つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

大蔵省管理局編『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(1947年12月)の朝鮮編の朝鮮観

2023-10-09 12:33:12 | 朝鮮問題

 神聖天皇主権大日本帝国政府大蔵省管理局が敗戦後まもなく編纂を開始し、1947(昭和22年)12月に完成させた調査報告書に『日本人の海外活動に関する歴史的調査』なるものが存在する。このようなものを作った理由は報告書によると、「連合国に対する賠償」問題などに備えるためであるとする。「海外活動」の内容は、経済が中心で、その「海外活動の性格」については、「これらは侵略とか、掠奪とかいう言葉で、一列に言ってのけられる取引の結果ではなく、日本及び日本人の在外財産は、原則としては、多年の正常な経済活動の成果であった。(略)これは連合国に対する弁解という意図からでは勿論なく、吾々の子孫に残す教訓であり(略)。日本及び日本人の在外財産の生成過程は、言わるるような帝国主義的発展史ではなく、国家或は民族の侵略史でもない。日本人の海外活動は、日本人固有の経済行為であり、商取引であり、文化活動であった。」などとし、日本人の海外活動は侵略ではなく、あくまで正当なものであり、賠償要求の対象となるものではないと主張するものとみなす事ができるもので、また敗戦直後の政府及び為政者の見解であったという事も表しているといえるものである。

 「朝鮮編」は全35冊のうち第2冊から第11冊までの計10冊である。朝鮮統治の最高方針は「同化政策」「一視同仁政策」であったとして礼賛し、「内鮮一体を具体化する為の歴代総督諸政策は、統治者の意図に於て革新的同化政策と言うを憚らない。蓋し民度低き後進者たる朝鮮人を内地人のレベルに迄引き上げ、内鮮人を全く平等にし、内地人の優越的差別待遇又は感情を絶滅せんとの崇高な目的を以て計画推進されたと言う面から見る場合、進歩的であり、革新的であり、又民主的である事は、異民族統治史上その類を見ないというも過言ではあるまい。(略)日本の一視同仁政策は決して洗練された植民政策ではなかったが、その根本においては、日本の朝鮮統治という枠内において所謂植民地体制を止揚せんとした革新的、民主的性格を有っていたという事ができ、その意味において世界植民地史上一つの特異な型を代表するものといってよいであろう」とする。そして、同化政策=一視同仁政策とは、「究極の目標は朝鮮の四国九州化である」とし、朝鮮を抹殺して一切を日本に吸収する事とする。

 上記の政策を実施した理由については、「朝鮮統治の如斯き根本方針は、過去数千年に亙る日韓交渉の歴史、併合に至る経緯、並びに日本と朝鮮とが地理的に近接すると言う客観的事情に由来する事の外、日鮮両民族が祖先を共にしその発生の根源を同じくするのみならず、永き歴史の経過に於て血族相混淆せる史実の徴すべきもの歴然たり。両民族が人種的にも将又民族的にも極めて近く、もともと血を同じうせるものなるを以て遂に混然一体となる可能性あり、との歴史上の信念に由来するものである」との日鮮同祖論に基づいている。この論は「皇国史観」と不可分の関係で、その核となっている『日本書紀』の朝鮮観が大日本帝国政府の朝鮮支配の支配原理に再編されたという事である。そして、「日本の朝鮮に対する関係は、普通の植民地なる観念を以ては律し得べからざるものであり、日本は所謂植民地支配、則ち彼は搾取の対象であり、本国及び本国人の利益の為に統治され支配さるるものなりとの意向を以て彼に臨むべきに非ずとなしたのである」とする。そして統治の実態の内容について、統治の実績を誇示し、日本の統治期間中に、朝鮮がいかに成長したか、統治の効果がいかに大きかったか、という成果を示し、根本方針は正しく、実際の統治内容も立派であったとする。

