。
震災直後、避難所に支援物資が行き届かなかったり、避難所が孤立したりして食事に困った被災者が多かった。
まだ寒かった3月、東北では雪が降っていた。ただでさえ基礎代謝力が低下するこの時期に、被災者の皆さんの身体は自然に自分で自分を守ろうとして、口に入れたものをすべて体内に蓄積するように変わってしまった。
物資が行き渡るようになっても身体は急に元には戻らない。しかもライフラインが復旧しない数ヶ月もの間、日常的に食べられたのは必然的にインスタント食品やレトルト、おにぎりやパンなど高カロリーで炭水化物の多いメニューが中心になる。これでは誰でも太ってしまう。
職場が被災し、仕事を失い、時間が余ってしまった上に、プライバシーのない集団生活のストレスもあり、よけいに太った被災者の方は少なくないという。

もうひとつが「関連死」。
先日も自殺者が多いらしいことについては書いたが、自殺でなくても、直接地震や津波で怪我をしたわけでなく、その後の生活への影響で亡くなられた方の話もいくつか聞いた。
こういう非常時にもっとも傷つくのはいつも弱い立場の人間だが、ぐりが今回聞いた関連死も、お年寄りばかりだった。
震災前は元気だったのに、生まれ育った故郷のあまりの惨状にひどいショックを受けてみるみるうちに弱ってしまい、火が消えるように亡くなった方もいた。
もともと療養していた医療施設が被災し、別の施設に避難したものの、混乱と物資不足・人手不足でケアが行き届かず、震災前には亡くなるような状態ではなかったのに、急激に悪化してそのまま亡くなられたという方もいた。
震災直後には報道された関連死も、今ではほとんどメディアで語られることがなくなった。しかし現地にいると、こうした不幸な話が、今なお決して珍しい話でもなんでもないことがわかってくる。

家を失くし、仕事を失くし、家族や友人を失くしていても、東北の皆さんは気丈に明るく振舞い、必死に復興のために頑張っておられる。被災地から参加しているボランティアも何人もいたけど、「おたくは大丈夫だった?おうちの皆さんは?」などという県外ボランティアの不用意な言葉にも口を揃えて「ここに比べたらどこだってまし」「うちの被害なんて大したことない」と毅然と答えていた。
不幸な話は数限りなくある。でも、どの方のお話を聞いても、誰ひとり、自分で自分を憐れんだり、自ら同情を買おうとしたりはしない。
仕方ないよ、誰かが悪いわけじゃない、しょうがないんだと、皆さん自分で自分に言い聞かせるように、まるでなんでもないことのようにさらりと話して下さった。
言葉通り、なんでもないこととして聞き流してはいけないと思う。全然なんでもないことじゃない。もしぐりが同じような目にあっても、絶対に皆さんのような態度ではいられないから。
東北の皆さんが人間として特別強いわけじゃないと思う。それでも、とくに意識せずとも、自然に強くあろうとする心もちと、その根底にある人としてのあたたかさや優しさには、素直に心打たれることが多かった。

そういう人たちとの出会いがあったからこそ、今後もずっと、続けられる限り、ボランティアは続けたいと思う。
なにもできないかもしれないけど、できることだけはしたいと思う。


