神聖天皇主権大日本帝国政府軍部のテロ行為による、大日本帝国のファシズム化の策動は1930年頃より始まった。そのきっかけは1930年11月に起きた、右翼青年佐郷屋留雄により浜口雄幸首相が狙撃され重傷を負った(31年8月に死亡)事件であった。その後軍部は軍部政権樹立の実現を達成するための行動を繰り返した。
1930年9月には橋本欣五郎が陸軍青年将校の結社「桜会」を結成した。橋本は30年7月にトルコ駐在武官を務めて帰国し、参謀本部第2部第4課第3班(ロシア班)長に就いていたが、トルコ駐在中に心酔したケマル・パシャの革命に倣って大日本帝国政府で軍事革命を起こそうとしたのである。綱領は「本会は国家改造を以て終局の目的とし之がため要すれば武力を行使するも辞せず」とし、会員は「現役陸軍将校中にて階級は中佐以下国家改造に関心を有し私心なきものに限る」とした。綱領・趣意書は、「左翼思想を排撃し、政党政治を攻撃し、わが国が対外協調外交を捨て、対外的に積極的進出をおこなう」と主張した。建川美次参謀本部第2部長や小磯国昭軍務局長らが支持していた。橋本の親密な同志が大川周明であり、大川を媒介にして社会大衆党や全国労農大衆党とも交流した。1931年のクーデター三月事件(浜口内閣を倒し、陸軍大臣であった宇垣一成の内閣樹立を計画)が桜会初の行動であったが、宇垣が中止を命じ、大川や橋本も中止した。
橋本や大川らはその後もあきらめず、第2のクーデター計画(1931年の十月事件)の準備にとりかかった。1931年9月18日の「満州事変」勃発に際しては、関東軍の行動を掣肘する政府やそれに抑えられている軍中央部に対し、様々な形で脅した。「不拡大方針」を牽制したり、事変遂行の妨害者であった第2次若槻礼次郎内閣(1931.4.14~31.12.11)を倒そうとした。
十月事件の計画概要は、決行日は10月21日。将校120名、歩兵10個中隊、機関銃隊2個中隊、大川周明、西田税、北一輝ら民間人、海軍抜刀隊10名、海軍爆撃機13機、陸軍機3~4機が参加予定。閣議中を襲い、首相以下を斬殺し、警視庁や報道・通信機関を占領、陸軍省・参謀本部を包囲し軍幹部を同調させ、不良人物や将校を制裁。東郷平八郎元帥が参内し、荒木貞夫中将に大命降下奏請、荒木を首相兼陸相、建川を外相、橋本を内相、大川を蔵相、長勇少佐を警視総監とするものであった。
1931年3月には大川が右翼団体を結集し、全日本愛国者協同闘争協議会を組織し、8月25日~26日には郷詩会が有志の会合開催した。出席者は、民間から西田税、井上日召、橘三郎ら、陸軍から菅波三郎、大岸頼好、野田又男(いずれも2・26事件関係者)、海軍から藤井斉、三上卓、山岸宏、浜勇治ら(後の5・15事件関係者)などであった。
しかし、建川参謀本部第1部長や荒木中将からも中止を命じられた。そして、南次郎陸相は全員検束を命じた。事件は公表せず、処罰も軽微であった。
のち橋本は2・26事件の際、石原莞爾と共に動き大日本青年党を組織した。
その後、1932年2月9日には、井上準之助前蔵相・民政党筆頭総務・選挙対策委員長が総選挙の応援演説途上、車から下りたところを小沼正に射殺された。1932年3月5日には、団琢磨三井合名理事長が菱沼五郎に射殺された。小沼正と菱沼五郎の両者の背後には井上日召を指導者とする右翼団体である一人一殺主義の血盟団組織が存在し、二人は団員であった。井上らは上記二人の外に、元老西園寺公望、牧野伸顕内大臣、犬養毅首相、床次竹二郎鉄相、若槻前首相、幣原喜重郎、池田成彬(三井)など20名あまりの政財界人を暗殺する計画であった。井上日召と11人の信奉者が逮捕された。彼らは、東京帝大、国学院の学生、小学校の教諭、農村青年などであった。井上日召ら3名は無期懲役、他はすべて有期の懲役とされた。
