日立造船の起こりは、1881(明治14)年4月1日開業の様式造船所「大阪鉄工所」であった。その所長はイギリス人のエドワード・ハズレット・ハンター氏(当時41歳)であり、彼のワイフは日本人で平野愛子(当時31歳)であった。場所は大阪府西成郡春日出、六軒屋新田の松ヶ鼻。現在の此花区北安治川通3丁目。
「鉄工所」には、6馬力の蒸気機関を原動力に、スチーム・ハンマー、旋盤などいずれも外国製の機械を設置。宣伝文句は、「造船、陸用諸機械はもちろん、架橋あるいは耕作用ポンプ、その他大小諸鋳物の製作並びに修理などすべて各位の乞いに応ず」とした。ここに「日立造船」の歴史が始まったのである。
ハンター氏が大阪へ来たのは、1867(慶応3)年12月7日の兵庫開港、大阪開市の時。それまですでに、1865(慶応元)年に横浜へ来て、同郷の輸入商E・C・キルビー氏を手伝っており、関西へ来たのも神戸と大阪の川口居留地に店を構えた「キルビー商会」で働くためであった。
ワイフ・愛子は、大阪市西区江之子島上之町にあった府立工業奨励館近くの薬種商・平野常助商店の長女であり、その出会いは、1868(明治元)年9月、愛子が18歳の時、腸を患っての高熱で、明日をも知れない重体で、医者も匙を投げていたところへ、27歳のハンター氏がたまたま「キルビー商会」の使いで輸入薬品を届けに来て愛子の命を助けたという。
1873(明治6)年には、「キルビー商会」の同僚・秋月清十郎の重病も救い、これをきっかけに、秋月はハンター氏の片腕となり、西南戦争(1877)の海運業ブームの中で、「大阪鉄工所」を創設開業した。しかし、1881年に「松方デフレ政策」(緊縮政策)により経営難に陥った。その時、敷地提供者・門田三郎兵衛が「鉄工所」を譲り受けようとしたが、恐慌状態の中で経営に失敗。契約不履行から「鉄工所」は再びハンター氏の元へ戻った。ハンター氏が再開した「鉄工所」は、彼の「ジョンブル精神」(典型的英国人気質=不屈の精神)とワイフ愛子の協力により「日立造船」の土台を築いた。
ハンター氏の子の代で、「ハンター」を日本語読みにした「範多」家を起こした。1907(明治40)年に神戸市生田区北野町に建てた「ハンター氏邸」は、1966(昭和41)年3月、重要文化財に指定され、現在神戸市灘区青山の「王子動物園」の隣に移築されている。
ハンター氏は、1917(大正6)年、76歳で死去。彼の死後、ワイフ愛子は社会福祉事業に生涯尽力したが、1939(昭和14)年、89歳で死去した。
(2023年10月13日投稿)