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随筆  南京大虐殺    文科系

2018年05月07日 10時33分16秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 随筆風に書いた過去ログを再掲します。本日のアクセス・ベスト10に、「南京大虐殺、一師団長の日記から」が入ったことを喜んで。なお、この過去エントリーには、その「師団長の日記から」も入っています。


【 南京虐殺史実の決定版   文科系  2017年03月13日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」
 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したと考えるの普通だろう。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏にということが大事だった。

③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全土から集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。


 さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。

『南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。

『大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」

 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。実に卑怯、姑息な日本軍、奴らである。もっとも命令を出した奴らが卑怯、非道なのであるが・・・。】



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過去W杯の代表戦総括② 10年南ア大会  文科系

2018年05月07日 01時20分10秒 | スポーツ
 以下は、2010年6月30日と7月1日の当ブログに載せた拙稿を併せた物です。

【 パラガイ戦の戦評は、あのゲーム自身と同じように難しい。世界のサッカーマスコミでも、評価が分かれている。点取りのアイディアを中心に見れば両チームとも低評価になるし、チームとしての総合力で見れば日本ということになるらしい。オシムが「日本は、ミルクをこぼした」と表現したり、ヒデが「日本のが実力は上」と述べたりしたのは、玄人的な後者の評価なのだろう。またこの両者ともが「日本はもっと攻められた」と述べているが、とにかくそのことについて書くのが、このゲームの焦点であるべきだろう。
 まずこういうことだ。大会直前にあの守備を確立したからここまで来られたということを考えれば、今回に関しては無い物ねだりとも言えると。このことは、岡田監督も自分の責任として、認めている。
 岡田監督はこう述べた。「点が取れないのは一つだけの理由ではない。それでも、前半途中から遠藤を前に出すとか、守備の要・阿部を憲剛に替えるとかして、リスクを冒した攻めの采配はした積もりだ。それ以上は監督としての僕の力不足。執着心が足りなくて、選手に勝たせてあげられなかったということだ」

 さて、南ア大会の準備段階も含めた日本全体の総括はどうなるか。まず、日本史上最強チームが土壇場になって生まれたことは間違いない。その最強チーム誕生には、2つの要素が絡んでいると思いつく。
 1つは、日本に適した守備体制の発見。過去にもまして強いチームばかりと対戦し、1ゲーム当たり失点0.5というのは特筆すべき事だろう。その検証が第1の課題だろうが、アンカーに阿部という人材を発見できたこともきわめて大きかったと思う。評論家などからは稲本という声が圧倒的に多かっただけに「なぜ阿部がこの守備組織に適していたのか?」は、「日本にあった守備体制とは?」の問題としても今後きちんと総括しておくべき重要事項だと思う。ちなみに、ブラジル出身の名監督シャムスカは、既に今年初めから阿部を推薦していた。また、この阿部が成長期においてオシムに育てられた人材だということも明記しておくべき事だと思う。
 2つ目は、数人の柱が誕生してきたこと。点取り屋・岡崎の誕生がなければ予選段階の困難はずっと増していたと思われる。次いで、本田、長谷部、松井、俊輔という海外組の活躍だ。海外組がいないと急に弱くなったとは、予選段階からはっきりしていたことだったし、本大会のぎりぎりの所ではいつも彼らの活躍に助けられていた。これらの人材の諸能力を、その世界レベルへの成長過程を聞き取ることなども含めて、きちんと追跡・検証すべきではないか。
 
 最後に今後の攻撃、点取りの方向である。「人もボールも走るサッカー」とは、オシムの造語だ。そのオシムは、この「人もボールも走るサッカー」の基礎を教え、これを攻撃法、点取り法にも適用しようとした矢先に倒れた。そのオシムは今、こう述べている。そういう日本的サッカーの確立には、もっとスピードのある選手を発掘すべきだと。技術的スピードは日本にはある程度の水準があるのだから、瞬発走力としてのスピードのことなのである。例えば、岡崎やオランダのロッベンのような。岡崎の大化けの原因は「走り出しで勝負」にあるのだし、ボールを持って走り出したロッベンは止められないというようなものだ。今や世界的強豪クラブのエースと言われる選手ならば、ロッベンのような選手か、メッシやジダンのようなターンなど技術的スピードに特に優れているか、どちらかである。なお、現代サッカーには守備にもスピードが要求されるのであって、長谷部、長友、阿部らの活躍は、彼らのスピードを抜きには考えられないのではないか。

