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日立造船のルーツ「大阪鉄工所」の起こり

2023-10-13 13:16:29 | 文学・歴史

 日立造船の起こりは、1881(明治14)年4月1日開業の様式造船所「大阪鉄工所」であった。その所長はイギリス人のエドワード・ハズレット・ハンター氏(当時41歳)であり、彼のワイフは日本人で平野愛子(当時31歳)であった。場所は大阪府西成郡春日出、六軒屋新田の松ヶ鼻。現在の此花区北安治川通3丁目。

 「鉄工所」には、6馬力の蒸気機関を原動力に、スチーム・ハンマー、旋盤などいずれも外国製の機械を設置。宣伝文句は、「造船、陸用諸機械はもちろん、架橋あるいは耕作用ポンプ、その他大小諸鋳物の製作並びに修理などすべて各位の乞いに応ず」とした。ここに「日立造船」の歴史が始まったのである。

 ハンター氏が大阪へ来たのは、1867(慶応3)年12月7日の兵庫開港、大阪開市の時。それまですでに、1865(慶応元)年に横浜へ来て、同郷の輸入商E・C・キルビー氏を手伝っており、関西へ来たのも神戸と大阪の川口居留地に店を構えた「キルビー商会」で働くためであった。

 ワイフ・愛子は、大阪市西区江之子島上之町にあった府立工業奨励館近くの薬種商・平野常助商店の長女であり、その出会いは、1868(明治元)年9月、愛子が18歳の時、腸を患っての高熱で、明日をも知れない重体で、医者も匙を投げていたところへ、27歳のハンター氏がたまたま「キルビー商会」の使いで輸入薬品を届けに来て愛子の命を助けたという。

 1873(明治6)年には、「キルビー商会」の同僚・秋月清十郎の重病も救い、これをきっかけに、秋月はハンター氏の片腕となり、西南戦争(1877)の海運業ブームの中で、「大阪鉄工所」を創設開業した。しかし、1881年に「松方デフレ政策」(緊縮政策)により経営難に陥った。その時、敷地提供者・門田三郎兵衛が「鉄工所」を譲り受けようとしたが、恐慌状態の中で経営に失敗。契約不履行から「鉄工所」は再びハンター氏の元へ戻った。ハンター氏が再開した「鉄工所」は、彼の「ジョンブル精神」(典型的英国人気質=不屈の精神)とワイフ愛子の協力により「日立造船」の土台を築いた。

 ハンター氏の子の代で、「ハンター」を日本語読みにした「範多」家を起こした。1907(明治40)年に神戸市生田区北野町に建てた「ハンター氏邸」は、1966(昭和41)年3月、重要文化財に指定され、現在神戸市灘区青山の「王子動物園」の隣に移築されている。

ハンター氏は、1917(大正6)年、76歳で死去。彼の死後、ワイフ愛子は社会福祉事業に生涯尽力したが、1939(昭和14)年、89歳で死去した。

(2023年10月13日投稿)

 

 

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大竹しのぶ旅記事「まあいいか」:吉田松陰「松下村塾」への偏向した評価、メディアも共犯

2023-10-13 10:25:14 | 日本人

 2020年10月23日の朝日新聞「大竹しのぶの『まあいいか』」が、萩、そして吉田松陰の私塾「松下村塾」を取り上げていた。大竹しのぶは「たくさんの弟子たちが松陰様の生き方を学び、そこから日本のリーダーが輩出した松下村塾。過去は変える事はできないが未来は変えられると言った彼の言葉を胸に刻む」と書いている。

 しかし、吉田松陰やその私塾「松下村塾」について、大竹しのぶによるこの程度の説明で済ませてよいものであろうか。これを読んだ人は間違いなく、吉田松陰を「偉い人」「立派な人」「その後の日本の発展、日本国民にとってかけがえのない人」というような印象を持った事だろう。朝日新聞もそれを「狙い」として載せた記事だと断じて良いだろう。なぜなら、歴史学会においては吉田松陰の評価はそのように決めつける事はできないものだからである。だから、大竹しのぶの評価は偏向したものとなっていると言って良いのであり、朝日新聞はそれを分かったうえで記事にしたと考えて良いと思う。

 吉田松陰を手放しで称賛してはならないのである。それは一面的な偏向した評価である。吉田松陰の思想として、今日の主権者国民が、特に知っておかなければならない事は、天皇支配に基づく「領土拡張思想」「侵略思想」である。

 松陰は「安政の大獄」事件(1858~59年)で、徳川幕府井伊大老にとっての危険人物として死刑に処されたが、その直前に、それまでに「松下村塾」で教授指導した弟子たちに向けて『幽囚録』という「遺書」を遺している。それを以下に紹介する。

「日昇らざれば則ち傾き、月満たざれば則ち欠け、国盛んならざれば、則ち衰ふ。故に善く保つものは徒にそのある所を失ふ事なきのみならず、又その無き所を増す事あり。今急に武備を修め、ほぼ備わりほぼ足らば、則ち宜しく蝦夷(北海道)を開墾して諸侯を封建し、隙に乗じて(ロシア帝国の)カムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯とひとしからめ、朝鮮国を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州中国清朝)の地を割き、南は台湾中国清朝)、ルソンスペイン領)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし」

という内容であり、彼の思想は、尊王攘夷の立場に立ち天皇支配に基づく「領土拡張思想」「他国侵略思想」であり、神聖天皇主権大日本帝国政府による台湾朝鮮国を手始めとしたアジア征服政策大きな影響とその正当性を与えたのである。そして、吉田松陰の私塾「松下村塾」で教えを受けた塾生たち(伊藤博文など)が松陰の意思を実行していったのがその後の日本のアジア太平洋戦争敗戦までの歴史であったのである。

 また、神聖天皇主権大日本帝国政府は学校教育においても、吉田松陰を高く称賛し、尋常小学校「修身科」の教材としても重視し、子どもたちの心に天皇崇拝軍国主義、国家主義、全体主義刷り込んだのである。「教材」内容は、「自信」という「徳目」で、

「……松陰は外国の事情がわかるにつれて、我が国を外国に劣らないようにするには、全国の人に尊王愛国の精神を強く吹き込まなければならないと、かたく信じて、一身をささげて此の事に尽くそうと決心しました。27歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて弟子たちに内外の事情を説き、一生けんめいに尊王愛国の精神を養うことにつとめました。松陰は至誠を以て人を教えれば、どんな人でも動かされない者はないと、深く信じて、「松本村は片田舎ではあるが、此の塾からきっと御国の柱となるような人が出る」と言って、弟子たちを励ましました。松陰が松下村塾を開いていたのは、僅かに二年半であったが、はたしてその弟子の中からりっぱな人物が出て、御国の為に大功をたてました。

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

というものであった。

そして、神聖天皇主権大日本帝国を理想とし回帰を狙う安倍自公政権が、この「松下村塾」を世界遺産に申請し、2015年に世界遺産として登録されたという現実が今あるのである。

(2020年10月26日投稿)

 

 

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