破壊された倉庫?か何か、とにかく鉄骨の建物。
たぶんもともとここにあったものではなく、どこかから流されて来たものと思われる。

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貝に祈りを

2011年09月06日 | 復興支援レポート
8月26日(金)~9月4日(日)震災ボランティアレポートIndex

先日も書いた通り、今回は活動日程の半分以上、養殖業者のお手伝いをしていた。

朝、いかだ小屋に行ってロープやカゴ(“バンジョウ”と呼ぶ)いっぱいの種牡蠣を運び込み、午前中はロープに種牡蠣を挟み込む作業をする。
種牡蠣は帆立の貝殻にくっついていて、この貝殻ごとロープに挟んでいく。2本縒りあわさったロープを釘に引っ掛けて開き、開いた隙間に貝を挟んで再度縒りあわせる。
昼休みのあとは、ロープに挟んだ種牡蠣を沖のいかだに吊るす。といっても実際に吊るすのは養殖業者のご主人が自分でされるので、ボランティアはロープをそっと海に下ろすだけである。
養殖業者の奥さんとおばあちゃま、ご主人とボランティアのフルメンバー10人前後で、最大で一日100本程度のロープが吊るせる。しかしこれは本来春先には終わっていなくてはならない作業であり、今では種牡蠣自体が大きくなり過ぎていて挟みにくく、作業は思うようには捗らない。

ボランティアのメンバーは大半が毎日入れ替わる。固定のメンバーはほとんどいない。なぜなら現地に滞在しているボランティアの顔ぶれが毎日変わるからで、現地にいる人員をやりくりして複数のタスクをこなしているからである。
毎朝、奥さんは作業の手順を丁寧に説明してくれる。すぐうまくできるボランティアもいれば、いくらやってもうまくならない人もいる。それでも奥さんとおばあちゃまは根気よく指導してくれて、なおかつ、楽しく作業できる雰囲気づくりに一生懸命配慮して下さる。
この地域の養殖業者は皆さん大切ないかだをすべて流され、自宅や船も破損し、多くの方が全財産を失っている。ひどい被害を受けて心身共にお疲れのはずなのに、明るい話題を次々に提供したり、津波が来たときのことを生々しく再現して聞かせてくれたり、きちんきちんと休憩時間を確保して、おやつや飲み物や昼食にまで気を配って下さる。そのうち、どちらがボランティアなのかわからなくなってくるくらいである。

ぐりは4日間このおうちのお手伝いを続けてさすがに作業にも慣れたし、皆さんの本音の部分も少しは垣間見えてきた。
明るく元気な風を装いながらも、その裏でたくさんのことを我慢しておられるのもなんとなくわかってくる。
不安も抱えている。悩みもある。でも前を向くしかないから、必死で自分を奮い立たせている。
そういう姿を見ていると、素人ボランティアなどという甘えが通用しないことや、本気の支援がどれだけ必要とされているかがひしひしと伝わって来た。
ぐりにできることなんか限られているけど、そんなぐりを信頼してくれているのをいったん感じてしまったら、やっぱり、それにはちゃんと応えたいと思う。
なんにもできないかもしれない。だけど、できることはしたい。

この他ににも書いた土俵(養殖いかだの重り)づくりにも参加して、他の漁師さんたちともいろいろとお話させていただいたが、こちらも含め地元の漁業関係者皆さんの最大のトピックは「婚活」である(爆)。
とりあえず朝、作業に合流するとまず名前より先に「独身?人妻?」と訊かれる。マジで。学生ボランティアには訊いてなかったみたいだけど。当り前か。
壊滅的な打撃を受けた地元の基幹産業である養殖業を、彼らはなんとしても復興したい。そのモチベーションを上げるためにも、若い新しい力がほしい。後継者がほしい。しかし、借金しながらの復興、どれだけの補償をあてにすればいいのかもまだわからない。そういうところに、よそから嫁/婿に来てほしいだなんて、おいそれとはいいにくい。複雑である。
ぶっちゃけ、ぐりは養殖業に転職してもいっかな?とかうっすら思ってますけどね。だって楽しいもん。ははははは。来年以降ボランティアにくるのは難しいけど、繁忙期だけアルバイトに来てもいい?なんて訊いてみたら、奥さんもおばあちゃまも「いつでもどーぞ」なんていってたし(笑)。

複雑な入り江が連なり、波も穏やかなこの海岸周辺では、今も毎日のように津波の犠牲者のご遺体が見つかっている。
全財産を失い、家族も失って将来の先行きが見えないなかで自殺者もあとをたたない。
こういう話がメディアで語られることはない。
全国区ではとっくに終わった「自粛ムード」も、被災地では今もずっと続いている。
そんななかで、皆さん復興のために力一杯踏ん張っている。その姿は美しいし、見ているだけで、涙が出た。


