ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

南洋編 15 ~最前線基地ラバウル~

2010年07月13日 | 人生航海
やはり、荷役の積み降ろしには、かなりの人手が必要だった。

私達軍属も工員達も忙しく、毎日の船舶の出入の時は非常に忙しい思いをした。

そんな仕事が当分続いて、その後何とか落ち着くと、次第に安心感が戻ってきた気分になった。

ニューブリテン島のラバウルは、その当時、ソロモン諸島の戦闘に備えての最前線の基地として日本軍の最重要な港だったのである。

多くの船舶の出入港があり、私達の停泊場部隊は、それを扱う部隊で、私の主な任務は、スラバヤと同じように船舶との連絡と信号伝達を行うことであった。

そこでは、ブーゲンビル島やソロモン諸島への武器弾薬、兵力の輸送や陸海軍の補給などで、日夜多忙な時期が続いていた。

その頃は、ソロモン諸島近辺では、陸海軍共に苦戦を強いられていた。

負傷者も多く出ていて、南太平洋の島々に物資の輸送や部隊の移動の為、ラバウルは、船舶の配船等までを含めた多くの業務を取り扱う中継地となっていた。

次第に、私達の停泊場部隊の任務は重用になってゆき、輸送船の出入港は、ますます頻繁になっていった。

それゆえに、ほとんど輸送船の荷物の積み降ろしや、その後のトラックへの積み替えは大変だった。

スラバヤの頃とは全く違い、辛い日勤であったが、それが終わった後、トラックで各部隊に物資を届ける時は、気持ちもほっとして、やや楽な気分になったものである。

そんな時は、何故か気分も開放されて雰囲気も変わった。

特に、丘から眼下に見下ろすラバウルの港内の風景は絶好の眺めで、何とも言いようのない程に美しく、その山には、日本軍の飛行場もあった。

南洋編 14 ~ニューブリテン島へ~

2010年07月10日 | 人生航海
その頃には、南太平洋近辺で、敵の潜水艦の出没が頻繁になっていた。

航行中は特に注意するようにと言われていたが、日本の船舶が、度々敵の魚雷を受けるようになっていたのである。

その為、特に見張りを厳重にして航行を続ける事になっていたが、当時は、まだ日本海軍は健在であり、制海権は、いまだに我が方にあるものと信じていた。

そう思い込み、恐れるに足らんと思いながらも、若しドカーンと魚雷が命中したら、一巻の終わりと思うと気が気でなく、怖かったのは事実だった。

そんな事を考えていると、何故か急に故郷の事が目に浮かんでくるのである。

そんな思いの中で、航海は続き、心配なく潜水艦からの攻撃は一度もなかった。

ニューギニア島沖を通過して何日か過ぎて、目的地のニューブリテン島のラバウル港の近くになると、何故か又心配になった。

それは、空襲が毎日のようにある事を聞いて知っていたからかも知れない。

そして、いよいよラバウルの港に入港すると思うと、又新たな気持ちにもなり、何故かそれまでと違った気になった思いがした。

そう思い気分を取り戻して、まもなくラバウルへの入港時の際に見た港の近辺の光景は、素晴らしかった。

今になっても忘れずに、その光景をよく覚えている。

港内は広かったけど、入り口は狭く、その両側には活火山が見えていた。

然も、一方の山では、当時噴煙が立ち昇って、その麓には、露天掘りの温泉があったのだ。

そこを通り抜けて港内に入ると、素晴らしい天然の良港だった。

だが、市街地は、日本軍か敵軍の攻撃によるものか、又は火山噴火で破壊されたものなのかは、分からない侭だったが、激しい傷々しい戦闘のあとを物語っていた。