 岡ちゃんが、協会に対してこの3年間の卒論を書くそうで、それをとても楽しみにしている。また来年は、南アメリカ大陸のコパリベルタドーレス杯争奪戦にメキシコとともに日本が招待されたと聞いている。代表新監督が誰になるのか、とても楽しみだ。ついては、今回の結果から考えても案外日本人でも良いと思った。土壇場で守備重視に切り替えて間に合ったというのは、日本人のメンタリティーに通じていなければあり得ないことだと考えるからだ。日本人ならばガンバ大阪の西野が、実績で頭抜けている。日本人を良く知っているオシムも、ガンバのサッカーを褒めていることだし。】


【 代表の「余聞」というような話を集めてみた。
 いろんな数字データがFIFAから出ている。16強内のここまでの順位という形で。日本が1位のものもいくつかある。まず、枠内シュート率59%は1位。次いで被ファール数も1位で、これは個人別でも本田1位、中澤2位。
 日本の枠内シュート率は、これまできわめて悪かったはずで、この数字には驚いた。おそらく、本田の強烈な影響だろうと考えたが、この数字は何か日本リーグ全体のシュートへの考え方を大きく変えるような気がする。プロが枠になかなか飛ばせないなんて、考えてみればおかしい話だ。枠に飛ばないシュートなんて、言ってみれば自己満足だけだろう。
 被ファール数の多さは、日本の技術的スピードなど素早さ、敏捷さに原因があるのだろう。本田と中澤に多いことを考えると、やはりゴール前のやり取りが熾烈だということ。いつも言われているように、Jリーグゲームのここでファールを犯しがちな選手なんて、代表には絶対になれないはずだ。日頃安易にやっていればこんな本番では怖くて使えないということになろうから。もちろんそれ以前に、反則の多い選手は技術も伸びないだろうし。ブラジル出身の名監督シャムスカが阿部を褒めるとき、こんな言葉が付いていたのを思い出す。「ファールなしで相手を止める技術が高い」と。

 他にも、日本の走行距離はそれほどではなく9位。ただしこれはスピードも見なければいけないだろう。日本の全力疾走率はトップクラスのはずである。でなければ他チームから「良くあれだけ走れるもんだ」とか、「ハエのようにうるさがられよう」とか言われるはずはない。時速25キロ以上とか、30キロとか、高速の距離だけで計れば日本の順位は上がってくると思う。そういう数字が欲しい。
 パス成功率が最下位というのもあった。これも条件による。高速で走り回りつつボールを受けているチームは、成功率が落ちるはずだから。

 日本歴代最強のこの代表の、その出生の秘密に触れてみる。言うまでもなく、「土壇場のあの変身」についてだ。「前からの全員プレス」が「2段構えのブロック守備」にどこで、どう変わったのか。これに関わって二つのエピソードが出ている。当然のことながら、選手側からと監督側からだ。
 前者はこう。まず、スイスの合宿で選手を代表して川口ら数人が監督にこう迫ったようだ。「あれほど前から全員プレスをし続けなくても良いのではないか。最後まで持たない。もう少し、ゴール前のブロック守備を取り入れて欲しい」と。ここから始まった話し合いの結果として、監督が結論的にこう語ることになったらしい。「我々は、本田のシュート力とキープ力を生かすために布陣を変える。前からのプレスを減らして、その分ブロック守備を敷く。本田を前からのプレスにあまり使えない以上、それがベストだと考える」。こうして「4-3-3のゼロトップ・阿部のアンカー」が誕生したということだ。
 さて、これが今のチームにぴったりと合っていた事は確かだが、今後もこれで行くかとなれば、別の話。DFにスピードのある人間が発掘されていけば、変化もあり得る。ただしそれでも、オシムが目を付けた勤勉・規律・敏捷性は日本人サッカーの特長であり続けるだろうし、体がない分アンカーは必要なのではないか。阿部の発掘は、それだけ理に叶ったものなのだろう。

 俊輔、長谷部、本田は、20歳でいち早く世界水準に達していた中田英寿を見習いつつ育ってきたと述べている。今度は、長谷部、本田を見てどんな選手たちが育ってくるか。いずれにしても、日本人の体質・文化・風俗に根差したサッカーということであるならば、スピード、瞬間走力こそ今後最大のポイントになるはずだ。爆発的な瞬間走力に耐えうる技術をも前提として。

(以下は、ベスト8からの戦いのことだから、略す) 】
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