1941年12月、日本軍は米領グアムを占領し、「大宮島」と改称し、支配した。当時、グアムには日本人の将兵や行政官や民間人に加えて、強制連行した朝鮮半島出身の人々(道路整備や軍事施設の建設に使役)、近くの島から移住してきた日本語を話すチャモロ人、多くの沖縄県出身の契約労働者(南洋興発株式会社という日本資本の製糖会社)が住んでいた。日本語を教育する学校が建てられ、日本式の稲作水田が拓かれた。交番や神社や料亭、そして「慰安所」も作られた。
現存する日本軍が製作した大宮島の地図には、全島地図と島の中心部を拡大した部分地図の2種類ある。日本軍は全島の地名を日本風の呼称に変えたが、部分地図には、須磨(スマイ)の村が描かれ、警備隊の分支隊や駐在所など島の主要な施設が集中していた。須磨村には須磨神社があり、多くの軍関係施設が存在した。そして、その近くに「慰安所」と書かれた建物が存在する。
グアム大学の元教授の著書『運命の上陸』(1995年)によると、「日本軍は軍隊とともに42人の娼婦を連れてきた。彼女たちのほとんどは朝鮮半島出身の「慰安婦」であり、さらに5つの慰安所のために住民から15人」の現地女性を「雇った」という。
1944年7月、大宮島を守る日本軍と上陸を狙う米軍が交戦し、同年8月、島は再び米国の領土となった。そして、戦後、戦時下の大宮島における強制売春の罪(戦犯)で、1945年8月27日に死刑判決を受けた日本人シノハラがいた。