小説 「人・走る」(その2) 文科系
慎治は初め、山本の流儀に抵抗を覚えたものだ。「遊びだよ、むきにならなくても」、そんな感じの抵抗だった。しかしこれが、山本のように「勉強みたいにやる」のもけっこう面白いと変わってきた。始まりは、彼のこんな言葉だ。「僕らみたいな素人はもっと上半身を立てて走らないと疲れるよお」山本からたまに言われたこの言葉を、慎治はある日気まぐれのように真面目に取り入れてみた。時間にしてわずか十分ほど。彼としては背筋が張るのを我慢した試みだったが、確かに速くなり、体の他の部分が楽にもなったと感じたのだ。これ以降、慎治のランニングがどれだけ大きく変わっていったか。歩幅が幾分伸びるようになったのに呼吸はかえって楽になったようだ。だから当然スピードが上がった。それも平均時速にして一キロ以上である。その速さで刻み続けているメーターをちらちら確かめながら、さらに脚が軽くなっていくような気がしたものだ。この改善以外にも、前足は意識して踵から下ろすこと。前脚の膝下を膝より前加減に振り出して着地すると膝を痛めなくてすむということ、最低二十分以上走ってはじめてフィットネスにもなっていくということ、だから「そもそも二本脚動物の人間が過食するなら、長く走れないようになると太るしかない動物だ」ということ。これらの知恵を自分なりに取り入れていくと、すぐその日のうちに、結果が計器に現れることも多いのである。「自分の最高時速の持続時間を三分更新したよ」とか、「体重が一キロ近く絞れた! 頑張ったもんだ」とか、「六百カロリー消費したぞ-!」とか、それは確かな手応えであった。
走行距離が常時五キロを越えた頃から、慎治の体重が少しずつ減り始めた。すると走り続けるのが急に楽になっていくようになった。こんなある日には、成長期の自分をあれほど悩ませたスポーツコンプレックスを、無知のままにただやっていたことの結果に過ぎなかったのではないかと振り返りもした。「知は力なり」という言葉が何か新鮮に思い出されたものだ。
山本のスピードがまた上がった。肘を後に突き出すようにして、腕を低い位置で強目に振ってストライドをさらに延ばそうとしている。呼吸もいっそう深く、激しくなってきた。顎のさきからベルトに落ちる汗の間隔がどんどん狭くなっていく。スピード練習の最後の仕上げに入ったらしい。そうして突然、ベルトスピードが緩められた。五キロを過ぎたのだろう、クールダウンの速歩に入った。慎治はまだ続けている。今日は、ゆっくりでも十キロ以上は走る日と決めていたからだ。
「山本さん、今日の練習テーマは何だったんですか?」
「えーっと、……… 膝を前に速く出すこと、腕をしっかり振ってね、そんなことかなあ」
「五キロを、今日は何分でした?」
「初め遅く入ったから二十三分ほど。ちょっと頑張ったよ。ところで村木さん、ローマの中田がまたやったけど、新聞見た?」
練習を終えた二人が、談話コーナーでいつものように缶ビールを飲みながら始めた会話であった。中田というのは、イタリアに渡った現在二十四歳のサッカー選手、中田英寿のことで、山本が特別に入れ込んでいる人物である。彼がいかに特異な日本人であるかなどと山本は折に触れて話してきたが、慎治も一種独特な気分で付き合うようになった話題だ。山本は中田のことをこんなふうに語ってきた。
今、ベースボールのイチローらアメリカへ渡った何人かが騒がれていてそれも当然だろうと考えるが、あえて比較するなら中田は彼らと比べてもまるで突然変異のような日本人である。まず、日本は、世界で二番目の野球先進国で、イチローはここで既にずば抜けたオールラウンドプレーヤーだったが、ことサッカーに関しては四十番目前後の遅れた国であるから。次いで、こんな事情からか、中田以外のサッカー輸出組のほとんどが成功しなかったにもかかわらず、彼だけが世界のサッカー先進国イタリアでまる四年間もトッププレーヤーであり続けているから。さらに彼は、イタリアナショナルチームの司令塔選手とたまたま同一チームにいて、その役割も重なるのだが、チーム内でその相手と張り合うほどの力を近ごろますます示し始めているのだから。