 「皇民化運動」についてはある程度の誤りを認めて、「一視同仁の皇恩が等しく朝鮮人に及ぶという意味においては誤りではなかったが、朝鮮民族たる事を止め心底から大和民族になる事ができると考えたのはあまりにも性急なる要求であった」とする。しかし、大和民族になる事ができると考えたのは、朝鮮人の大多数が日華事変(日中戦争)以来日本人との運命共同体たる意識を濃化するに至り愛国心の昂揚顕著なるものがあったからである」とし、朝鮮人の愛国心の昂揚を過大評価したために、皇民化運動の行き過ぎが生まれたとする。

 「教育」についても、学校その他の教育施設を誇示して、併合以来短期間に就学率を高めたのは大日本帝国政府の文化的事業であるとする。つまり、大日本帝国政府による朝鮮統治は朝鮮人の生活をあらゆる面で向上させたとする。

 このような朝鮮統治礼賛論の根拠は、朝鮮の「停滞論」である。「朝鮮編」第1章「旧来朝鮮社会の政治・経済・社会・文化の性格」では開国前の朝鮮社会について、「李朝五百年間、いつの時代を取り上げてみても、同様の生活様式があり、同様の思考形式が支配し、生産方法の躍進もなく、消費生活の変化もなく、常に同様の非難が繰り返さるるに拘わらず、反省も改革も行われなかった。常に両班は支配し常民は屈服し、常に朱子学は金科玉条であり、常に原始的農業が行われ、常に国民は最低限の生活に満足させられた。かかる酔生夢死的時間の経過を包括的象徴的にそのように名づけるのである」とし、大日本帝国政府による統治により朝鮮が発展したとして統治を美化し正当化する。

 この「停滞論」については、日韓国交正常化予備交渉において、日本側全権久保田貫一郎が、上記と同趣旨の「日本の朝鮮統治は恩恵を与えた」発言をした事から韓国側が重大問題視し、交渉が中断する事態を引き起こした。

(2022年2月25日投稿)

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝鮮国問題の根源はアジア太平洋戦争後の米政府の朝鮮半島処理政策にある

2023-10-09 09:27:20 | 朝鮮問題

 2016年4月25日の朝日新聞に「演習やめれば核実験やめる 米で北朝鮮外相」の見出しの記事が載った。外相の発言内容は「米国が朝鮮半島周辺での韓国との合同軍事演習をやめれば、北朝鮮も新たな核実験をやめる用意がある」「対立が続けば2カ国だけでなく、世界全体に破滅的な結果となる。米政府が敵視政策をやめる事が肝心だ。そうすれば北朝鮮も同様に対応する」という内容であったと報道した。

 「朝鮮戦争」の休戦協定は締結後63年目を迎えた今日においても継続している。これまで朝鮮国は「平和協定」への切り替えを求めてきたが、米国政府には応じる気配はまったくなく、それとは正反対に核搭載可能なB52を韓国に派遣し、朝鮮国に脅威を与え威圧し、壊滅を目的とする戦争を挑発していると考えられる対応を続けてきた。これまでの自民党日本政府も米国の政策を支持追従してきたが、現在の安倍自民党政権はこれまで以上に「朝鮮国」に対し一方的に「敵視政策」を強化している。また、日本のメディアも安倍政権に翼賛して、国民に対して「朝鮮国」について「独裁国家」「暴力国家」「テロ国家」などの表現を使用し、「いかに危険な国家であるか」という内容だけの報道を続けている。しかし、国民は常にメディア・リテラシーを駆使してメディア情報をそのまま信じる事なく主体的に客観的に判断し、朝鮮問題解決にとってとるべき最善の方法を支持し行動支援すべきである。この事に関して非常に参考になるのが4月26日の朝日新聞「インタビュー 北朝鮮に向き合う」の記事で、元公安調査庁調査第2部長の坂井隆氏は次のような事を述べている。それは、

「日本の報道では北朝鮮だけが行動をエスカレートさせているかのようですが、北朝鮮の視点から見れば、『米国の脅威を受けている』という事が大前提になっています。そのなかで、米韓が大規模軍事演習を始めたり、正恩氏を狙う『斬首作戦』がささやかれたりする事に北朝鮮は対応しているつもりであり、お互い様という面があります」という内容です。