1932年5月にはクーデター「5・15事件」を起こした。海軍将校と陸軍士官候補生らが犬養毅首相を射殺。警視庁や牧野伸顕内大臣宅、日本銀行、三菱銀行本店、政友会本部の襲撃、変電所への手榴弾の投げつけなどを行い、荒木貞夫陸軍中将を首相とする内閣樹立を画策した。陸海軍青年将校農民有志名でまいたビラでは「国民よ!天皇の御名に於いて君側の奸を屠れ!国民の敵たる既成政党と財閥を倒せ!横暴極まる官権を膺懲せよ!奸賊特権階級を抹殺せよ!祖国日本を守れ!しかして陛下聖明の下建国の精神に帰り、国民自治の大精神に徹して人材を登用し、明朗なる維新日本を建設せよ!」を呼びかけた。軍部は事件を政治的進出に利用し、関係者を「軽罪」にとどめた。
彼らは目的を実現できなかったが、首相を殺害した事が社会に大きな影響を与え、政党内閣を破壊し初の挙国一致の斎藤実(退役海軍大将・元朝鮮総督)内閣を登場させた。そのため彼らはクーデター計画を継続し、1933年7月11日に神兵隊事件を起こした。それは愛国勤労党を含む大日本生産党系の右翼集団が主体で、元東久邇宮付武官の安田銕之助中佐、海軍霞ヶ浦航空隊司令の山口三郎中佐らが参加、陸軍の統制派ともつながっていた。7月11日を期して決起し、閣議中の閣僚全員、重臣、政党首領、財閥首脳を殺害し、東久邇宮を首相とする改造内閣を樹立しようとしたが、事前に一斉検挙され未遂となった。
1936年2月26日、陸軍内で統制派と対立を強めていた皇道派(1935年8月相沢事件で皇道派の相沢三郎中佐が統制派中心の永田鉄山軍務局長を斬殺)青年将校が北一輝の影響を受け、クーデター「2・26事件」を起こした。大中尉(栗原安秀、安藤輝三、河野寿、中橋基明、坂井直、高橋太郎、野中四郎、丹生誠忠、香田清貞ら)、退役将校の磯部浅一、村中孝次らが率いた歩兵第一・第三連隊を主力に近衛歩兵第三連隊、野戦重砲兵第七連隊を含む1400名の軍隊が、完全武装で高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監らを殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、4日間首相官邸、陸軍省、参謀本部、国会議事堂を含む東京の国政の中枢部を占拠した。参加将校たちは、一切の悪の根源は天皇と国民の中間にあって真のあるべき政治を阻害している君側の奸たち、元老、重臣、財閥、政党そして彼らを圧迫した軍中央部幕僚=軍閥であるとし、これらを攻撃し倒す事により、自然に正しい天皇と国民との結びつきが生じ、あるべき正しい政治が開始されるとして、事態収拾を真崎甚三郎大将に求め、天皇が彼らの意志に応えてくれると信じ待った(彼らは全国の同志に呼びかけや指示を行わず、メディアを利用しようともしなかった)。しかし、軍中央部幕僚は「反乱軍」と規定し鎮圧した。首謀者は死刑(北一輝も含む)、皇道派関係者も大量処分した。
2・26事件により、岡田内閣(1934.7.8~1936.2.27)は倒れ、軍中央部は皇道派を一掃でき、統制派(東条英機ら)が握った。政治家たちはこれ以後、軍部の決起の危険性を常に考慮せざるを得なくなり、軍の不規律を責めたが、強く追及できず、軍の要求を受け入れねばならなくなり、軍の政治における発言権がこれまで以上に大きくなった。
(2024年8月15日投稿)