「今日の新聞もテレビもよく見ましたよ。ところでね山本さん、昨日のもそうですけど中田の話は、世界を股にかけたサクセスストーリーというヤツで、なかなかないようなまー劇画の世界ですよね。だけどー、何と言えばいいかなあ、……劇画じゃなくて本当に凄い中田って、変な言い方で済みませんけど、一体彼のどこ見たらいいと思います?」
吹き抜けの一階、ロビー兼談話コーナーに坐った二人の会話は、続いていく。目の前、透明プラスティック隔壁の向こうにはプールを縦に見る、その全景。同じ二階、全面の透明ガラス越しには、エアロビクス教室の十数名、今は上級者コースらしく、行き来も振りも一段と激しいし、区切りに発される声も決然として乱れがない。同じ二階の、今は見えない奥の方には、様々な機器を置いたトレーニングルーム、二人が走っていた場所である。これらを眺めているような面持ちで、慎治が期する所あって発した問いだった。これに対して山本は、身体を揺すって前に乗り出しながら、応えた。
「スポーツ劇画ねぇ。確かにスポーツマスコミはこの頃『感動』をヤラセしていると感じるね。上り詰めていくヒーロー、これだけ鍛えた彼の技、困難を乗り越えてどんでん返し。そういうもんじゃない本物の中田って、なんか本格的な質問だなー。ちょっと考えてみるから、待っててよ」
山本のこれらの表現に慎治は、期待できるという予感のようなものを感じていた。
〈 このジムの、三つのコーナーのメンバーたち、それぞれ何が欲しくてここへ通って来るんだろうか。十代から七十代くらいまでみたいだけど、男女どっちが多いかな。プールは女性、初心者教室などに中年女性が多いから、これまでの人生折々に悩まされた水へのコンプレックスを払拭中で、浮き浮きと通ってる。雰囲気全体がそんな感じで、見てるのも楽しい。だけど、ご希望の減量にはまだなかなかかなぁ。強めの運動の持続時間がもう少し増えてかないと、脂肪は減ってかないよ。減り始めるまで我慢できるかどうか、それが問題だってね。
こっちの泳げる人たちはまあフィットネス。みんな綺麗な体だし、「ブランド物よりよっぽどオシャレだね」って声かけたいくらい。
スタジオのエアロビクスは、若い女性に、若者から五十くらいの男が少し、あれはまあ「楽しがってる自分を観てる」というやつかなぁ。三壁分の全面鏡に囲まれてるから。みんなスタイル良いし、それに何よりも、あんなフットワーク持ってたら人生ウキウキだってね。「会談も四段跳びで上がってく」ってやつ。それにしちゃあ、背中が曲がってるあの子、なんとかならないかなぁ。自分で気づかないのかなぁ、顎をちょっと引いたらすっごい美しいのに。そんなことぐらい、周りの人をちょっと見ても分かるけどなぁ。きれいになりたいと一生懸命なはずなのにぃ。人それぞれって言えばそうだけど、近づいてって直してやりたいよ。
それにしても俺ももお、イジワル婆さんみたいになったもんだ。山本さんに俺が名付けた「スポーツオタク教」そのもので、それでもって回りを一刀両断しとる。スポーツオタク教って言えば、山本さんの神様は間違いなくミケランジェロの天井画のあの神様か、ロダンの考える人かってね。「一神教の神様があんなごつい体だなんて、日本にはなかった感じ方だと思う」とか言ってたなぁ。ローマのシスティナ礼拝堂の最後の審判だったかな。「ああいう肉体にこそ、神性が宿る。これがルネッサンスの考え方だ」山本さん、こんな解説付けてた。
