1946年2月13日に外務大臣官邸で、GHQの指示で「憲法改正」についての会合を持つ事となった。日本側は吉田茂外相、松本烝治国務相、終戦連絡中央事務局長白洲次郎、外務省通訳長谷川元吉。GHQ側はホイットニー准将、ケーディス大佐、ハッシィ中佐、ラウエル中佐である。
GHQは2月8日に松本烝治が提出した憲法草案「松本案」を拒否した。そして、マッカーサー(連合国軍総司令部総司令官)の「三原則」に沿ってGHQによって作成された「GHQ憲法草案」を4人に渡し受け入れるか否か検討して回答するよう求めた。その際、ホイットニー准将はマッカーサーの意思を伝えた(『ラウエル文書』、松本烝治『松本会見記略』)。そして、GHQは認否の回答期限を2月22日と定めた。
「あなたたちが知っているか否かは別にして、最高司令官は、天皇を戦争犯罪に関係があるとして尋問すべきだという声が他国のなかにあるが、その圧力から天皇を守ろうとしている。これからも最高司令官は守るでしょう。しかし、その努力には限界があります。さしあたりこの憲法草案を受け入れる事で、天皇制は守られるという事になります。この憲法草案を受け入れる事こそ、あなた方の唯一の生き残りの道でもあるのです。日本国民はこの憲法を選ぶか、こうした民主主義の原則を包含していない別な憲法を選ぶかの自由を持つべきだと最高司令官は判断しています」(『ラウエル文書』より)
上記のGHQ側の記録に対して、日本側の記録(松本烝治『松本会見記略』)では、
「本案は内容形式ともに決して之を貴方に押し付ける考えにあらざるも、実は之はマッカーサー元帥が米国内部の強烈な反対を押し切り、天皇を擁護申し上げる為に、非常なる苦心と慎重の考慮を以て、之ならば大丈夫と思う案を作成せるものにして、また最近の日本の情勢を見るに、本案は日本民衆の要望にも合するものなりと信ずといえり」としている。
つまり、「日本の為政者に対して、天皇は戦争犯罪を問われている、日本の為政者が、その地位と権力の源泉である天皇と天皇制に基づく国家体制を守りたいのなら、マッカーサーが守ると言ってるから、GHQ改正草案を受け入れる事をすすめる、日本国民の要望にも応えられる内容のものだから」というわけである。マッカーサーは『スターズ・アンド・ストライプス』(1946年2月15日)に、「天皇の命を救ったのは自分だ。当時の世界の世論は、天皇は日本の侵略戦争の最高責任者であるから、当然国際裁判にかけて絞首刑に処すべしという世論が圧倒的であったけれども、自分は、天皇を絞首刑にすると、日本の労働者や学生や日本人民大衆が勢いを得て、人民主権の民主主義の徹底的実現を要求し、とても占領軍がこれを抑える事ができないであろうと考え、むしろ自分が天皇の生命を救う事によって、天皇をして占領軍に協力させる事が占領政策上もっともよろしいと判断したのだ」と述べていた。
米国におけるギャラップ社の世論調査(1946年6月初旬)では、「戦後、日本国天皇をどうすべきであると考えますか」という質問に対し、
①殺害する、苦痛を強いる餓死……36% ②処罰もしくは国外追放……24% ③裁判に付し、有罪ならば処罰……10% ④戦争犯罪人として処遇……7% ⑤不問、上級軍事指導者に責任あり……4% ⑥傀儡として利用……3% ⑦その他……4% ⑧意見なし……12%、となっており、米国民は天皇に対して厳しい処分を望んでいた。
また、米国だけでなく、ソ連やオーストラリアなど連合国内部には天皇の責任を問う声が強かった。
先の会合後の2月19日、松本国務相は「閣議」でGHQの「憲法草案」について詳しく報告をした。それは「彼らの作成せる原案は、この憲法は人民の名によって制定する、天皇には統治権もなければ主権もない、総理大臣は議会が任命する、任命された総理大臣は各大臣を任命して議会の承認を得る事、貴族院は廃止されて衆議院の一院となる事など、あたかもソビエト(ソ連)の言いそうな、またドイツのワイマール憲法のような、主権は人民にありというので、現行憲法を改正せんとするにあらずして、むしろ、革命的な連合軍司令部より、この憲法によって民主政治を樹立すべしと命令せらるるに少しも異ならない……」というもので、天皇主権の国家体制を否定されている事に憤慨している。
しかしすでにマッカーサー(米国政府)は、日本の占領統治を進めやすくするために、主権をもつ「天皇制」を主権をもたない「象徴天皇制」に変更し存続して利用しようとしていた(1946年1月25日、アイゼンハワー大統領あての電報)。さらに米国は、東西冷戦下で、日本を共産主義の防波堤として利用するためにも天皇は重要であると考え、象徴天皇としようとした。
同年2月21日、幣原喜重郎首相がマッカーサーに面会した。幣原はGHQ憲法草案で天皇が「シンボル」とされているを、「元首」としたいと伝えている。その意図は、同じく「人民」とされているのを今まで帝国憲法通り「臣民」のままにしておきたかったのである。その時マッカーサーは幣原に「48時間以内に回答を持参」するよう要求した。