港内には、大型船舶数隻が、沈んだままに放置されてあり、その上、岸壁も壊れたままであり、船舶の荷役は、困難だった。

南洋編 13 ~さらばスラバヤ~

2010年07月08日 | 人生航海
そんな多くの想いを残して、スラバヤを後にする事になった。

僅か一年半余りの滞在であったが、私にとっての此処での生活は、生涯忘れられないものになっていた。

ようやく落ち着いた矢先の移動命令で、寝耳に水の如く私達の部隊に知らされた。

移動先は、ニューブリテン島にある最前線基地ラバウルとの事だった。

折角住み慣れたスラバヤを後にして、出て行くのは残念と言う他には、何とも言い様のない気持ちであった。

しかし、戦争中の事であって、個人的には何にも言えないのは言うまでもなく、スラバヤに滞在していた時の多くの人に受けた親切は、一生忘れられないものであった。

そして、色々な知識を教えて貰った事も、私の為に大きなプラスとなった。

長い人生の指針となって今日があると云ってよいかも知れない。

移動は、部隊全員でなく、別々の地域へ分散しての移動となった。

特に一緒で世話になった井上軍曹や他に知った将校の人達は、ラバウル以外の戦地となった。

チーモル島やニューギニア方面との事だったが、詳しく知る事も出来ず、その後終戦まで何の消息も分からないままの心ならずも寂しさを残した別れとなったのである。

そして、私達が乗船した輸送船は、敵の潜水艦の攻撃を恐れての事か、船団ではなく、単独の航行であった。

その輸送船には下士官や将校も同乗して、スラバヤで知った人達も一緒だったので、寂しいとは思わなかったし、新たな出会いも又生じたのである。

南洋編 12 ~スラバヤと郷愁~

2010年07月07日 | 人生航海
その頃になって分かったが、同郷の藤本一二三さんの所属していた船舶工兵隊が、すぐ近くにある事を知った。

早速、サイダーやコーヒー等を数箱を車に積んで行ったが、本人は不在で会うことは出来なかった。

品物を渡して貰うように衛兵に頼んで、「また来ます」と言って帰ったが、その後は多忙に追われて再会はできなかった。

後日、一二三さんは満期の為、兵役を終えて帰国したと聞いた。

その後、終戦後まで、一二三さんとは、会う機会は無かった。

それまでの軍属生活の中で、私は、此処スラバヤにおいての暮らしが、一番充実した日々であったかもしれない。

何故、私にあんな仕事が出来る様になっていたのか、不思議に思う他にはない。

よくよく考えて見ると、全てが運としか思えない。

また、毎日のように市街地にも出かけて行ったが、いつしか中国人の若い店員と親しくなった。

何度も会ううちに、マレー語で話すことが楽しみになり、国や人種は違っても、友情や人情に変わりはなく、人間の心の温かさをも知ったのである。

クラガンに敵前上陸して以来、一年が過ぎた頃に最前線のラバウルに移動が決まった。

スラバヤには多くの想いを残したままだった。

今想うと、毎日平然と過ごして、おもうままに戦争など何処吹く風とばかりに過ごしていても、矢張り、私も人の子であった。

「故里は遠きに在りて想うものなり」・・という言葉が、その通りであると実感していた。

人は誰でも、故郷を遠く離れて、初めて郷愁の念にかられ、家族を想い、恋しくなったが、私も歳若くして、故里を離れ、中国や南方の遠い処で働いたが、人は誰しも故郷を忘れる事なく、想いを胸に秘めて、自分の生まれた空の方角を見つめ、親兄弟や田舎を思い出して懐かしみ、心引かれ、椰子の葉の隙間に見える、月に手を合わせて、家族の無事を念じつつ過ごした時も度々あった事を思い出す。