こっちは、いっつもすぐに眼が行っちゃう子! まず姿勢がきれいだし、上下にも左右にも大きい動作のその中で、脚も腕もすくっと伸びるように動いて止まって、なんか一人だけ全く違う。手足の関節全部や指の先っぽまで、初めから意識して習ってきた感じ。習い始めの頃に、自分の身体を観察し自覚するやり方を教えとくというそういう入門の仕方が、そんなやり方を取り入れてる教室がどっかにあるんだろうな、きっと。それにあの子、筋肉で身体が締まってるというふうで、だらんと痩せてるんじゃない。ただだらんと痩せてる人って、中年に近づいて身体の張りがなくなって来ると、おなかだけポコンと出て来ちゃうんだったよなぁ。まあ、俺はいつ見てもあの子に惚れ惚れしてるこった。顔はそれほど見なくって、身体の動きばっかり見てなんだけど、なんかおかしいくらい。ストーカーと見られないように注意しないと。ああ、そうか! 顔を見たことないというのは、鏡の中の顔を見るのも避けてるというのは、そう見られるといけないから目を合わせないように意識してるって? 〉
前触れもなく、山本が語りだした。十代後半の思い出を語った中田の言葉を紹介していく。
「最近の本で中田が言っていることだけど、『俺は九三年に十七歳未満のワールドユースでナイジェリアと戦っているでしょう。その時の衝撃は一生忘れない、と思う。あの運動神経や体力や筋力を目の当たりにしたら、サッカーやめたくなるよ。現にFWのカヌーを見て、とても同じ人間がサッカーやっているようには思えなかったから』(注3)。この三年後、十九歳の中田がさらにこういう体験を重ねたと言うんだね。『十六歳の時、このまま強くなったらどうなるんだろうと考えていたナイジェリアは、三年後にアトランタ(オリンピック)で対戦したときは普通のチームになっていた。もちろん、強いよ。だけど、俺の想像する強さじゃなかった』
この間三年、中田は一体どう過ごしてたのか。彼のいろんな伝記全ての中で、僕が最も興味深いところがここなんだよ」
慎治は、見据えていた山本の顔から上半身を起こして視線を中空に逸らせていきながら、一度大きくゆっくりと頷いたようだ。
〈予感通りだ。一つの小説で言えば最良の山場を、山本さんは間違いなく示してくれた。ここを、中田の後の場面のいくつかとシンクロさせられれば、最高の読み物になるなぁ〉
十六歳で中田は一度アスリートとして絶望的な体験を味わった。それからは日本の誰をも素通りしてただナイジェリアのカヌーらだけを思い描いて、三年。それも、自分と同じ速さで伸びているに違いないカヌーの姿を傍らにイメージし「やっぱり駄目だろうなぁ」という気持も過ぎりつつの、そういう三年! そうして再会。「何とか、まぁ、追いつけたのか?!」、この嬉しさは、中田自身に頼んでも表現に困るようなものだったはずだ。展開小説、劇画の全てが入った三年とその結末ではあるが、これは事実である。それも早生まれの中田にとっては高校二年間とプロで一年、そういう三年だ。
〈俺がスポーツにこれだけ興奮するなんて?!〉、よどんだ朝の気分が頭の一方に蘇ってきて、慎治は悩み抜いてきた小説のプロットがもう決定したと、舞い上がっていたものである。
「中田の生い立ちのそういう肝心なところを、きちんと追った本なんかないんですか?」
「意外にそれがないんだよ。この二つのナイジェリア体験は中田があちこちで述べてることだけど、この三年の中身は誰にも追求されてない。彼関連の単行本は十冊じゃとても済まないはずなんだがね。スポーツマスコミにはどうも現在の大成功の周辺だけが大事ってことかと思っちゃうよ」
「観るだけの人って……… 応援するチームの勝ちや、その日お手柄のヒーローのことしかあんがい観てないんですよ。それも、無意識の劇画的観戦法。マスコミは観るだけの人を増やせば良いんでしょうし」
「中田はもちろん、野茂もイチローもみんなマスコミ嫌いで、それぞれ一度は絶縁状を叩きつけたことがあるらしいけど、そういうことかも知れないね。やる人にとって命みたいな所を聞かないで、馬鹿な質問を連発する」
