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小説 「人・走る」    文科系

2018年03月08日 12時58分48秒 | 文芸作品
小説 「人・走る」(1)  

 大きな木の机だが、中央にあるパソコンの脇や後には、本や、いくつかの小説執筆プランが書き込まれた文書類、強調したい主張に関わる統計なども含んだ資料の群れ、その他の雑多なメモ、黒赤青などの筆記具、文鎮、大小の辞書など、隙間もない乱雑さだ。机の外、部屋全体も、ある種の生活破綻者の寝床を連想させる混乱である。ここの主、村木慎治のどろんとした目線は机の上を見ているのかいないのか、前の椅子に座って間もなくそうなってから、どれだけの時が過ぎていただろう。ゴールデンウイーク週末の早朝、所属する同人の年一回、来年一月に出す作品集に向けた創作活動中なのである。
 たった30枚程度の小説プロットを半年考えても、いくつかの中からどれを選択するかがまだ決められなくて、稼ぎ時の連休がもう終わりかけている。今朝も四時に起きたのだ。頭が比較的冴えている朝を選んで、今日こそどれかに決めようと意気込んできたというのに。

 慎治にはこの頃、馬鹿になったのかと思い当たることもいくつかある。「総じて前年より良くなければ、出さない方がましとする」、これはみずから決め、拘ってきたポリシーだが、今年そう断定するのはまだ早すぎるし、こんな予感だけで生きる気力が削がれるような何とも嫌な自己嫌悪だ。それを打ち消すように他方でいつも、こんな思いも浮かんで来る。
 〈 自分の要求するものが年々増えて、高度にもなっているから、こんなに苦しいのではないか。さらに、今年望む水準に届くかどうかが自分の場合このプロット作りの段階で八、九割がた決まってしまうと考えているから、今が特に苦しいんじゃないか 〉
 たかが三十枚の小説に慎治は毎年、まる一年かけてきた。数か月で一応の完成を見た後でも、また数か月、間を置いてえんえんと推敲し続ける。構成に関わるような補足修正は言うまでもなく、一行二十字ほどの加除さえ見出しがたくなってからもまだ、〈語句とかテニオハとかの感じを嵌め換えてみる〉のである。部分部分までを楽しみ味わうことに、一種狂気のようだと思えるほどの充実感を覚えるからできることらしいのだが、、この膨大なエネルギーは一体どういう正体のものだろうかと、慎治は自分でもよく不思議に思う。〈アマチュアだからできる執筆の醍醐味、ここまでやるから後で楽しい〉と開き直っていることは確かなのだが。
 書き始めてまる七年、何か文学賞のようなものを目指そうと考えたことはない。それが目指せるかと考えてみたことも、おそらくない。他人に読んでもらうことは多分人一倍嬉しいのだが、返ってくる批評に過不足なくピタリと来るものが少ないとは、もはや分かってしまったことだ。当然の話と思う。慎治のこんなに膨大な書くパワーに見合ったエネルギーで読んでくれる人などはいるはずもない。そもそも今どきのプロでも、己の最愛の著作の一つでさえ彼のように読む者は少ないだろうという妙な自信さえある。それでも、テーマ、モチーフが一作ごとに替わっているから、今度は望みの読者がいるかもしれないという期待は、やはりどこかで持ち続けているのだろう。けれどもやはり、書いている自分をあちこちから覗いてみてもとにかく、主として他人に向けて書いているわけではないようだ。逆に、自分が老いて記憶力も定かではなくなった頃にこれを読むのが途方もない楽しみになるのではないかと、密かに期待し始めた節さえあった。執筆一年あとに自作を読んでいてさえこれほど一喜一憂できるのであるから、こういう期待を持つのはまた無理もないことだという気もする。そして、その時の楽しみに傷がつかないようにと考え及んだら、この膨大なエネルギーもさらにパワーが増してきたというように感じられた。こんな執筆動機は、他人の目で見るならば〈もう、一人でやってろ〉と言うしかないが、「それで悪いか」と既に開き直っているようだ。