南洋編 11 ~ハーレーダビッドソン~

2010年07月06日 | 人生航海
その仕事に就く事になって、私は、いつも公用証を貰っていたので、外出は自由であった。

特別待遇の扱いを受けていたのであった。

その為、車も自由に乗れたし、ある程度気ままに行動も出来たのである。

その頃は、まだ見たこともなかった珍しいハーレダビッドソンのオートバイにも乗り、走り廻ることもできた。

オートバイの運転は、初めは難しいと思ったが、若い頃でもあったので、覚えるのも早かったのであろう。

すぐに慣れてきた。

夕方になると、人通りの少ないタンジョンベラの大通りを走りながら覚えたのである。

そんな事も楽しみであったが、青春というのか、若き日の一コマであった。

その頃は、日本の軍票紙幣が使用されていたが、最初にスラバヤに入った時に、戦利品も多くあったらしい。

港の埠頭には、何処かに逃げる予定だったらしい貴重品(宝石類や高級時計)を積んだ船が、日本軍の進撃が速かったので逃げ遅れて、そのままになっていたらしい。

そして、多くの貴重品を挑発したという噂も聞いた。

敵方が残した兵器類や放棄した戦利品を徴発して使用したが、オートバイも自動車も徴発品であった。

従って、それら全てが戦利品だった。

最初に、私達がスラバヤに入った頃、近くの街を、よく見て廻った。

ある事務所は、もぬけのからだったが、机の引き出しの中には、ジャワ紙幣が何十束もあった。

どうせ使えない紙幣だと思い、そのまま置いてきたが、あとで聞けば、軍票と同様に使えたと知って、複雑な想いをしたものである。

南洋編 10 ~整理整頓~

2010年07月05日 | 人生航海
こうしてまた、私の新しい仕事が始まったが、主な仕事の内容は、一週間分の献立と予定表を作ること。

そして、それらを軍医と主計将校に提出して許可を得たうえで、現場の炊事兵の責任者が実施する。

ナマノモノ(生の物)の都合で、幾分異なる場合もあったが、予定と実施は多少の違いはあるが、その都度報告していた。

軍には、糧秣廠という処があり、食料専門を取り扱う部隊があった。

主食やその他調味料まで一切の食料品は、そこの糧秣廠に行って伝票を出してトラックで受領して来るのが、私の仕事であった。

他に週に何回か現地人の案内で、近くの漁師町まで、買出しに出かけて、新鮮な海老や魚介類を仕入れて買って来た。

その頃には、私は、既に現地のマレー語で少しぐらいの会話が出来るようになっていた。

また、同じ頃、敵潜水艦の攻撃を受けて沈没した元徳島丸の司厨長が、調理の指導をしてくれるとの事で、本格的に献立を作るようになった。

調理も素人の兵隊よりも随分良くなり、私もやり甲斐のある仕事だと、いつしか思うようになっていた。

停泊場部隊では、移動部隊の世話をするのが仕事なので、兵隊の衣服から日用品まで全てを取り扱い、嗜好品や飲み物類の支給も行っていた。

事態の急変に備えて、いつも炊事場の倉庫の中には、酒やビール、サイダー類があり、他にも煙草や甘味品等のストック品まであり、いつなんどきでも間に合うように準備して置いてあった。