「テレビ育ちの鑑賞力なんて、そんなもんじゃないですか。それで制作者の方もその力に合わせて番組を作る。こういう悪循環の果ては自分の体験で裏付けるということが本質的に欠けた一過性の感じだけが残ってく。ある小説家が昔、映画育ちの鑑賞力なんてそんなものだよと言ったらしいですけどね」
この夜、帰宅した直後から慎治は、十六歳から十九歳までの中田の取材に己の創作活動を集中していく。主要な伝記物は購入し、部分引用が必要と考えたものは書店で立ち読みもした。山本もいぶかった通りに、この三年前後の情報はなるほど極端に少なかったが、これらをつなぎ合わせていくと、当時の中田英寿像が一応の形を成して現れて来た。
十六歳の中田は、ユース全日本チームの大黒柱で今は消えていったある選手からあからさまにこう言われていたという宮本恒靖(元日本代表キャプテン)の証言がある。「お前、トラップ(注4)止まらへんなぁ」。その宮本は、一年後に会った中田の急変に驚いている。パスの受け手から出してに変わっていたという。そういう技術が急に伸びていて唖然としたと宮本は言うのだ。
とはいえ、アトランタオリンピック当時十九歳の中田は、まだ中心選手とは見られていなかった。当時のオリンピック制限年齢上限の多くの選手たちよりも三歳も若い最年少だということもあってか、レギュラーに定着しているとはいえないが、自己主張が強烈という点で風変わりな選手だったらしい。この点では、アトランタオリンピック・ナイジェリア戦の一つのエピソードが、当時の新聞などを大騒ぎさせて有名になったものだ。守備的に戦うチーム戦略を指示した監督に反抗するようにして攻めに出ていた中田らが、ハーフタイムの時にある主張をした。「勝てるから攻めを厚くして欲しい。僕らが前のゲームでブラジルを破ったせいか、ナイジェリアはびびっている」。ここから監督との激しい言い争うが始まって、中田が次の試合以降はベンチに下げられたということである。三年越しの恋人ナイジェリアに〈予想外に伸びてない。これは闘える!〉高ぶった気分を抑えられないでいる彼が目に浮かぶような事件ではないか。彼らが伸びていないのではなく、それ以上に伸びた中田の目からは相対的に彼らが伸びていないと見えた、これが真の事態だったはずだ。
そうしたアトランタオリンピック以降に十九歳で彼が行った自己評価は、こういうものであった。
「自分が一体世界のどの辺りにいるのか、それを知りたいからサッカーを続けているようなものかな。大きな舞台での楽しみのひとつには、そういう判断を自分でできるということも含まれている。オリンピックの後、対戦した選手のことを気にしていたら、自分がマークについて決して負けていないと思っていたはずの選手たちが欧州に移籍し、ブラジルにもハンガリーにも勝ったのに、自分にはオファーが一件も来なかった」
〈このサッカー後進国で世界に負けたくないと三年やってきて、これだけやり切れたと自分で分かったその時に、誰ひとり相応しい評価をしてくれる人がいないんだ〉
何か、鳥になることに青春をかけた最初のコウモリ。そんな心境が伝わってくる。
(その3で終わる)
注3 これ以降の中田英寿関連のカッコ付き引用は、以下の文献からのもの
小松成美 文藝春秋社「ジョカトーレ」
小松成美 幻冬舎「中田英寿 鼓動」
中田英寿 新潮社「nakata.net」
村上 龍 光文社「奇跡的なカタルシス」
本條強他編 同朋舎「日本代表マガジン」
注4 「トラップ」 自分の所へ来たボールを、身体のどこか一部で衝撃吸収して、思うところへ思うように置く技術。近くの敵がボールをどう奪いに来るかとか、敵との関係で次にボールをどう動かして攻めていくかなどをいろいろと予測、想定しつつ行う。中田はこれの重要さをたびたび、こう表現していたものだ。「シンプルな1対1のパス交換を凄く練習したが、次のあらゆる場面を想定しながらやったもの」
