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またまた、閑話休題 オシム伝記  文科系

2006年06月29日 14時18分35秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
1941年5月6日生まれ。祖父はドイツからの移民。選手時代はサラエボで育ち、初めはサラエボ大学の数学科に通いながらの選手生活だった。因みに、妻のアシマとの馴れ初めは、その数学家庭教師だったことにある。その後フランスのストラスブールなどでFW、MFとして活躍、フランスで引退。64年の東京オリンピックではユーゴ代表で来日、日本から2ゴールを上げている(この時の経験が、後に日本に来る動機の一つを形成している)。66年にはユーゴ代表として欧州選手権準優勝。選手生活は66年から78年までの12年間。生涯得点85点で、またこの12年にイエローカード〇というのが、彼の誇りでもある。
引退の78年に「フランスで生まれた子どもが母国語を忘れかけていたのが良くないと思って」サラエボへ帰国。彼を世に出したジェレズニチャルという鉄道員クラブチームの監督に就任。当時一部に上がったばかりのこの弱小チームをすぐに大都市の4大クラブと対等に戦えるチームにする。この中には名古屋グランパスのストイコビッチが後に属したチームとか、WCドイツ大会のクロアチア監督・ズラトコ・クラニチャルのチームとかも含まれている。その功績がユーゴ代表への第一歩だった。

84年には、ユーゴ代表のロス五輪銅メタルをアシスタントコーチとして受ける。86年ユーゴ代表監督就任の後、90年WCイタリア大会では8強に入る。その後も代表監督とチーム・パルチザン監督とを兼任するも、92年5月21日パルチザンのリーグカップ優勝の日に、こんな宣言を残して(旧)ユーゴでのサッカー生活から決別する。
「これでおしまいだ! 私のサラエボが戦争にあるのに、サッカーなどやってられない」
これは、サラエボに対するユーゴ連邦の仕打ち、包囲戦への抗議なのである。前述のように、彼自身も既にサラエボの自宅へ帰ることができなくなっていたのだ。

その後はギリシャのパナシナイコス(1年)、オーストリアのシュトルム・グラーツの監督を経て、03年、ジェフ市原(当時。現ジェフ千葉)に来ることになる。パナシナイコスではリーグ戦2位、カップ戦優勝。グラーツでは、3年後に優勝、欧州チャンピオンズリーグ出場を果たしている。オーストリアのチームがこの大会に出るなんて、僕は聞いたことがないが、まるで「彼の行く所に勝利はついて回る」との観があるではないか。90年のイタリアWCで既に名が知られ、ビッグ・クラブから引く手あまたであったが、ギリシャ、オーストリアを選んだ理由は、祖国ボスニアを見守りたいという以外にない。旧ユーゴから見て、ギリシャは南隣、オーストリアは北隣なのだ。因みにこのチャンピオンズリーグ戦では、あのレアル・マドリードやマンチェスター・ユナイテッドからも得点を上げている。

最後に監督としての彼の特長を上げよう。とにかく走らせる。パナシナイコスの監督を1年で抗議辞任のような形で辞めたのだが、その理由にこの「走らせる」ことが絡んでいる。
「(ギリシャ1の富豪オーナーが)勝手に選手を買って来て、使えと言う。質は高いが、走れない。喧嘩になった。走れなかったら、どうやってサッカーをやるんだ?そんなのはルール以前の話だ」
こうして、オシムはジェフ千葉をも日本一走らせて、カップ戦優勝までこぎ着けてきた。その間3年、日本代表にまで育てた選手をあちこちに売っているのである。育てては売り、又育てて。弱小チームの宿命に耐えうる素晴らしいサッカー教師でもある監督なのだ。WCイタリア大会の頃から彼を観察しつつ、「日本人の優しさに感激している親日家」と知り、コンタクトを取っていたジェフの慧眼に、僕は感謝したい。

(以上は、集英社刊、木村元彦著「オシムの言葉」の要約に近いものである)
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