在庫品の数量は、毎日整理しておかないと、いつ監査があるのか分からないので、いつでも綺麗に整理整頓してあったのは、勿論の事であった。

そして、新しい炊事場が出来上がり、それまでのオレンジ色屋根の綺麗な宿舎が少し離れていて、不便でもあった。

そこで、井上軍曹と私の二人分の寝る場所を確保して貰い、新しく別に宿舎を作って貰ったのである。

南洋編 9 ~新しい献立~

2010年07月01日 | 人生航海
その後も穏やかな日々が続いたが、二ヶ月ぐらいが過ぎた頃に、主計局長と武市軍曹から話があると言われた。

新たに井上軍曹が、責任者となって炊事場を作るので、是非手伝って欲しいと頼んで来たのである。

井上軍曹は、上官である主計中尉に相談された時に、私の話が出て、本部の許可を得たうえで、私の移動を武市軍曹に頼んだとの事らしい。

結局、軍隊の事であった、私も命令と思う以外なく承知したのである。

そんなことで、私は、本部の事務員から、炊事の事務所に移動することになったのである。

それから、直ちに、現場を見る事にした。

班長からも話しを聞いていたが、もとは大きな倉庫で広かった。

私は、まず事務所を作って、冷蔵庫の設置を打診した。

早速、敵方だった軍関係者を調べて、放置してあった工場を探して、大型の冷蔵庫を見つけた。

そこで大勢の人夫を連れて、トラックに積んで帰ることにした。

だが、詳しく調べても、その大型冷蔵庫の操作方法が、誰にも解らないのである。

ガスと電気の併用で使用する業務用の大型冷蔵庫なのは解るのであるが、結局は、氷を入れて使用する事にしたのである。

このような不便さもあったが、皆が便利に作業出来る様にして、スラバヤの停泊場部隊の新しい炊事班が出来上がったのである。

炊事軍曹のうえに、主計将校と軍医がいて、献立表の書類には、その二人の将校の承認印が必要であった。

私は、毎日の献立表を書き終えると、必ず、両将校の印を貰いに行くことになった。

南洋編 8 ~オレンジ色の屋根~

2010年06月29日 | 人生航海
入出港船の無い時は、時間もあり、広い大通りを自動車で走り廻ったりして運転を楽しんでいた。

将校や下士官から私用で使われる事も度々あったが、これも仕事だと思うと運転も上達するので楽しく思っていたぐらいである。

スラバヤの街は、既に平穏を取り戻して、いつでも何処の町に出て行っても危険な場所はなかった。

休みの日は、班長と一緒に車で商店街で買い物をした後は、よくこぎれいな食堂に入り食事をしたものだった。

宿舎は、オランダ領時代の軍人の宿舎で、オレンジ色の屋根で一戸建ての綺麗な様式で同じように並んで建てられてあり、その中の一軒家だった。

隣には、部隊長専属の運転手が居たので、暇な時には高級車に乗せて貰い、走りながら運転の指導を受けていた。

信号所での仕事も慣れた頃、本部の主計中尉から呼ばれた。

「君の字が気に入った」と言って、ガリ版を使い部隊内の通達を書かされるようになった。

ガリ版刷りは、初めての事であったが、「自分の字が皆に読まれるのは嬉しいだろう」と中尉から言われて、その後は、事務所の仕事が多くなったのである。

信号所での仕事の他に、事務所での仕事も増えて忙しくなり、そんな日々が当分続いた。

オレンジ色屋根の不思議さに想いをしながらも、これほど、私は、幸運である事を悟った事は無かった。

南洋編 7 ~スラバヤでの日々~

2010年06月28日 | 人生航海
当時から、スラバヤは国際貿易港であり、ジャワ島では、第二の立派な貿易港でもあった。

(現代のスラバヤは、インドネシア最大の貿易港でもあり、最大軍事港でもある。)

港の前にマズラ島があり、天然の良港でもある。スラバヤの門港であるタンジョンペラと市街地を結ぶ大きな広い幹線道路が通っていた。

(因みに、当時のインドネシアの首都はバタビアと呼ばれて、現在のジャカルタであり、門港は、タンジョンプリオクと言った。)