慎治は初め、山本の流儀に抵抗を覚えたものだ。「遊びだよ、むきにならなくても」、そんな感じの抵抗だった。しかしこれが、山本のように「勉強みたいにやる」のもけっこう面白いと変わってきた。始まりは、彼のこんな言葉だ。「僕らみたいな素人はもっと上半身を立てて走らないと疲れるよお」山本からたまに言われたこの言葉を、慎治はある日気まぐれのように真面目に取り入れてみた。時間にしてわずか十分ほど。彼としては背筋が張るのを我慢した試みだったが、確かに速くなり、体の他の部分が楽にもなったと感じたのだ。これ以降、慎治のランニングがどれだけ大きく変わっていったか。歩幅が幾分伸びるようになったのに呼吸はかえって楽になったようだ。だから当然スピードが上がった。それも平均時速にして一キロ以上である。その速さで刻み続けているメーターをちらちら確かめながら、さらに脚が軽くなっていくような気がしたものだ。この改善以外にも、前足は意識して踵から下ろすこと。前脚の膝下を膝より前加減に振り出して着地すると膝を痛めなくてすむということ、最低二十分以上走ってはじめてフィットネスにもなっていくということ、だから「そもそも二本脚動物の人間が過食するなら、長く走れないようになると太るしかない動物だ」ということ。これらの知恵を自分なりに取り入れていくと、すぐその日のうちに、結果が計器に現れることも多いのである。「自分の最高時速の持続時間を三分更新したよ」とか、「体重が一キロ近く絞れた! 頑張ったもんだ」とか、「六百カロリー消費したぞ-!」とか、それは確かな手応えであった。
走行距離が常時五キロを越えた頃から、慎治の体重が少しずつ減り始めた。すると走り続けるのが急に楽になっていくようになった。こんなある日には、成長期の自分をあれほど悩ませたスポーツコンプレックスを、無知のままにただやっていたことの結果に過ぎなかったのではないかと振り返りもした。「知は力なり」という言葉が何か新鮮に思い出されたものだ。
山本のスピードがまた上がった。肘を後に突き出すようにして、腕を低い位置で強目に振ってストライドをさらに延ばそうとしている。呼吸もいっそう深く、激しくなってきた。顎のさきからベルトに落ちる汗の間隔がどんどん狭くなっていく。スピード練習の最後の仕上げに入ったらしい。そうして突然、ベルトスピードが緩められた。五キロを過ぎたのだろう、クールダウンの速歩に入った。慎治はまだ続けている。今日は、ゆっくりでも十キロ以上は走る日と決めていたからだ。
「山本さん、今日の練習テーマは何だったんですか?」
「えーっと、……… 膝を前に速く出すこと、腕をしっかり振ってね、そんなことかなあ」
「五キロを、今日は何分でした?」
「初め遅く入ったから二十三分ほど。ちょっと頑張ったよ。ところで村木さん、ローマの中田がまたやったけど、新聞見た?」
練習を終えた二人が、談話コーナーでいつものように缶ビールを飲みながら始めた会話であった。中田というのは、イタリアに渡った現在二十四歳のサッカー選手、中田英寿のことで、山本が特別に入れ込んでいる人物である。彼がいかに特異な日本人であるかなどと山本は折に触れて話してきたが、慎治も一種独特な気分で付き合うようになった話題だ。山本は中田のことをこんなふうに語ってきた。
今、ベースボールのイチローらアメリカへ渡った何人かが騒がれていてそれも当然だろうと考えるが、あえて比較するなら中田は彼らと比べてもまるで突然変異のような日本人である。まず、日本は、世界で二番目の野球先進国で、イチローはここで既にずば抜けたオールラウンドプレーヤーだったが、ことサッカーに関しては四十番目前後の遅れた国であるから。次いで、こんな事情からか、中田以外のサッカー輸出組のほとんどが成功しなかったにもかかわらず、彼だけが世界のサッカー先進国イタリアでまる四年間もトッププレーヤーであり続けているから。さらに彼は、イタリアナショナルチームの司令塔選手とたまたま同一チームにいて、その役割も重なるのだが、チーム内でその相手と張り合うほどの力を近ごろますます示し始めているのだから。