 これより後の内容は、昨年に当ブログに投稿したものの再掲ですが、改めて読んでいただければありがたく思います。

 今日の朝鮮国をめぐる問題の根源は、1945年8月15日から1950年に勃発した朝鮮戦争(1953年7月27日休戦協定合意)に至るまでの歴史にある。それゆえ、この経過を知る事は、今日の朝鮮国をめぐる問題の理解に役立つであろう。以下にその経過を紹介します。

 8月15日は、大日本帝国では天皇による終戦詔勅の放送日(9月2日、降伏文書調印)である。1910年以来大日本帝国の植民地下にあった「朝鮮」ではその15日には「朝鮮建国準備委員会」「人民委員会」が結成され、9月6日には「朝鮮人民共和国」を発足(主席:李承晩、副主席:呂運亮、内務部長:金九)させた。ところが米政府は38度線で「分割占領」する事をソ連に提案し、米国軍を9月7日に南朝鮮に進駐させ軍政を布いた。アーノルド軍政長官は10月10日には「人民共和国」を否認し、弾圧した。そして、12月、「米英ソ3国外相会議」、「米ソ合同委員会」管理下で「臨時政権」を具体化し、同政権を米英ソ中4か国の5か年間の「信託統治」下に置く事に合意(モスクワ協定)し、28日に発表した。

 しかし、即時独立を求める朝鮮民衆は信託反対運動を始めた。金九らは「信託統治反対国民総動員運動委員会」を結成。46年1月に「朝鮮共産党」が信託賛成方針を打ち出し、「モスクワ協定」支持集会を開催。それに対して、呂運亮・許憲・朴憲永らは「民主主義民族戦線」を結成。朝鮮国内は「信託統治」の賛否で分裂した。米軍政府はこの分裂を利用し、金九・李承晩・金奎植らに「大韓民国代表民主議院」を構成させ、これを米軍政府の「最高諮問機関」とした。

 46年3月20日、「米ソ合同委員会」が開催されるが、「朝鮮臨時政府」樹立のための「協議対象団体」の選定基準で対立。5月21日にも開催されるが再び対立した。この頃、米軍政府は「38度線の無許可越境禁止」布令を出した。

 47年9月23日、米政府は「モスクワ協定」を無視し、一方的に「朝鮮独立問題」を「国連総会」に持ち込んだ。ソ連は朝鮮問題の国連討議は「モスクワ協定」に違反している事、戦後処理の問題を国連で討議するのは「国連憲章」違反である事などを理由として反対した。

 国連では総選挙を実施して統一した政府樹立を求め、第2回国連総会では、「国連の監視下で48年3月31日までに、朝鮮で総選挙を実施する事と、選挙後できる限り速やかに国民政府を樹立する事」などを決議した。しかし、

 48年2月26日、米政府は「国連総会」の開催を提案し、「国連臨時朝鮮委員会」が接近できる地域「(南朝鮮)だけでも選挙を実施する事(単独選挙)」を決議した。

 46年春以来、「民主主義民族戦線」に結集した南朝鮮民衆は、米軍政府に抵抗して各地で決起した。「46年9月3日鉄道ゼネスト」「46年10月人民抗争」「47年3月22日ゼネスト」「48年2月7日全国ゼネスト」などである。しかし、

 48年3月1日、米国占領軍司令官ホッジは「単独選挙」を5月10日に実施する事を発表した。そのため、48年4月3日には済州島蜂起が起こった。「4・3蜂起事件」である。

 48年4月20日には「単独選挙」に反対する「全朝鮮政党社会団体代表連席会議(平壌)」が開催され、全朝鮮の56の政党社会団体の695人の代表者(うち南朝鮮から40団体395人)が参加し、共同声明を発表した。その内容は以下の通りである。

①外国軍隊の即時・同時撤退、②その後に民主主義臨時政府を樹立する事、③同政府は秘密投票により、統一的朝鮮立法機関選挙を実施する事、④朝鮮憲法を制定し、統一的民主政府を樹立する事、⑤南朝鮮の単独選挙に断固反対する