我々停泊場部隊の主な業務は、スラバヤ港に出入港する船舶に関する管理であった。

また中継地として糧抹、衣服、弾薬、医薬品、嗜好品等々までを扱い、その他にも給油、給水等々・・船舶関係の総ての積荷に関する管理業務でもあった。

私の居た信号所は、港内が一望できる中央埠頭突堤の本部建物の屋上にある立派な櫓(やぐら)であった。

この階下には、停泊場の事務所があって、武市軍曹を長に、他に港湾係の兵隊が二人常駐していた。

此処での私の初めての仕事は、港内の見張りと船舶との連絡で、時には高速艇で各船舶を廻り、命令書を渡すこともあった。

船団が入港する時は、港の入り口まで高速艇で急行して、停泊位置を指示・誘導もして忙しい時もあった。

つまりは、出入港船の動静管理が、私の信号員としての主業務であったのである。

スラバヤに到着早々に「私が、何故信号員に選ばれたのか?」と不思議に思った。

武市軍曹に訊くと、「他に適任者がいないからだ」と言われた。

広島の宇品では、各軍属関係者の特技等の総てが詳細に報告されているとの事。

私の場合も、手旗信号が特技である事も、勿論事務員としての登録もあって、総てが本部からの書類履歴に記載されているとの事だった。

あの時、宇品で多勢の中から三人が事務員として採用された事が、私の運勢を変えて幸運を与えてくれたのかと思った。

それとも、亡き両親や祖父母のご加護なのか、それ以後、いつでもどこに在っても、私を見守ってくれていると信じたのである。

「親の恩は、山より高く、海より深し」と言う。

この箴言は、誠に尊いものだと・・私は、いつまでも思うのである。

十八歳の春、私にとってのスラバヤでの日々は、とても幸せな日々だった。

南洋編 6 ~スラバヤ勤務~

2010年06月25日 | 人生航海
私達停泊場の残留部隊は、クラガンに数日間滞在した。

敵側が残したいった乗用車が、戦利品として徴発されていた。

自動車は、フォードの41年型で、その数日間の滞在中に、停泊場の運転士から車の運転を教わることになった。

特に、私は運転に興味があって、覚えるのも案外早く、一人で運転ができるようになっていた。

残務作業もようやく総てが片付いて、停泊場本隊のあとを追い、スラバヤに向けて出発する事になった。

その際、私に「あの車を運転する自信があれば乗って行くか?」と訊かれて、運転士からも「大丈夫だろう」とお墨付きを貰ったのである。

早速、その自動車に積めるだけの食品を積み込んで、クラガンを離れ、スラバヤに向かったのである。

生まれて初めて、自動車を運転して走ることになり、内心喜んだが、少し緊張しながら走ることになった。

ジャワ島は、今までオランダの植民地だけあって、クラガンからスラバヤまで、当時の日本の道路事情と違い、どこまでも完全に舗装されてあった。

私の未熟な運転でも心配無く、車を走らせる事が出来たのである。

以後は、私は、自動車運転に夢中になったのである。

そして、スラバヤ港の停泊場本隊の司令部に到着後、全員で残務報告をしたのである。

とりあえず休養することになったが、翌日には、山賀少尉という将校から正式な辞令が出ると聞かされた。

日本軍は、上陸後速やかに、インドネシアの占有統治、スラバヤ港の管理統括の組織作りに着手していたのである。

翌日、私の担当の仕事は、港内の信号係と言い渡された。

職場は、武市軍曹の外に四人と私は、停泊場本部の中央埠頭突端にある信号所への勤務と決まっていたのである。

南洋編 5 ~船舶工兵隊~

2010年06月24日 | 人生航海
各部隊が上陸したのち、付近一帯の海には、前日の海戦で敗れて沈没した敵艦の乗組員達が、静かな海上で白旗を振っていた。

また救命筏、板切れや浮流物等に掴まって泳ぐ者達も多く、なかにはゴムボートに乗った者達も助けを求めて手を振る者もいた。

しかし、勝手には救助は出来なかった。

戦闘が完全の終わった後に、海軍が、全員を救助して捕虜として収容したとの事である。

因みにインドネシアでのスラバヤ沖海戦にて、敵艦(連合国ABDA艦隊=アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア)海軍に与えた損害は、巡洋艦轟沈3隻、大破又は撃沈4隻、駆逐艦撃沈6隻で計13隻をジャワ海に葬ったのである。