「今日の新聞もテレビもよく見ましたよ。ところでね山本さん、昨日のもそうですけど中田の話は、世界を股にかけたサクセスストーリーというヤツで、なかなかないようなまー劇画の世界ですよね。だけどー、何と言えばいいかなあ、……劇画じゃなくて本当に凄い中田って、変な言い方で済みませんけど、一体彼のどこ見たらいいと思います?」
吹き抜けの一階、ロビー兼談話コーナーに坐った二人の会話は、続いていく。目の前、透明プラスティック隔壁の向こうにはプールを縦に見る、その全景。同じ二階、全面の透明ガラス越しには、エアロビクス教室の十数名、今は上級者コースらしく、行き来も振りも一段と激しいし、区切りに発される声も決然として乱れがない。同じ二階の、今は見えない奥の方には、様々な機器を置いたトレーニングルーム、二人が走っていた場所である。これらを眺めているような面持ちで、慎治が期する所あって発した問いだった。これに対して山本は、身体を揺すって前に乗り出しながら、応えた。
「スポーツ劇画ねぇ。確かにスポーツマスコミはこの頃『感動』をヤラセしていると感じるね。上り詰めていくヒーロー、これだけ鍛えた彼の技、困難を乗り越えてどんでん返し。そういうもんじゃない本物の中田って、なんか本格的な質問だなー。ちょっと考えてみるから、待っててよ」
山本のこれらの表現に慎治は、期待できるという予感のようなものを感じていた。
〈 このジムの、三つのコーナーのメンバーたち、それぞれ何が欲しくてここへ通って来るんだろうか。十代から七十代くらいまでみたいだけど、男女どっちが多いかな。プールは女性、初心者教室などに中年女性が多いから、これまでの人生折々に悩まされた水へのコンプレックスを払拭中で、浮き浮きと通ってる。雰囲気全体がそんな感じで、見てるのも楽しい。だけど、ご希望の減量にはまだなかなかかなぁ。強めの運動の持続時間がもう少し増えてかないと、脂肪は減ってかないよ。減り始めるまで我慢できるかどうか、それが問題だってね。
こっちの泳げる人たちはまあフィットネス。みんな綺麗な体だし、「ブランド物よりよっぽどオシャレだね」って声かけたいくらい。
スタジオのエアロビクスは、若い女性に、若者から五十くらいの男が少し、あれはまあ「楽しがってる自分を観てる」というやつかなぁ。三壁分の全面鏡に囲まれてるから。みんなスタイル良いし、それに何よりも、あんなフットワーク持ってたら人生ウキウキだってね。「会談も四段跳びで上がってく」ってやつ。それにしちゃあ、背中が曲がってるあの子、なんとかならないかなぁ。自分で気づかないのかなぁ、顎をちょっと引いたらすっごい美しいのに。そんなことぐらい、周りの人をちょっと見ても分かるけどなぁ。きれいになりたいと一生懸命なはずなのにぃ。人それぞれって言えばそうだけど、近づいてって直してやりたいよ。
それにしても俺ももお、イジワル婆さんみたいになったもんだ。山本さんに俺が名付けた「スポーツオタク教」そのもので、それでもって回りを一刀両断しとる。スポーツオタク教って言えば、山本さんの神様は間違いなくミケランジェロの天井画のあの神様か、ロダンの考える人かってね。「一神教の神様があんなごつい体だなんて、日本にはなかった感じ方だと思う」とか言ってたなぁ。ローマのシスティナ礼拝堂の最後の審判だったかな。「ああいう肉体にこそ、神性が宿る。これがルネッサンスの考え方だ」山本さん、こんな解説付けてた。