気仙沼市沿岸部。
ここだけでなく市街地も満潮時には水没する。

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夏のボランティアの思い出

2011年09月06日 | 復興支援レポート
8月26日(金)~9月4日(日)震災ボランティアレポートIndex

ぐりはボランティアに行ったんであって、決して思い出づくりが目的だったわけではないんですが。

ある夜、ボランティアみんなで外に食事に行くことになりまして。
なんだかんだでワンボックスカーに乗って出かけられたのが8時過ぎ。
さんざっぱら肉体労働で身体を酷使して全員クッタクタ、おなかもペコペコでございます。
疲労のあまりミョーなテンションで大盛りラーメン(ぐりは担々麺を食べた。辛かった。そして食べきれなかった)を大汗かきながら食べて、腹筋が痛くなるまで笑い話をして、帰路につきました。
帰りにコンビニに寄って買物をして、さあ、あとは帰って寝るだけ!と思ってクルマをスタートさせましたらば。3分も走らないうちにまさかのエンスト。
ガス欠。
そして上り坂。街灯もろくにない、ひとっこひとり通らない、田舎道。

そこで同乗者8人、やっと思い出しました。
その日被災地をあとにするボランティアくんが、朝のミーティングで「ワンボックスカー、ほとんどガソリンはいってません(給油してちょ)」と忠告してくれてたのを。
残ってそのクルマで作業してた他のボランティア全員が、そのことをすっかりきれいさっぱり忘れてたんだよね。
でも今さら思い出してもあとの祭りです。
時間は夜9時半過ぎ。もう10時半の消灯までに拠点には戻れない。

拠点に残って客人と酒盛りしてた(おい)リーダーに電話で指示を仰いだところ、「坂道を下ったところにガソリンスタンドの跡地があるから、そこに駐車して朝とりにいくべし」とのこと。
坂を下るにはクルマを反対方向に向けなきゃいけない。それなのに、全員で押しても引いてもうんともすんともいわない。
困り果てていると、通りかかった近所の人が軽トラでひっぱってくれて、すぐそばの別の空き地にクルマを入れるのを手伝ってくれて、おまけに空き地の持ち主に許可までとってきてくれた(すぐお向かいのおうちだった)。
朝7時になったら近くの臨時給油所が開店するから、そこでガソリンを買うといいよとアドバイスまでしてくれた。
ありがたいことです。

そして、残りの坂道を8人でてくてく歩いて拠点まで帰った。
真っ暗だったけど新月で、満天の星空が降るように美しかった。

ほんとうなら、夜遅くに地元の人にご迷惑をかけて、大切な支援物資であるクルマを不用心に置き去りにすることになって、すごく困った出来事のはずなのに、この夜のことはとてもとても楽しい思い出になった。
真っ暗な夜道で「ボランティアの人?」と軽トラを停めて助けてくれたおじさん。すごく優しかった。
いっしょに途方に暮れてたボランティア仲間は大学生で、それもめちゃくちゃに仲の良い幼馴染みグループで、こんなシチュエーションでもやっぱり子犬の兄弟みたいにわきゃわきゃしてて。
夏の夜、そんな彼らとえいえいクルマを押しまくったり、バカみたいに口をあけて星空を見上げながら夜道を歩いたりしてると、自分まで二十歳のころに戻ったみたいで、異常にくすぐったくっておかしくて、どんなにがまんしても笑いが止まらなくて、むしろそれで困りました。
だってなんだか80年代の青春映画みたいにベッタベタで、おかしすぎるでしょ。

今回のボランティアでは、この他にもいろいろ予期しない出来事が多かった。
嬉しい出来事もあればアタマにくる出来事、悲しい出来事もあった。どれもみんな、きっと一生忘れない。
そのなかでも、このガス欠事件は、ぐりの人生のページを何ページも遡って学生時代を鮮やかに再現してくれた出来事として、たぶん、何年経っても爆笑しながら思い出すんだろうと思う。
あのときはほんとに、楽しかったんだよ。
みなさんありがとう。