この結果、当時のオランダ領ジャワ島での資源確保と占領という所期の目的を遂げることになったのである。

この敵前上陸を振り返ると、忘れてならないのは・・船舶工兵隊の活躍である。

隠れ場所もない砂浜で敵機の機銃掃射を受けながらも、大発艇や小発艇で武器弾薬、そして兵隊を乗せて、運輸船団と海岸の間を何度となく往復したのである。

必死の覚悟で操船して、如何に国の為とは言え、船舶工兵隊の活躍は大変であったと・・あの当時の事を思い出す。

上陸作戦が終わって見ると、上陸地点に敵兵が居なかった事が幸いだった。

もしも、上陸地点に敵のトーチカや砲撃陣地があって、一斉射撃を受けているならば、もっと多くの死傷者や犠牲者が出た事であろう。

その後、上陸地点に多くの揚げ荷が残されて、その仕分けや輸送や整理が、私達の任務であった。

その間にも、船舶工兵隊は、すぐにスラバヤに向かっていたのである。

南洋編 4 ~敵前上陸開始~

2010年06月23日 | 人生航海
そして、船団の護衛艦の全艦は、直ちにジャワ島沖に急行して大海戦となる。

この海戦が、太平洋戦史に残るスラバヤ沖海戦であった。

その結果、日本海軍は、大勝利を収めたのであった。

この為に三日間程遅れたが、再び船団は、護衛艦とともにジャワ海を航進し、目的の地点に向かったのである。

ただ、制海権は手中に収めたが、制空権は未だに敵方が優勢であり、上陸地点が近づくと敵機の空襲も回数も多くなって、一段と爆撃が激しくなってきた。

敵方も死に物狂いで、戦闘機は、低空からでも攻撃してくるようになった。

爆弾投下や機銃掃射も頻繁になり、船団の何隻かにも多少の被害も蒙った。

我々は、その中を敵機の攻撃に曝されながら、各船は命令に従い必死で目的地のジャワ島クラガン沖の到着したのである。

投錨と同時に船舶工兵の果敢な活躍にて、各部隊は武器弾薬とともに敵前上陸の開始となったのである。

~ 時に昭和17(1942)年3月1日、早朝のことであった。~

上陸地点のクラガン海岸での敵機からの攻撃は凄まじく、敵の戦闘機が、入れ代わり立ち代わり、低空にて情け容赦も無く、機銃掃射を繰り返し攻撃してきたのである。

幸いにして、海岸地帯は椰子の木に覆われて、上空から視界がさえぎられて攻撃目標が見えずにいた。

そのためか、敵機は、目暗滅法に機銃掃射をしてきた。

その僅かな合間を見て、私達は揚げ荷の整理を行った。

爆音が聞こえると、直ちに荷物の陰や椰子の木に隠れて、敵機の去るのを待ってから、また作業を続けた。

その間、先発部隊は、すでに進撃を開始していた。

上陸地点のクラガン海岸で、まったくの偶然に吃驚したことがある。

偶然にも、船舶工兵隊にいた同郷の百島の年長者である藤本一二三さんと上陸海岸でバッタリと出会ったのである。

もし、あの日、あの場所での藤本一二三さんとの奇跡的な出会いがなければ、私が、あの敵前上陸に参加していた事は、郷里の誰もが信じてくれなかったであろう。

南洋編 3 ~スラバヤ沖海戦前~

2010年06月22日 | 人生航海
船団は、その後も南下を続けたが、毎日暑い日が続いて寝苦しかった。

そのため甲板に上がって涼む者も大勢いたが、このあたりまで来ると日中必ず何回かのスコールの土砂降りがあった。

雨が降るので、皆、石鹸や手拭いを持って甲板で自然のシャワーを浴びて、南方の暑さを凌いでいた。

フィリッピン南部のホロ島付近で、船団は、一時航行を停止したことがある。

詳しくは知らされなかったが、再び日本海軍の艦船に護衛されながら、マカッサル海峡の南下を続けた。

だが、この頃から敵の偵察機が高度の上空を以前よりも飛んで来るようになり、その後、いよいよ爆撃機も現れるようになった。

しかし、爆弾投下をしてきても、敵機の高度が余りにも高いので命中する事は無かった。

そのうえ、各艦船からの砲撃を恐れて、低空からの爆撃は一度もして来なかった。

もし低空からの爆撃があれば、各艦船からの高射砲や機関砲での一斉射撃をされるのである。