こっちは、いっつもすぐに眼が行っちゃう子! まず姿勢がきれいだし、上下にも左右にも大きい動作のその中で、脚も腕もすくっと伸びるように動いて止まって、なんか一人だけ全く違う。手足の関節全部や指の先っぽまで、初めから意識して習ってきた感じ。習い始めの頃に、自分の身体を観察し自覚するやり方を教えとくというそういう入門の仕方が、そんなやり方を取り入れてる教室がどっかにあるんだろうな、きっと。それにあの子、筋肉で身体が締まってるというふうで、だらんと痩せてるんじゃない。ただだらんと痩せてる人って、中年に近づいて身体の張りがなくなって来ると、おなかだけポコンと出て来ちゃうんだったよなぁ。まあ、俺はいつ見てもあの子に惚れ惚れしてるこった。顔はそれほど見なくって、身体の動きばっかり見てなんだけど、なんかおかしいくらい。ストーカーと見られないように注意しないと。ああ、そうか! 顔を見たことないというのは、鏡の中の顔を見るのも避けてるというのは、そう見られるといけないから目を合わせないように意識してるって? 〉
前触れもなく、山本が語りだした。十代後半の思い出を語った中田の言葉を紹介していく。
「最近の本で中田が言っていることだけど、『俺は九三年に十七歳未満のワールドユースでナイジェリアと戦っているでしょう。その時の衝撃は一生忘れない、と思う。あの運動神経や体力や筋力を目の当たりにしたら、サッカーやめたくなるよ。現にFWのカヌーを見て、とても同じ人間がサッカーやっているようには思えなかったから』(注3)。この三年後、十九歳の中田がさらにこういう体験を重ねたと言うんだね。『十六歳の時、このまま強くなったらどうなるんだろうと考えていたナイジェリアは、三年後にアトランタ(オリンピック)で対戦したときは普通のチームになっていた。もちろん、強いよ。だけど、俺の想像する強さじゃなかった』
この間三年、中田は一体どう過ごしてたのか。彼のいろんな伝記全ての中で、僕が最も興味深いところがここなんだよ」
慎治は、見据えていた山本の顔から上半身を起こして視線を中空に逸らせていきながら、一度大きくゆっくりと頷いたようだ。
〈予感通りだ。一つの小説で言えば最良の山場を、山本さんは間違いなく示してくれた。ここを、中田の後の場面のいくつかとシンクロさせられれば、最高の読み物になるなぁ〉
十六歳で中田は一度アスリートとして絶望的な体験を味わった。それからは日本の誰をも素通りしてただナイジェリアのカヌーらだけを思い描いて、三年。それも、自分と同じ速さで伸びているに違いないカヌーの姿を傍らにイメージし「やっぱり駄目だろうなぁ」という気持も過ぎりつつの、そういう三年! そうして再会。「何とか、まぁ、追いつけたのか?!」、この嬉しさは、中田自身に頼んでも表現に困るようなものだったはずだ。展開小説、劇画の全てが入った三年とその結末ではあるが、これは事実である。それも早生まれの中田にとっては高校二年間とプロで一年、そういう三年だ。
〈俺がスポーツにこれだけ興奮するなんて?!〉、よどんだ朝の気分が頭の一方に蘇ってきて、慎治は悩み抜いてきた小説のプロットがもう決定したと、舞い上がっていたものである。
「中田の生い立ちのそういう肝心なところを、きちんと追った本なんかないんですか?」
「意外にそれがないんだよ。この二つのナイジェリア体験は中田があちこちで述べてることだけど、この三年の中身は誰にも追求されてない。彼関連の単行本は十冊じゃとても済まないはずなんだがね。スポーツマスコミにはどうも現在の大成功の周辺だけが大事ってことかと思っちゃうよ」
「観るだけの人って……… 応援するチームの勝ちや、その日お手柄のヒーローのことしかあんがい観てないんですよ。それも、無意識の劇画的観戦法。マスコミは観るだけの人を増やせば良いんでしょうし」
「中田はもちろん、野茂もイチローもみんなマスコミ嫌いで、それぞれ一度は絶縁状を叩きつけたことがあるらしいけど、そういうことかも知れないね。やる人にとって命みたいな所を聞かないで、馬鹿な質問を連発する」