同年2月22日、幣原は閣議に、「主権在民と戦争放棄は、総司令部の強い要求です。憲法改正はこれに沿って立案するよりほかにない。それ以外はなお交渉を重ね、こちらの意向を活かすように努める。そうご了承賜りたい」と報告した。天皇制の護持のためには、GHQ憲法草案を受け入れて天皇をシンボルとする事と、戦争放棄に同意したのである。そして、閣議を中止し、天皇へ報告をした。それに対して天皇は「最も徹底的な改革をするが良い。たとえ天皇自身から政治的機能のすべてをはく奪するほどのものであっても全面的に支持する」と述べた。それを聞いた後閣議を再開し、閣僚に伝えた。全員反対せず、松本国務相も「やむなし」と納得した。ここで重要な事は、米国政府と天皇と日本の支配層それぞれの思惑利害が一致したという事であり、それが日本国憲法として結実するのである。
※これより前の1月1日に、天皇はマッカーサーのすすめにより、俗にいう「人間宣言」を発表していた。正式には「新日本建設に関する詔書」(詔勅)という。天皇の戦争責任追及をかわすためと、戦後の日本の国家体制も天皇が作るのであり、それは大日本帝国(天皇制民主主義)なのだという事(戦前国家の再生)、を国民に明示する事を目的としたものであった。「宣言」(詔勅)については、1977年8月22日の那須御用邸での記者会見で「あの詔勅の第1の目的は五箇条の御誓文であった。神格(否定)とかは2の問題であった。民主主義を採用したのは明治大帝の思し召しであり、それが五箇条の御誓文で、それがもとになって大日本国憲法ができた。民主主義は決して輸入のものではない事を示す必要があった。日本の誇りを国民が忘れると具合が悪いと思い誇りを忘れさせないために、明治大帝の立派な考えを示すために発表した。」と述べている。何という厚顔無恥、無責任、狡猾、傲慢な態度である事か。
GHQ憲法草案を受け入れた天皇や幣原政府(支配者)は、英文の草案を日本語に訳し、手直しして「日本政府草案」(英文)として3月4日にGHQ側に提示した。幣原政府の翻訳については、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』によると、
「『人民の意志の主権』を強調したGHQ 憲法草案の前文を省略し、家族制度の廃止を条文化した条項を削除、衆議院の権威を制限するような参議院の創設を提案し、中央政府による支配を容易にするように地方自治に関する条項を変更していた。さらに政府は、多くの人権保障に関する条項を、時には大日本帝国憲法を連想させるような決まり文句を挿入する事で骨抜きにした。言論、著作、出版、集会、結社の自由は、今や『安寧秩序を妨げざる限りに於いて』のみ保障され、検閲は『法律の特に定むる場合の外』には行わない事になった。労働者が団結したり、団体交渉したり、集団行動をする権利も同様に『法律の定むる所に依り』という文言で束縛された。また、外務省が準備したGHQ憲法草案の当初の訳文では『people』を『人民』(米国では当たり前)としていたが、松本らはそれをやめて、本質的に保守的な用語である『国民』という用語を採用した」とし日本政府の抵抗を暴露している。
※「前文」は松本らはこれを入れるつもりはなかったが、GHQは譲らなかった。
幣原政府による「日本政府草案」は、GHQと幣原内閣の間で相互の意思を確認しながら交渉が重ねられた末に作成されGHQは了承した。幣原政府は「GHQ了承案」を3月6日に閣議で正式に承認し、国民にも発表され、天皇は勅語を発表した。その内容(部分)は、
「国民の総意を基調とし、人格の基本的権利を尊重するの主義に則り、憲法に根本的改正を加え、以て国家再建の礎を定める事をこいねがう」と納得している。
幣原首相はこの勅語について「「わが国民をして世界人類の理想に向かい同一歩調に進ましむるため、非常なる御決断を以て現行憲法に抜本的改正を加える事を了解した」と述べている。
マッカーサーも声明を発表し、「この憲法は、5カ月前に余が内閣に対して発した最初の指令以来、日本政府と連合国最高司令部の関係者の間における労苦に満ちた調査と、数回にわたる会合の後に起草されたものである」と述べている。
1946年4月10日、幣原政府の下で敗戦後初の衆議院議員選挙が実施され、保守の日本自由党が第1党となった。5月22日には吉田茂内閣が成立した。第1党は自由党の総裁は鳩山一郎であったが、GHQ に反抗的とみなされ、GHQによる軍国主義者の公職追放により組閣できず(幻の鳩山内閣)、衆院の議席を持たなかった吉田茂が「大命降下」による最後の首相として就任した。石橋湛山は大蔵大臣となったが公職追放となった。
6月2日、吉田政府は第90回帝国議会に「日本国憲法原案」を提出した。その時の吉田は「皇室の御存在なるものは、これは日本国民、自然に発生した日本国体そのものであると思います。皇室と国民の間には何らの区別もなく、いわゆる君臣一如であります。君臣一家であります。国体は新憲法によっていささかも変更せられないのであります。」と述べた。
(2016年2月9日投稿)