ただ、あの時に敵機からの爆撃があれば、我方も全面攻撃の開始となり、絶対に安全だったとは言えず、そう思い想像するだけでも怖い事態に至ったかも知れない。

しかし、目に見えぬ潜水艦からの攻撃が恐ろしいのは、当然の事だった。

それを恐れながらマカッサル海峡を南下中の2月20日を過ぎた頃、突然、ジャワ島沖に敵の大艦隊が現れる・・との報が入ってきたのである。

その為、全船団は、ボルネオ島のバリックパパン沖に引き返して、一時待機することになったのである。

南洋編 2 ~水葬の儀~

2010年06月21日 | 人生航海
夜に入り、高雄港の岸壁に接岸中の輸送船に全員が乗船を終えた。

船内は、多くの物質と人員で身動きも出来ぬほどであった。

船倉内は、三段作りで千人以上の兵隊が乗れると言う事だった。

そして、夜が明けぬうちに台湾高雄を出港して、フィリッピンのルソン島のリンガエン湾に向かったのである。

リンガエン湾に到着後、約50数隻の大船団を組むことになったのである。

数日後には、日本海軍の巡洋艦、駆逐艦、駆潜艇等の十数隻の艦船に護衛されて、フィリッピンのリンガエン湾から南方に向けたのである。

いわゆる、ジャワ島上陸作戦の開始となったのである。

主力部隊は台湾第四十八師団であったが、勿論他の部隊も多く参加した事は言うまでもなく当然の事だった。

船団の隊列は、二列縦隊で航進して、約500メートルぐらいの間隔を保ち、左右前後に護衛艦の守られていた。

悠々と航進を続ける大型輸送船団の威風堂々たる光景は、まさに壮観であり、日本国の威力の象徴だった。

既に制海権は我が方にあったので、時折高度で飛んで来る敵方の偵察機が気になるぐらいで、それほど怖いとは思っては無かった。

むしろ目に見えない潜水艦からの攻撃が不安だったのである。

船団の速力は、約10ノットを保ち、ジャワ島を目指して一路南下を続けた。

航進中のある朝・・船倉の底に兵隊が落ちて死んでいると、皆大騒ぎになった痛ましい事故があった。

所属の隊長と船長の指示により、遺体は水葬の儀に付されたのである。

初めて観る水葬式であった。

誰も悲しい別れの出来事で、遺体は日章旗に包まれて船尾から静かに海に降ろした。

見送る人々は全員合掌すると、長声一発汽笛を吹奏して見送ったが、悲しい別れであった。

他船も無線で知ったのか、遠くから寂しく汽笛の音が聞こえてきた。

遠洋航路での水葬の話はよく聞いていたが、私は、この時初めて水葬の儀に立ち会ったのである。




南洋編 1 ~台湾高雄~

2010年06月18日 | 人生航海
宇品に帰ってから、どのくらい経ったか定かではないが、私は以前と同じ事務職の仕事をさせられた。

その為に、その後何処へ行っても軍属工員のなかで事務員として扱われる事になった。

戦時中、それが私の運命とでもいうのか、その後も幸運が続く事を願う他何もなかった。

そのうち、私達に再び移動命令が出た。

或る夜のうちに乗船して、広島宇品港を出港したが、行く先は再び知らされない侭だった。

そして、数日後に到着したのは、又台湾の高雄の港であったのには、誰もが驚いたのであった。

しかし、前回と違い・・既に戦闘態勢に入っていたので、どことなく緊張感が溢れていたのである。

宿舎も以前と同じ小学校であった。

その後の南方侵攻作戦に備えての待機であった。

当然、私達の行動は秘密ゆえ、誰も知る事は出来なかった。

その度の此処での滞在は長引いて・・昭和17年の正月も台湾で迎えると云う、誰ともなく、そんな情報が駆け回っていたのであった。

その為か、私達の日常生活は、ある程度自由に外出も許されて、一般人とも変わりはなかった。

噂通り、正月を台湾の高雄で迎えることになった。

その後も暫く待機が続いた。

当分の間、移動の気配は全くないまま、毎日が何事もなく過ごしていた。

が、その間に、新しく多くの知識人が、加わって来たのである。

毎日の待機中に、その方々から豊富な知識を得ることも出来て、後々のために好い勉強となったのも、私の思い出のひとつなのである。

昭和17年1月も過ぎて、2月に入ってから、ようやく高雄を出る時が来たのである。