2019年7月23日、ロシアと中国が日本海と東シナ海上空で行った初の共同警戒監視活動に関して、菅官房長官が「竹島は我が国固有の領土である」と述べたが、明治初期の神聖天皇主権新政府の政策に関する史料では、「竹島」は紛れもなく「現韓国」の領土である事が明白である。
明治新政府は、一般大衆に支持されず、士族大衆からも反対されていた。新政府の最高位である議定の公卿や大名の多くは政治能力を有していなかった。その新政府の危機を乗り越える方策の一つに、諸藩及び不平士族の眼を海外に反らし、その間に中央政府の権力を確立しようとするものがあった。その意志をうかがわせるものに木戸孝允の「征韓論」がある。1868年12月14日の日記に「明朝岩倉公(東京へ)御出立に付、前途の事件御下問あり。よって数件を言上す。その大なる事件二あり、一は速やかに天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣わし、彼の無礼を問い、彼もし服せざるときは罪を鳴らして攻撃、大いに神州の威を伸長せんことを願う。然る時は天下の陋習忽ち一変して、遠く海外へ目的を定め、随って百芸・機械等、真に実事に相進み……」とあるのがそれである。
明治新政府は1868年10月、対馬藩主に命じ、神聖天皇主権の新政府成立の通告とヨーロッパ流の国交を朝鮮国に要求させた。しかし、明治新政府の征韓(朝鮮征服)の野望を見透かしていた朝鮮国は拒絶し続けた。そのため、明治政府は1869年12月、将来の対朝鮮政策をたてるため、久留米藩の佐田白茅と大和の森山茂に渡朝させ、13の項目について調査する事を命じた。その項目の①②③は、従来の日朝の交際様式、④朝鮮の独立の程度、⑤「皇使」派遣の際軍艦を入れる港の有無、⑥朝鮮が露国に心酔しているとの説の実否、⑦朝鮮の軍備、⑧朝鮮内治の状況、⑨貿易物資の有無、物価・貨幣の良否、⑩歳遣船(対馬藩が朝鮮から特許を受けて行う貿易)の利害、⑪対馬藩の朝鮮交際の経費、⑫草梁より内治へ旅行の可能性、などであり、①②③⑨⑩⑪は旧来の宗氏を介した国交を改める意図と関係しているが、他の項目は、すべて軍事的政治的意図に関係するものであった。そして、⑬番目の項目には、竹島・松島が朝鮮付属となった理由、なるものが存在しているのである。この松島なるものは、現在の安倍自公日本政府が、大韓民国政府との間で領有権を争っている「竹島」の事なのである。
この歴史史料が示している事は明らかに、明治初めには、神聖天皇主権日本国政府はここを「朝鮮国」の領土であると見なしていたという事以外の何ものでもないという事実である。
(2019年7月26日投稿)