コンビニの窓のメッセージ。
全文は「自衛隊の皆さん、消防の皆さん、ボランティアの皆さん、長い間ありがとうございます」(たぶん)。
こちらこそ毎日毎日お世話になりました。

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宮城県で3度目の災害ボランティアに参加して来ました

2011年09月05日 | 復興支援レポート
8月26日(金)~9月4日(日)の日程でまたまた震災ボランティアに行ってきたわけですが。

前回帰って来て10日ほどしか間隔があいてなかったので被災地の状況にはさほど変化はなかったし、ボランティアの活動環境もほぼ前回と変わりなかったです。
そういう意味では新鮮さはなかったけど、今回は10日間、これまででいちばん長く活動したこともあって、新しく発見したこともあり、いろんな意味でまた「一生忘れられない10日間」になった。

まずひとつめは、地元の人たちとゆっくり交流できたこと。
初回前回は炊出しと清掃活動で、基本的にボランティアだけでの活動に参加していたのだが、今回は養殖業者のお手伝いや避難所の片付けなど地元の方々と共同で作業する機会が多かった。
非常に貴重な経験をさせていただき、その中でもあれこれと思うことがあったけど長くなるのでおいおいUPします。

ふたつめは、たくさんの出会いがあったこと。
ぐりが参加したボランティア団体にも学生は多かったのだが、この活動地域では他にもいくつも団体が支援を行っており、そのうちのいくつかは学生団体だった。なので個人・団体も含め大勢の学生ボランティアと活動を共にすることになった。
また、ボランティアツアーの方々が参加されることもあったり、毎日違うメンバーと活動したり、実にあらゆるジャンルの方々といっしょに活動した。
そこで感じることもいろいろとあったのですが、コレも長くなるので詳細は後日書きます。

みっつめは、震災ボランティアの立ち位置の難しさ。
震災から半年近くが過ぎ、被災者のほとんどが避難所から仮設住宅やその他のお住まいに移られ、支援物資の供給や避難生活の支援など緊急支援が必要とされる時期は終わっている。
これからは被災地の皆さんご自身で地域を復興させていかなくてはならない、長い長い復興への道のりが本番を迎える。
そのために行政や他地域の自治体や企業などさまざまな形態での支援が必要になってくるわけだが、寄せ集めの烏合の衆であるボランティアのそこでの役割は何か?というこれまでよりも高度な支援方針を考えていかなくてはならない時期になってくる。

とはいえ、瓦礫の撤去はまだまだ続くし、現地では相変わらず人手が足りません。
夏休みが終わって学生ボランティアが少なくなっていく季節、秋は連休も何度かあります。熱中症の危険に脅かされる苛酷な気候も既に和らいできてます。
ひとりでも多くの方が、東北に足を運んで、少しでも手を貸していただけたらなと思います。

とりあえずアタシは何もかも牡蠣の濃厚な香りに染まってる衣類を洗濯しなくては~~~。
お陰様でにゃんこにモテまくりですよ・・・。

夏のボランティアの思い出
貝に祈りを
被災地で聞いた話
被災地での瓦礫撤去とは
被災地にいま/これから必要なもの
被災地で写真を撮ること
ボランティアいろいろ
被災地語り
よるはさむくて、くらかった


休憩中。
奥に見える袋の山は養殖いかだの重り(「土俵」という)。中には砕石が入っている。これを3日で4000~6000袋つくる。
1袋50キロ入れるか60キロ入れるか、漁師さんたちみんなですっげえ激論してました。結論は60キロだった。
今回連日の肉体労働で相当疲れました。全身筋肉痛まみれでございます。
左端の男性陣は地元の漁師さんたち。お嫁さん募集中の方多数。

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