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甲午農民戦争を理由に対清戦争開始する大日本帝国政府の計略

2024-10-12 17:56:46 | 朝鮮問題

 甲午農民戦争(1894年3月29日~)は、朝鮮国支配を巡って、清国政府と神聖天皇主権大日本帝国第2次伊藤博文政府がしのぎを削り、大日本帝国政府が清国政府に対して戦争行為によって結論を出した日清戦争のきっかけとなった事件である。

 1894年6月2日、外務大臣陸奥宗光、参謀次長川上操六、外務次官林董らが甲午農民戦争を理由にして朝鮮国への軍隊派遣を相談していた。その前月20日には、川上参謀次長は参謀本部員伊地知少佐を朝鮮国へ派遣し、5月下旬には寺内正毅大佐(後に初代朝鮮総督)らに密かに出兵準備を命じ、6月1日には陸軍大演習用を名目に日本郵船会社から船舶を借りていた。5月22日には、ソウルの杉村代理公使が陸奥外務大臣宛に、「農民戦争」の鎮圧のために清国政府が出兵するおそれがあるので、大日本帝国政府も出兵準備をする必要があるという情報を届けた。6月4日大鳥啓介公使をソウルへ戻し、5日大本営設置、第5師団混成旅団に動員令を下した。甲申事変(1884年)後、日清両国政府間で「天津条約」を締結し、「出兵時は相互に通知する」と約したので、6月6日に清国政府から出兵通知が届き、翌7日には大日本帝国政府から出兵通知を届けたのであるが、6月16日には混成旅団が仁川に上陸した。その頃には朝鮮国政府は農民と「全州和約」を結び「農民戦争」は沈静化していた。そこで同日陸奥は清国駐日公使に共同での「朝鮮国内政改革」を提案した。しかし、21日清国政府は拒否した。そのため、大日本帝国政府は22日閣議で「単独改革」を決定し、大鳥公使に訓令「今日の形勢にては行掛り上開戦は避くべからず、依りて曲を我に負わざる限りは、如何なる手段にても執り、開戦の口実を作るべし」を与えた。大鳥公使は朝鮮国政府側と「内政改革」を3回議したが朝鮮国政府は拒否した。そこで7月20日清国朝鮮国両政府の宗属関係の破棄を22日までに宣言するよう朝鮮国政府に要求する最後通牒を出すとともに、大日本帝国政府軍による朝鮮国王宮(閔妃政権)の占領大院君擁立クーデターの計略を立てた。7月23日日本軍は景福宮王宮を占領し、朝鮮国兵士の武装解除を行い、閔妃らを追放、大日本帝国政府傀儡大院君政権を樹立した。7月25日には大院君に「朝鮮国は清国の属国ではない。清国軍は即時退去せよ」と宣言させた。同日大日本帝国政府は、「大院君より清国軍の駆逐を依頼された」として、海軍は「豊島沖」で清国艦隊を、陸軍は「成歓」で清国軍に奇襲攻撃し、8月1日になって大日本帝国政府は宣戦布告し本格的に日清戦争に突入した。英国政府には支持を取りつけていた。

 清国政府と戦争を継続しながら大日本帝国政府はその後、朝鮮国に対しては大院君から政治権力を奪うために軍国機務処を設置し、杉村代理公使が指名した朝鮮人たちの合議体制の政府機関(大日本帝国政府の傀儡)を作り、内治外交の問題を討議し、その決定事項を執行させた多数決を悪用した傀儡親日派による運営をさせた。大鳥啓介公使の後任井上馨は利用価値のなくなった大院君(1898年79歳で死去)を引退させた。

 1894年8月17日の朝鮮政策についての「閣議決定」では、⑴朝鮮国を文字通り自主放任する ⑵名義上独立国とするが、永久もしくは長期にわたり、直接間接「その独立を扶植し以て他の外侮を禦く」 ⑶日清両国政府で朝鮮国の領土を保全する ⑷ベルギー、スイスのような中立国にする、の4案のうち、⑵案を当面の政策と決定した。しかし8月下旬には朝鮮国政府と2つの条約を締結した。「日朝暫定合同条款」(8月20日調印)は、「大日本帝国政府は、京釜・京仁鉄道の敷設権を獲得、7月23日クーデター時の日朝両国軍の衝突責任を不問にする」などを取決め、「大日本大朝鮮両国盟約」(8月26日調印)は、大日本帝国政府側からの一方的攻守同盟で「大日本帝国軍の進退及び食糧準備などのため、一切の便宜を大日本帝国軍に与える事」を約させた。陸奥外相はこの盟約を「一面には、彼等が一個独立の邦国として、公然何れの国とも攻守同盟を為すべき権利あるを表彰すると同時に、他の一面には堅く彼らを我が手中に繫留し、敢えて他顧するところ莫からしむる為め一挙両得の策に出たるに外ならず」とした。これが政府の意図であった。大日本帝国政府はその後、先の2つの条約を発展させた「日朝条約草案」「大日本国大朝鮮国同盟秘密条約」を締結し一層露骨に支配しようとしたが、外務省顧問デ二ソンが批判し実現できなかった。大日本帝国政府のいう「朝鮮国の独立」とは、ロシアなど帝国主義列強国政府清国政府からの独立を意味するものであり、大日本帝国政府の朝鮮国に対する政策の目的は「政治的軍事的制圧」であった。

 大日本帝国政府は、日清戦争に勝利し、井上馨が公使になると、軍国機務処を廃止旧制度に復した。

甲申事変(1884年12月)においても、ソウル公使館駐留軍が朝鮮国王宮を占拠した。清仏戦争(ヴェトナムの支配権を巡るもので清国政府敗北)を機会に、金玉均・朴永孝ら親日派が閔妃親清派をクーデターで打倒し国政改革を目指した(福沢諭吉とも打合せ)。大日本帝国政府(伊藤博文)も壬午事変(1882年7月)による朝鮮国に対する支配力の劣勢を挽回する事を狙って、竹添公使らを通じて援助した。大日本帝国政府のソウル公使館駐留軍王宮を占拠し、金らは一旦大院君政権を樹立したが、大院君は、閔妃の救援依頼によりやってきた清国政府軍に捕らえられ、清国へ檻送された。らは大日本帝国へ亡命。以後閔妃が親清政権として再建された。大日本帝国政府は(クーデターに加担して失敗しておきながら)井上馨外務卿に軍隊をつけて、朝鮮国政府との間で1885年漢城条約を締結し「謝罪」「賠償」を認めさせた。清国政府との間では1885年天津条約締結した。

(2024年10月12日投稿)

 

 

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