現実を真に理解しないでわざわざ訪れ分かった顔をして形式的な社交辞令を述べる事は、最も人を馬鹿にした態度であり、反感を生むものであるから、無理してやってもらわない方が訪問され述べられる者としては心を乱されなくて済むのでその方がよいのである。しかし、そのように思われている事に気づいていないのであろうか。いや、そうではなく秋篠宮は分かっていながら別の目的をもってわざわざ訪れ「おことば」を述べたのである。
何の事を書いているかというと、2018年3月11日の「東日本大震災7周年追悼式」に秋篠宮と妃殿下が訪れ、「おことば」を述べた事についてである。その内容を精緻に分析してみると、それは被災者の真の現状を反映していない形式的な社交辞令であるだけでなく、時代錯誤的で国民を従え指図しているように感じさせるとともに、神聖天皇主権大日本帝国政府が「教育勅語」で強調していた「億兆心を一つにして世々その美をなせるは、此れ我が国体の精華にして、教育の淵源亦実にここに存す」という言葉の意味と同様のものを述べ広めようとしているように感じさせる。
たとえば、「ここに一同とともに」とか「私たち皆が」とか「皆で祈念し」などの言い回しをしているが、大日本帝国政府下で使用されたようなこんな言葉を手前勝手に使われては迷惑である。一人称で述べるべきである。特に「祈念し」という言い回しについては、憲法では個々人の異なる信教や思想信条を尊重すべきであると定めているからである。また、「被災地において、人々は幾多の困難を乗り越え、手を携えて、復興に向けての努力を弛みなく続けて来ました」の後の「こうした努力を支援するため」として「国」をそれ以外と同列に置き、「力を尽くしてきました」としているが、国=安倍自公政府はそれ以外と同列ではなく「支援」という立場ではなく、政府は国民生活に「責任」ある立場と認識すべきであろう。
原発事故(放射線)被害に対する認識も浅薄で他人事で、「子どもたちも、未来に向けてたくましく成長しています」としているが、子どもの甲状腺ガン発症の現状と将来への不安や避難地の学校でのいじめなどの問題についてまったく触れていない。また、被災者は、単純な意味の「不自由な生活を続けている」のではなく、避難解除されても単純な理由で「いまだに自分の家に帰還する見通しが立っていない」のではない。7年という長い年月の経過の中で、避難者(18年2月現在の全国への避難者数は7万3349人)は各家族の各構成員それぞれの生活上の変化に合わせて生活の基盤を避難地へ移し止まらざるを得なくなり、自ら望んだものでない帰りたくても帰れないという不条理な生活状態を背負わされ、日々の生活に追われるなかで、新しい生活や人生を選択せざるを得なくなったという事情があるのである。朝日新聞と地方自治総合研究所の避難者らに対する共同調査によれば、避難指示が解除された福島の4町村の帰還率は6.1%であり、7割が政府や自治体の除染やインフラ整備など解除に向けた取り組みが不十分とし、帰還しない理由は「住める状態ではない」「放射線被曝への健康不安がある」と答えている。「おことば」はそのような被災者の現実を真に理解し反映した言葉とは言えない。
被災者にとって(主権者国民の多くも)このような生活は決して納得できるものではないのは当たり前である。そのため、原発事故を巡る集団訴訟は全国で30ほど起こされているのであるが、「おことば」はその現状を懐柔し抑え込む効果を狙い、主権者国民に指図するように、それも大日本帝国下の「教育勅語」と同様の価値観で「これからも国民が心を一つにして被災した地域や人々に末永く寄り添っていく事が大切でありましょう」と述べているのである。この問題の解決は情緒的に「寄り添う」事で解決するようなものではない。これは安倍自公政権を支持する政治的発言以外の何物でもない。同じ政治的発言をするのであれば、安倍自公政権による「原発再稼働政策」を即刻廃止するよう述べなければ被災者はもちろん主権者国民は納得できないであろう。主権者国民は馬鹿ではない。