公益法人日本相撲協会は、親方になる条件に「日本国籍を有する者」としたのは1976年であった。その理由は「明らかではない」というが、なんと奇妙で無責任な組織というべきだろう。きちんと説明できないというのである。しかし、漏れ伝わる事としては「伝統文化やしきたりを継承する際、外国出身の親方では指導がおろそかになると懸念したのではないか」と言われたりしているようだ。ところで、その理屈によれば、日本国籍を有する人間はすでにそれだけで、親方になる条件を具えている事になるが、それは誰もを納得させる説明とはいえないと思うけれどどうだろう。生れながらに自分自身の意思でなくとも日本国籍を有すれば、それだけですでにその人間に何かが備わっているというのであろうか。現代の日本人の価値観は多様化している。日本国籍を有しておれば、すべての人間が共通の何かを有していると言うのは幻想であり誤解している。であれば、親方になる条件を具えていると単純に決めつけて良いものだろうか。もし決めつけて良いというのであれば、理路整然と公けに説明できるだろうしすべきであろう。しかし、そうしようともしない。なぜだろう。また、これまで誕生した外国出身の親方がそれぞれの時点で日本国籍を取得した事によって、それまでと一転して、なぜ親方になる条件を有する事になったといえるのかを説明すべきであろう。
また、伝統文化というが、伝統とは単に長い年月を受け継いできているという事だけではなく、それ以上に大切な事は、非常に多くの人間が「尊重」し「継承」してきたという状況が存在する事なのである。たとえどれほど長い年月、何らかの形で継承してきても、多くの人が重要視していなかったり、否定的に見ていたり、無関心になってしまっている場合は「伝統」と言うべきではない。それをなお「伝統」と言おうとする人間が存在するならば、その人間たちは「偏執(者)」、つまり「偏見を固執して他人の言説を受け入れない(だけの人間である)」と言うべきである。また、「偏執狂」、つまり「ある物事に執着し、その事では異常な行動まで行う精神病状(にある人間)」と言うべきであり、普遍性のない価値を偏執する、独善的で傲慢な人間そのものであると言うべきである。当然、主権者国民の納める税金との関係で公益法人として認めるわけにはいかない。
それに比べて白鵬は、なんと普遍的に支持される国際的な感覚や理解を有している国際人である事だろう。不明朗で無責任な姿勢を続ける公益財団・日本相撲協会(おそらく安倍自公政権を翼賛、忖度する価値観を有する人間集団であろう)は誰からも世界からも認められないものであり恥じ入るべきものである。彼はモンゴル国籍離脱と日本国籍取得(帰化という言葉を使用するのは誤りである)について述べている。「人間そのものが変わったわけではない。自分の国を愛しているから、日本という国を愛せる。また、両親、きょうだいを愛しているからこそ、この国の人々も愛せる」と。
(2019年9月9日投稿)