2018年10月23日の朝日新聞「声」欄に、新聞・テレビなどのメディアを主に多方面で、「戦争言葉」の使用が氾濫している状況についての投稿が載せられていました。その方は平凡な言い回しでも良いのではないかという気持ちを述べられていたが、私も同感である。
ところでこの「戦争ことば」の使用についてであるが、いつどこで誰が使用し広く聞かれるようになってきたのかを思い出したので紹介しておこう。
それは日清戦争下の事であり、大阪商人が大阪の歓楽街花街のお座敷に持ち込み使用し広まったのである。
たとえば、「おやおや、また、わてにおちょこを。そないに攻めなはんな。北京やおまへんで。さあだんさん、予備役の隠し芸を出しなはれ。広乙(清国軍艦)やあろまいし。そない沈んだらあきまへん」というように使用した。また、口先ばかりのお客を「李鴻章」(清国・北洋大臣)と、料理場を「兵站部」と、世話焼きを「赤十字」と、盃をとるのを「ぶんどる」と、引っ張り込まれた客は「捕虜」と呼んだのである。そして、花街をこの時以降「軍艦町」と呼ぶようになったのである。
ついでながら日清戦争の端緒も紹介しておこう。
反封建反侵略を掲げる甲午農民戦争(1894年2月~)は、日清間の天津条約に基づいた神聖天皇主権大日本帝国政府軍が朝鮮国仁川へ上陸(6月12日)した時点ですでに、朝鮮国政府と農民側との間で和約が成立(6月10日)した後であったため朝鮮政府は日清両軍の撤退を要求した。そのため神聖天皇主権大日本帝国政府には出兵理由がなくなったのであるが、神聖天皇主権大日本帝国政府の目的は清国から朝鮮国を奪い取るためであったので、清国が拒否するのを計算ずくで「日清両国による朝鮮の内政改革」を提案した。しかし、清国は朝鮮に対する内政干渉であるとして「日清共同撤兵」を主張したため対立した。また、神聖天皇主権大日本帝国政府の強引な手法に対して列国が干渉してきた。ロシアは「共同撤兵を拒否すれば、日本政府の責任は重大である」と主張した。神聖天皇主権大日本帝国政府を支持していたイギリスは東洋貿易の途絶をおそれ日清間の調停に乗り出したが、清国は譲歩しなかった。そこで神聖天皇主権大日本帝国政府は清国に「将来不測の変生ずるあるも、神聖天皇主権大日本帝国政府はその責に任ぜざるべし」との絶交状を、朝鮮国には「7月22日までに清国の宗主権を認めた条約を破棄せよ」との最後通牒を突きつけ、期限切れを待って実力行使(クーデター)に出た。
7月23日未明、まず朝鮮王宮を占領、親清派の閔妃政権を廃し、親日派の大院君を国王に据え、25日には「朝鮮国は清国の属国ではない。清国軍は即時退去せよ」と宣言させた。同日に海軍が豊島沖で清国海軍を攻撃、陸軍もソウルから牙山へ進撃、安城で戦闘開始した。そして、8月1日に宣戦布告を行った。当時、大日本帝国国民(臣民)は中国人を蔑視を込めて「チャンチャン坊主」「チャンコロ」などと呼び、「欣舞節」の中にも歌われていた。
福沢諭吉は『時事新報』社説「日清戦争は文野の戦争なり」(1894年7月29日付)に、「日清戦争は……文明開化の進歩を謀るものとその進歩を妨げんとするものとの戦いにして……清兵は何れも無辜の人民にして之を皆殺しにするは憐れむべきが如くなれども、世界の文明進歩のためにその妨害物を排除せんとするに多少の殺風景を演ずるは到底免れざるの数なれば、彼らも不幸にして清国の如き腐敗政治の下に生まれたるその運命の拙きを自ら諦めるの外なかるべし」と主張。朝鮮に対しても社説で「文明流の改革のためには脅迫を用いざるを得ず、国権の実権を日本が握るべきだ」と主張した。
「余も一時はかかる愚(戦争の利益)をとなえた者」と反省し日露戦争の際には非戦論に転換した内村鑑三も「孔子を世界に供せし中国は、今や成人の道を知らず、文明国がこの不実不信の国民に対する道は、唯一途あるのみ、鉄血の道なり、鉄血を以て正義を求むるの途なり、……日本は東洋における進歩主義の戦士なり、故に我と進歩の大敵たる中国帝国を除くの他、日本の勝利を望まざるものは宇内万邦あるべきにあらず……」と主張した。
(2018年10月30日投稿)