〈 もう一度整理してみよう。なぜプロットさえ決まらないのか。まず第一に、嘘っぽい話が嫌だというのがある。大笑いしながらうなずいてるもんなあ、あんな文章を読まされると。ええーっと、あーこれだこれだ。「いばりくさった主人公に全部都合よく運ぶ『スリリングな物語』、フェミニストなんか絶対出てこず奴隷のような美女達にはヒステリーも水虫もない『気持ちのいい恋愛』、何ひとつ頭を使わなくても最後まで読める『安心な展開』、それだけが彼らの『面白さ』というわけです」、芥川賞作家、笙野頼子の文章だ。(注1)事実を描いてさえ、部分を強調しすぎたり、筋を劇的に進め過ぎたりするとこうなっちゃうって訳だ。虚構を混ぜた方が真実に近づけるとは、例えば近松門左衛門の「虚実皮膜論」(注2)とかいうものでも言われてるそうだけど、俺はもっと「自分にリアルで、かつ大切なこと」じゃないと嫌で、やる気もなくなってくるんだろうなあ。すると、自分のことを書くか、取材を徹底するしかないけど。……… 笙野がちょっとやってるように、あちこちに潜入なんてことはアマチュアじゃ時間に限界あるし、太宰治のように女に日記を書かせてそれに筆加えてというような愛人たちなんかもいない訳だし、結局、私小説ということになっちゃう。だけど今どき私小説なんて、本当の事を書いてても「自己顕示的でうさん臭い」とすぐ見られちゃうんだよな。なにしろ、目立ちたがりときちんとした自己主張との区別もつけないような世の中だ。それに、私小説で自己主張にしっかり突っ込むというのも、またなんか作り物めいてくるというのもあるし。
 だったらやっぱり、このプロットか。
「一般には、こっちの『展開』のが面白いんじゃない?」
 誰かがこう言ってくれたけど。でも、俺は「展開」はすぐに自制しちゃう。こんな具合だ。小説はやはり主張だから、読んでもらうために書くものだと知ってはいるつもりだけれど、他の人の目に入りやすいような『感動』や『趣向』を『展開』させるだけなんて、何か楽しさが減るようでいつも禁じてきたじゃないか。第一、自分自身があとで読んで楽しく感じないものに何でこんな苦労ができる? ああっ今、俺もまた「読んで楽しい」とか「面白い」とか言っとる! どうでもよい所で言ったんじゃなくて、そもそも何を書くのかという大事な文脈の場所でだ。面白い?、楽しい?、こんな言葉に何か意味があるんかね?こんなもん「私は引かれました」というだけの意味であって、それ以外の事は何にも語っとらんのだぞ! 例えば、前はモダンを言っとった奴が、今はポストモダンを叫ぶとかいうことも時節がらいっぱいあるみたいだけど、これは前と後とで「私が引かれた」という点じゃ同じことをやってるつもりなんだけど、だから自分自身は変わってないつもりなんだけど、モダンとポストモダンという中身は、私が引かれている対象そのものは、前後で全く違うわなあ。つまり、引かれたというだけが大事なら、何に、どのように、どうしてなどは必要ないってことかね。引かれた内容がころころ替わっても、混乱ってやつだ。まるでテレビのバラエティ番組みたい、何でもあるようで、何もない。だからだろうか、観る方もチャンネルをどんどん替えてく。そのくせ、他ならぬバラエティ番組のなかだけで次に観るものを選んでる。こういう最近の若者流儀を見ると、こんな混乱は先刻ご承知、いや自明の自然な世界なんだろうなあ。バラエティ番組はなんか、ポストモダンを象徴してるみたいなもんか。
 こんなのは、自分が引かれ続けるものを一生究めれないということにもなる。「自覚」の道を探さない奴は、一生混乱してろってか? それが「面白い」って奴だ。ご本人は、「自分が」面白いものを選んだのだからという訳で、素面で「主体的」なつもりが、その内実は全く何かに振り回されとる「受動性」そのもの。「面白い」って奴だけだとそうなる 〉

