2017年6月19日に安倍首相が行った、通常国会での対応についての記者会見の内容は、「安倍首相(政権)の支持者」を対象に行われたものであり、「森友学園問題や加計学園問題の徹底的な事実究明」を求める「国民」に向けて行われたものではない。
「建設的議論からかけ離れた批判」という言葉は、民進党や共産党や自由党や社民党など野党の質問や意見を指す言葉であり、安倍氏は「政権奪還後、建設的議論を各党各会派に呼びかけた」にもかかわらず、野党は「全く分かっていない」と決めつけ、そのため安倍政権は、野党の質問への「応酬」(応答)ばかりしなければならない結果となったと言っているのである。また、安倍氏によれば「政策とは関係ない議論ばかりに多くの審議時間が割かれた」と「野党の質問」を「時間の浪費」とみなし、また、その「浪費」の責任を野党に擦り付けており、言外に「共謀罪法」を成立させるためにとった「中間報告」手法を、「止むを得なかった」と政権支持者に向けて理解を求め正当化する「言い訳」をしているのである。「国民に大変申し訳ない」と言っているが、この「国民」は「安倍政権支持者」を指しているのであり、その「国民」に「(心配させて)大変申し訳ない」と言っているのである。
また、野党の質問については、「印象操作」という言葉を使い、野党が「作り話」「憶測」によって、安倍政権が権力を私物化しているように思い込ませようとしたものであると装ったもので、野党が狡猾な体質を有する政治集団である印象を与えようとしたものである(これこそが「印象操作」である)。加えて、安倍氏が「正義感が強い」「潔白である」という印象を与えたいためであろう、「そのような議論に対して、つい強い口調で反論して」しまったと言っているのである。しかし、その内容については「政策論争以外の話を盛り上げて」しまった、つまり安倍氏は「くだらない無駄な内容で審議時間の浪費」と見做しているのであり、それに対して安倍政権の支持者に対して「深く反省している」と言っているのである。文書調査について二転三転し長い時間を要し、政権支持者の国民には「不信」を招いたとしているが、それについては反安倍政権の国民に対して「冷静に一つ一つ丁寧に説明する努力を積み重ねていく」と言っている。しかし、これまでその気がなく、して来なかった事をみれば、今後改めてするはずがないと考えて間違いない。
安倍氏が「くだらない無駄な内容で審議時間の浪費」と見做していると考えるのは、6月5日の「衆院決算行政監視委」におけるヤジ(加計学園問題に関する質問後、自席で「くだらない質問で終わっちゃったね」と発言。学園側と昭恵夫人との関係を問われ、「いい加減な事ばっかり言うんじゃないよ」と自席からヤジを飛ばし、委員長が不規則発言を注意)の内容にも表れているからである。併せてお友達の発言も紹介しておこう。
二階自民党幹事長は6月16日夜のBSフジの番組で加計学園問題での集中審議をめぐり、「大騒ぎをして頂いたが、この事で国会審議が左右される事は、ばかばかしい事だ」と発言していた。同日、高村副総裁も「野党の一部にある『下衆(心の卑しい者、身分の賤しい者の意)の勘ぐり』を払拭して頂きたい」と発言していた。どのような言葉を使用するかでその人の思想がわかる。「下衆」という言葉自体が極めて人を蔑む差別的な言葉であり、それを使用する人の思想が表れているといえる。
荻生田官房副長官は18日、都内の街頭演説で「私が行政を歪めた事は全くない。都議選の前に、自民党にダメージを与える事ができるという政局で、難癖をつけられている」と発言している。また、自民幹事長代行の下村博文氏は「前川さんが辞めた後に、ああだこうだと言うのは卑怯な話。今さら国会で聞くような事ではない。」と発言している。意味不明である。菅官房長官は19日、第三者による事実確認の必要性を問われ「荻生田副長官が国会で関与していないと答弁した事に尽きる」と発言している。このような理屈が通用するのなら警察は不要である。野党や反安倍の国民に対してはそれで済ませないだろう。安倍政権の閣僚は極めて幼稚な人格の持ち主しか存在しない。同日、竹下亘・自民党国対委員長は、国会閉会中の審議や証人喚問について「一拍おく。紛糾したら検討する」と発言している。事実の究明を回避しているとしか思えない。
話を戻そう。安倍首相は、行政が歪められたかどうか議論となったとも言い、「規制改革は歪んだ行政を糾すものだ。私が先頭に立ち、あらゆる岩盤規制を打ち破る」と発言した。これは、「これまでの行政が歪んでいた」という意味であり、安倍政権が安倍首相が先頭に立って「それを糾し」ているのだと、自己の正当化を主張しているのである。「権力の私物化」を隠蔽するために話を「スリカエ」ているのであり詐欺的論法である。
「画一的な発想にとらわれない『人づくり革命』を断行する」と言っているが、これも同じ論法である。「画一的な発想」とは、これまでの「日本国憲法」の三大原則である「国民主権、基本的人権の尊重、戦争放棄」を意味しており、それに「とらわれない」という人間を育てるという事なのである。つまり、「自民党憲法改正草案」を受け入れる人間を育てる事を意味するもので、それを正当化するための「スリカエ」の言葉なのである。
安倍政権は、敗戦までの大日本帝国政府と同じ体質である。「侵略戦争」を「大東亜共栄圏建設」という言葉に「スリカエ」て国民対し正当化し政府(天皇)の意志を強引に遂行したように。そして、その「スリカエ」が国民にバレてくるとその「企み」に関係する様々な「証拠資料」を「隠滅」したように。