「テレビ育ちの鑑賞力なんて、そんなもんじゃないですか。それで制作者の方もその力に合わせて番組を作る。こういう悪循環の果ては自分の体験で裏付けるということが本質的に欠けた一過性の感じだけが残ってく。ある小説家が昔、映画育ちの鑑賞力なんてそんなものだよと言ったらしいですけどね」
この夜、帰宅した直後から慎治は、十六歳から十九歳までの中田の取材に己の創作活動を集中していく。主要な伝記物は購入し、部分引用が必要と考えたものは書店で立ち読みもした。山本もいぶかった通りに、この三年前後の情報はなるほど極端に少なかったが、これらをつなぎ合わせていくと、当時の中田英寿像が一応の形を成して現れて来た。
十六歳の中田は、ユース全日本チームの大黒柱で今は消えていったある選手からあからさまにこう言われていたという宮本恒靖(元日本代表キャプテン)の証言がある。「お前、トラップ(注4)止まらへんなぁ」。その宮本は、一年後に会った中田の急変に驚いている。パスの受け手から出してに変わっていたという。そういう技術が急に伸びていて唖然としたと宮本は言うのだ。
とはいえ、アトランタオリンピック当時十九歳の中田は、まだ中心選手とは見られていなかった。当時のオリンピック制限年齢上限の多くの選手たちよりも三歳も若い最年少だということもあってか、レギュラーに定着しているとはいえないが、自己主張が強烈という点で風変わりな選手だったらしい。この点では、アトランタオリンピック・ナイジェリア戦の一つのエピソードが、当時の新聞などを大騒ぎさせて有名になったものだ。守備的に戦うチーム戦略を指示した監督に反抗するようにして攻めに出ていた中田らが、ハーフタイムの時にある主張をした。「勝てるから攻めを厚くして欲しい。僕らが前のゲームでブラジルを破ったせいか、ナイジェリアはびびっている」。ここから監督との激しい言い争うが始まって、中田が次の試合以降はベンチに下げられたということである。三年越しの恋人ナイジェリアに〈予想外に伸びてない。これは闘える!〉高ぶった気分を抑えられないでいる彼が目に浮かぶような事件ではないか。彼らが伸びていないのではなく、それ以上に伸びた中田の目からは相対的に彼らが伸びていないと見えた、これが真の事態だったはずだ。
そうしたアトランタオリンピック以降に十九歳で彼が行った自己評価は、こういうものであった。
「自分が一体世界のどの辺りにいるのか、それを知りたいからサッカーを続けているようなものかな。大きな舞台での楽しみのひとつには、そういう判断を自分でできるということも含まれている。オリンピックの後、対戦した選手のことを気にしていたら、自分がマークについて決して負けていないと思っていたはずの選手たちが欧州に移籍し、ブラジルにもハンガリーにも勝ったのに、自分にはオファーが一件も来なかった」
〈このサッカー後進国で世界に負けたくないと三年やってきて、これだけやり切れたと自分で分かったその時に、誰ひとり相応しい評価をしてくれる人がいないんだ〉
何か、鳥になることに青春をかけた最初のコウモリ。そんな心境が伝わってくる。
(その3で終わる)
注3 これ以降の中田英寿関連のカッコ付き引用は、以下の文献からのもの
小松成美 文藝春秋社「ジョカトーレ」
小松成美 幻冬舎「中田英寿 鼓動」
中田英寿 新潮社「nakata.net」
村上 龍 光文社「奇跡的なカタルシス」
本條強他編 同朋舎「日本代表マガジン」
注4 「トラップ」 自分の所へ来たボールを、身体のどこか一部で衝撃吸収して、思うところへ思うように置く技術。近くの敵がボールをどう奪いに来るかとか、敵との関係で次にボールをどう動かして攻めていくかなどをいろいろと予測、想定しつつ行う。中田はこれの重要さをたびたび、こう表現していたものだ。「シンプルな1対1のパス交換を凄く練習したが、次のあらゆる場面を想定しながらやったもの」