 こんな朝は、頭脳は一応覚めているのだ。が、ただ頭のあちこちを、しかも大小構わず次元の違う事項をごちゃごちゃにして、脈絡なくつついているというだけのことで、何かが産まれてくる予感というものが全くない。そう思うとまた、目の焦点が合わなくなってくるようだった。のったりと起こした体を椅子の背にもたせかけたら、慎治の両手が自然に腹に触れた。腰の曲がりが常態より一段と前にせり出しているそれを左右に動かし、質量感を確かめてみる。するとどういうものか、この質量感のせいで、頭脳が支離滅裂になっているのだというような気がしてきて、臍の上辺りを人指し指でピーンと弾いていた。
 そのままのたのたと立ち上がって、北の窓を開け、東の方を見る。朝日に活気を注いでもらおうというように、こうした早起きの朝によくやってみることだ。〈正面の家の、春に赤くなる紅葉? あれは赤銅色というのか、小豆色というのか。そんな色に、白っぽい黄緑の竹とんぼを小さくしたような新芽がぱらぱらとのっている〉。次に目に飛び込んで来たのは、さらに小さい芽をびっしりと付けた手前のツゲの生け垣だった。

 ふっと窓辺からきびすを返して、電話口へと歩いた。そして、山本さんを呼び出すと、スポーツジムの十時オープンからの待ち合わせを約束しあった。一年ほど前に、二人が知り合った場所である。自分がそこに通い始めた訳というものを、慎治はよく振り返ってみるのだが、こんなことに行き着いたように思う。
〈 四十をかなり越えた。もう一つ何かしよう。さしあたって、この重くなった体と突き出た腹をなんとかできないもんか………〉
 初めは、こんな軽い動機だったのだ。

〈 山本さん、また速くなったみたい。ストライドを伸ばしているのにピッチが落ちてないようだし……… 短い距離のスピード練習なのか、緩急つけたインターバル練習か───〉それと分かるほど大きめにしたストライドでトレッドミルのベルトを突き進む山本を左隣に見ながら、慎治は思う。〈 時速十四キロは出てるんじゃないか。近ごろどんどん速くなってる。ランニング経験一年のはずなのに、ほんとに六十の人なのかなあ〉機械のモータ音が高く響く割に、もっと大きくなるはずの山本の足音は柔らかく、代わりに規則正しい呼吸の音が慎治にも強く届いて来る。山本の走行距離メーターに目をやると既に四キロ。
 一年ほど前に、偶然彼と同じ頃にここでランニング入門をした慎治は、いつとはなしに彼に歩調を合わせてきたものだった。それも、自分が一回り以上も若く、中学時代にランニング経験がいくらかはあったということも意識させられて、ずい分無理をしてしばらくついていった。やがてある時期から山本のストライドが広がり始め、ついていくのを諦めざるをえなくなった。若いころに比べて十数キロも重い体を恨んだものである。ちょうどその頃、山本と隣りあわせて鏡の前に立ったとき、慎治は二人の腹と尻を密かに見比べてみたことがあった。自分の方は、腹は前にせり出し、その横は太い筋のような弛みが浮き出ることもあるいわゆるズンドウで、尻がいかにも小さく見えた。よく見ると、山本の尻が彼のよりさほど大きいわけでもないのである。〈尻が実際よりも大きく見える男は全て、腹が出ていない〉とは、何か不思議な発見をした思いだった。もっとも、後になるとこの思いは、違う認識に変わっていく。尻や大腿が締まった人間だけが、腹を引っ込めることもできるらしいと。

 こんな情けない比較もジム通いのバネに加わって、自分なりに距離が伸びていると認められる日々が続いていった。そして、ことスポーツで過去に良い思いがない慎治だが、走るという単調な行為を、いつしかこう思い始めていた。〈ジムは、修正の結果がすぐにその場ではっきり分かるからいい。手応え、質量感が大違いだ〉
 通いつめ方にも熱が入った。

(その2,3まで、続く)

注1 笙野頼子 講談社 「ドン・キホーテの『論争』
注2 虚実皮膜論 芸術の真実というものは、虚と実との被膜の間、虚構と真実との中間にあるとする説
コメント
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多分、時間稼ぎという結果でしょうか?  らくせき

2018年03月08日 09時38分20秒 | Weblog
今回の北朝鮮の態度は硬軟とりまぜてきたこれまでの外交政策からみて
時間稼ぎに終わるのではないでしょうか?

時間稼ぎに終わらせるか、どうか?は鍵をにぎっているのは
実は北ではなくアメリカなんですが・・・
コメント (4)
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