 しかし、「単独選挙」が「李承晩」「大韓独立促成国民会」ら一部の団体と無所属だけで強行された。 

 48年5月31日、単独選挙で選ばれた国会議員で構成された「憲法制定議会」を開催し、7月12日憲法承認、20日には李承晩大統領を選出した。1948年8月15日には「大韓民国」が成立した。

 「大韓民国」成立後の10月、麗水・順天で軍隊の反乱が起こり、智異山一帯のパルチザン闘争が起こり、「大韓民国」政府は11月16日には「国家保安法」を制定してこれに応じた。

 朝鮮北部では、戦争中、ソ連の軍隊にいた「金日成」を北朝鮮のトップにすえ、「北朝鮮臨時人民委員会」をつくった。48年6月には「南北朝鮮諸政党・社会団体指導者協議会」を開催し、「南北朝鮮代表者による朝鮮中央政府樹立」を決定。7月10日には、北朝鮮人民会議第5次会議で「朝鮮民主主義人民共和国憲法の実施」と「全朝鮮の朝鮮最高人民会議選挙実施」を決定。8月25日を選挙日と決定し、572人(南朝鮮360人、北朝鮮212人)を選出した。9月2日には「第1回朝鮮最高人民会議」を開催、8日には「憲法承認」し、9日には「朝鮮民主主義人民共和国」を成立させた。

    最高人民会議議長    許憲(南朝鮮代表)

    内閣首相        金日成

    副首相         朴憲永(南朝鮮代表)

 1950年6月25日、朝鮮戦争の開始。南部でのパルチザン闘争が直面した困難に対して、朝鮮人民軍(ソ連軍は48年末までに撤収し、国防の主体として48年2月8日創設。米軍は49年6月に撤退)を投入して支援する事を決断し、朝鮮戦争に突入した。

 大韓民国の1950年5月実施の第2回総選挙では与党は少数派に転落。しかし、朝鮮戦争の結果、大韓民国の反共体制は強化され、米政府の軍事・経済援助の増大に支えられて李承晩政権の支配体制が確立していった。

 米政府は国連に介入を働きかけた。米政府は国連の「安全保障理事会」緊急会議で、ソ連欠席(中華人民共和国の国連加盟を提案したが台湾国府政権を正統とする米国側に阻まれて、50年1月13日以来、安保理をボイコットしていた)のまま、共和国を「侵略者」と断定・非難決議を出させ、国連による「軍事制裁」を決定させ、「国連軍司令部」(東京)を設置すると同時に、「李承晩派」の側に強力な軍事援助を開始した。「国連軍」側の派兵国は16を数えたが、その大部分は「米国軍」であった。また、旧日本軍の「731部隊」に関連する「細菌兵器」も使用した。

 1953年7月27日、「休戦協定」が結ばれた。大韓民国(李承晩)は拒否したが、国連軍(米国軍=М・W・クラーク)と共和国(金日成)、中国(彭徳懐)が調印して成立した。

 朝鮮戦争の結果、朝鮮半島の2つの国家の分断対立が固定化された。

 日本政府との関係では、日本は米国の空・海軍の出撃基地、陸軍の中継補給基地(兵站基地)とされ、船舶・鉄道などは米国軍の軍事目的にしたがって最大限に使用され、沖縄の「嘉手納空港」が本格的に拡張された。日本の産業は、米政府の「特需」に結びついて下請け軍需工場色を強め、経済復興を促進するきっかけとなった。また、警察予備隊、保安隊を設置し、「再軍備」という「逆コース」を選びとり、「サンフランシスコ講和条約」と同時に結んだ「日米安保条約」により、米政府に対する従属的地位とアジアにおける反共陣営の一員(共産主義の防壁)としての地位を歩む事を決意した。その政策を続けてきたのが自民党であり、それをさらにステップアップするだけでなく、「日本国憲法」を全面的に改め、国家体制をも一挙に「大日本帝国」へと回帰(逆コース)させようとしているのが安倍政権という事である。

(2017年4月16日投稿)

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする