1918年秋に起きた「白虹事件」は、同年8月3日に発生し9月にかけて全国的な広まりを見せた米騒動の中で、新聞が寺内正毅内閣(政党政治家を締め出し、軍と官僚のみで1916年に組閣)の失政を厳しく批判する姿勢を強めた事に対し、神聖天皇主権大日本帝国政府が徹底的な弾圧を行うために引き起こした謀略事件であった。
事の起こりは、1918年8月26日付の「大阪朝日」が夕刊の記事文中に「大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。「白虹日を貫けり」と昔の人が呟いた不吉な兆しが……人々の頭に電の様に閃く」などの文章があった事による。この文章は、前日25日に開催された、名古屋以西の新聞・通信社86社の代表が寺内内閣弾劾決議のために集まった関西新聞社記者大会の様子を伝える記事の一部であった。
「白虹日を貫けり」という言葉は、中国の故事では「兵乱や国家滅亡の予兆」を意味する言葉とされていたが、新聞への徹底的な弾圧の機会を狙っていた帝国政府はこの文章を、「記事は天皇制国家への敵意を含み、その掲出は皇室の尊厳を冒瀆、政体を改変、朝憲を紊乱しようとする行為に当たる」とこじつけ、新聞紙法第41条違反などとして「大阪朝日」を発売禁止処分とし、発行人・記事執筆者を起訴(禁固)し、大阪検事局も動かして新聞を取り潰すための発行禁止を目論み提訴した。
帝国政府の姿勢に勢いづいた右翼は、「国体変更の意思」「不敬」を理由に、村山龍平社長を襲撃する事件を起こした。
存亡の危機に立たされた「大阪朝日」は同年10月15日には、村山社長が退陣し、鳥居素川編集局長、長谷川如是閑社会部長、大山郁夫、丸山幹治ら幹部記者が退社、河上肇など社友の京大教授グループも退社した。
さらに同年12月1日には紙面に、「皇室を尊崇して国民忠愛精神を鼓励し……不偏不党公平穏健の八字をもって信条と為す(国体や政府を批判しない)」とする社告を載せるまでに至った。
結果的に、発行禁止処分を免れたが、「大阪朝日」はその主体性を放擲してでも会社の存続を第一とする経営の道を選ぶ事となったのである。
しかし、新聞(報道機関)が、このような事態を招く事になった背景には、それまでの新聞(報道機関)の対応・姿勢に原因があったのである。それは1910年の「大逆事件」に対しての対応・姿勢にあった。
新聞(報道機関)は、大逆事件に対して、それが思想・表現の自由への弾圧であると理解できず、自分たちには関係のない特別な犯罪事件として対応したため、天皇制政府への警戒心と批判力を欠いていたのである。そのため「白虹事件」という形で自らも天皇制政府によって弾圧を受ける事態を招いたのである。
現代の新聞(報道機関)の昨今の皇室報道は、この過去を教訓としているとは思えない。それだけでなく、理念や信条も大切にせず、再び自ら進んで、神聖天皇主権大日本帝国への回帰をめざす安倍自公政権に、責任の自覚もなく(自覚した上であれば相当な悪人であるが)迎合しているだけのようである。
しかし、国民は未だに「皇室」が大好きだなあ。「皇室」の存在が日本の民主主義(人権尊重意識)の発展を阻害する「重石」となっているのであるが、その事を理解できずに。この国民の意識が変わらない限り、皇室に対する新聞(報道機関)の対応・姿勢も変わる事はないであろう。そして、国民の「皇室」大好き意識を利用する安倍自公政権の皇室を利用する対応姿勢も変わらないのである。
(2019年11月11日投稿)