2018年のハロウィンの様子についてのテレビ報道を見て頭に浮かんだ一句を紹介したい。
「子ら醒めて 大人騒ぎ立つ ハロウィン
鹿鳴欧化の 仮装舞踏に似て」
神聖天皇主権大日本帝国政府にとって、1858年に締結した日米修好通商条約における不平等内容(領事裁判権容認、関税自主権欠如、片務的最恵国待遇)を改正する事は外交上の最大課題であった。井上馨も1879年に外務卿(のち外務大臣)に就任し、法権・税権両面の改正をめざして交渉に臨んだ。彼は神聖大日本帝国を西欧化する事が欧米諸国が日本を対等の国家として見做す早道と考え、「我が帝国を化して欧州的帝国とせよ。わが国人を化して欧州的人民とせよ。欧州的新帝国を東洋の表に造出せよ」と欧化主義を主張した。それが1883年に完成させた鹿鳴館という迎賓館を中心とした接待外交であり、鹿鳴館時代(1883~87年)である。
鹿鳴館では毎夜のように外国貴賓の接待としてダンス・パーティが催され、皇族・華族・政府高官らが着飾った洋装の夫人・令嬢を伴って出席した。その極め付きが1887年4月20日の首相官邸で催された仮装舞踏会であった。そこでは、北白川宮はイスパニアの士官に扮し、伊藤博文首相夫人はその妻となり、伊藤はヴェニスの貴族となり、三条実美内大臣の娘はヨーロッパの花売り娘となり、山県有朋内務大臣はかつての長州藩奇兵隊長の服装をし、渡辺浩甚東京帝国大学総長は僧西行の姿となった。ヨーロッパ各国の外交官たちは抱腹絶倒した。また、1882年に来日したフランス画家ビゴーは1887年5月の「トバエ」6号「社交界に出入りする紳士淑女」で「洋装をしているが鏡に映る顔は猿(猿まねの意)」と欧化風俗を風刺した。
話を戻すが、井上のこのような条約改正をめざす姿勢は、国民の不評を買い大臣辞任に導き、鹿鳴館時代は終わるのである。
そして、神聖天皇主権大日本帝国は、反鹿鳴館、反井上馨、反欧米の風潮の高まりのなかで、排外主義が進行し、ナショナリズムが吹き荒れる事となるのである。
※ハロウィンについては、幕末に伊勢神宮(天照大神)の神符(お守り札)が降ったとして起こった「ええじゃないか」の集団騒乱に似ているとする人もいる。それは幕末の、大政奉還から王政復古の大号令に至る間(1867年7月~12月)に行われた民衆による世直し(社会変革)を求める騒乱状態をさし、倒幕派のトップである岩倉具視らが目的達成するためにこの混乱を企てたといわれている。8月中旬『皇太神宮』のお札が空から降ってきたとのうわさが、名古屋方面に流れた事にはじまり、東海・近畿・四国などの各地に及んだ(京坂地方が最も盛ん)ようであるが、「岩倉公実記」によると、「あたかもこの時にあたり京師に一怪事ある。空中より神符へんへんと飛び降り所々の人家に落つ。その神符の降りたる人家は壇を設けてこれを祭り、酒肴を壇前につらぬ。知ると知らざるとを問わずその人家に至る者の酔飽(飲み放題、食べ放題)に任す。これを祝して吉祥となす。都下の士女は老少の別なく綺羅(美しい着物)を着て男は女装し、女は男装す。群を成し隊をなす。ことごとく俚歌(民謡)を唱い太鼓を打ちて以て節奏をなす(調子を取る)。その歌辞(歌詞)は『よいじゃないか、えいじゃないか、くさいものに紙をはれ、破れたらまたはれ、えいじゃないか、えいじゃないか』と云う。……8月下旬に始まりて12月9日王政復古発令の日に至りて止む」とある。
(2018年11月1日投稿)