ネトウヨさんと思われる方が、あるオランダ政治家の太平洋戦争論をここで長々と紹介された。日本の歴史家たちの最大公約数とも言える理解が、高校の教科書内容。それとは全く違う日本擁護の内容を一政治家だけに語らせて「これが正しい理解だ」というのが、いかにもネトウヨさんらしいと、苦笑した。何度か載せてきたものだが表題のことで、過去ログを改めて掲げたい。慰安婦、南京虐殺にもそれぞれ1回分を当てるので、合計10回近くになるかも知れない。出典はほとんど以下、の著作、日本近現代史学者たち10人ほどの集団論議から生まれた岩波新書「日本近現代史シリーズ」全10巻本の第5~6巻である。
『 太平洋戦争開戦史(1) 文科系 2010年11月15日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
明治~太平洋戦争の右翼流デマ理論は、ここでも明らかにされてきたような俗論で言えばこういうもの。「白人の差別、植民地政策に対して、アジアで比較的進んだ日本がやむを得ず立ち上がったもの。そして、大東亜共栄圏を作ってアジア全体をまもり、繁栄させようとしたのだ」、と。彼らは、こういう「感覚」をば、ある歴史的事実に目を付け、その歴史的説明をねじ曲げていく方法論として用いている。そこから こういう理論と言うよりも「感覚」がネットなどで随分広まっているようだ。よって、これに対する意味を込めて、今読み進んでいる本に書いてあることを要約してご紹介してみたい。岩波新書の「日本近現代史シリーズ全10巻のうち第6巻アジア・太平洋戦争」(第1刷07年8月、第6刷10年3月)。この巻の著者は吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授。この9ページから「(この)戦争の性格」が三つ書かれているのだが、その紹介である。なお、いつものやり方で以下『』内はすべて、本書からの引用である。
1 まず『一つ目の論点は、対英戦争と対米戦争との関係である』(P9)で始まる第1の部分、その結論はこういうものだ
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである』
この結論は、こんな事実によって示されている。
『日本軍の攻撃が真珠湾(12月8日午前3時19分)ではなく、英領マレー半島(同2時15分)に対する攻撃から始まっている事実が端的に示すように、この戦争は何よりも対英戦争として生起した。すでに、日中戦争の開始以来、日本は中国におけるイギリスの権益を次々に侵害し、日英関係は急速に悪化していた。さらに決定的だったのは、40年9月の日独伊3国同盟の締結と日本の南進政策の開始である。40年春のドイツ軍の大攻勢によって大陸からの撤退を余儀なくされたイギリスは、引き続きドイツの攻勢に直面していた。(40年)8月には、すでに述べたように、英本土上陸作戦の前哨戦として、ドイツ空軍は英本土への空襲を開始する』
日本軍部内にも『英米可分論』と『英米不可分論』の対立があったことも述べられている。中国を侵し、イギリスの苦境を好機とばかりにその権益をどんどん侵していき、その果てにドイツとの対決姿勢を強めていたアメリカを呼び込んでしまったというのが事実のようだ。
日英、日米関係をもう少し遡ると、こんな経過になっている。
『39年7月、アメリカは、天津のイギリス租界封鎖問題で日本との対立を深めていたイギリスに対する支援の姿勢を明確にするために、日米通商航海条約の廃棄を日本政府に通告した。さらに、40年9月に日本軍が北部仏印に進駐すると、同月末には鉄鋼、屑鉄の対日輸出を禁止し、金属・機械製品などにも、次第に輸出許可制が導入されていった』
こういうことの結末がさらに、石油問題も絡む以下である。太平洋戦争前夜、ぎりぎりの日米関係をうかがい見ることができよう。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった』
(続く)』
『 太平洋戦争開戦史(1) 文科系 2010年11月15日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
明治~太平洋戦争の右翼流デマ理論は、ここでも明らかにされてきたような俗論で言えばこういうもの。「白人の差別、植民地政策に対して、アジアで比較的進んだ日本がやむを得ず立ち上がったもの。そして、大東亜共栄圏を作ってアジア全体をまもり、繁栄させようとしたのだ」、と。彼らは、こういう「感覚」をば、ある歴史的事実に目を付け、その歴史的説明をねじ曲げていく方法論として用いている。そこから こういう理論と言うよりも「感覚」がネットなどで随分広まっているようだ。よって、これに対する意味を込めて、今読み進んでいる本に書いてあることを要約してご紹介してみたい。岩波新書の「日本近現代史シリーズ全10巻のうち第6巻アジア・太平洋戦争」(第1刷07年8月、第6刷10年3月)。この巻の著者は吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授。この9ページから「(この)戦争の性格」が三つ書かれているのだが、その紹介である。なお、いつものやり方で以下『』内はすべて、本書からの引用である。
1 まず『一つ目の論点は、対英戦争と対米戦争との関係である』(P9)で始まる第1の部分、その結論はこういうものだ
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである』
この結論は、こんな事実によって示されている。
『日本軍の攻撃が真珠湾(12月8日午前3時19分)ではなく、英領マレー半島(同2時15分)に対する攻撃から始まっている事実が端的に示すように、この戦争は何よりも対英戦争として生起した。すでに、日中戦争の開始以来、日本は中国におけるイギリスの権益を次々に侵害し、日英関係は急速に悪化していた。さらに決定的だったのは、40年9月の日独伊3国同盟の締結と日本の南進政策の開始である。40年春のドイツ軍の大攻勢によって大陸からの撤退を余儀なくされたイギリスは、引き続きドイツの攻勢に直面していた。(40年)8月には、すでに述べたように、英本土上陸作戦の前哨戦として、ドイツ空軍は英本土への空襲を開始する』
日本軍部内にも『英米可分論』と『英米不可分論』の対立があったことも述べられている。中国を侵し、イギリスの苦境を好機とばかりにその権益をどんどん侵していき、その果てにドイツとの対決姿勢を強めていたアメリカを呼び込んでしまったというのが事実のようだ。
日英、日米関係をもう少し遡ると、こんな経過になっている。
『39年7月、アメリカは、天津のイギリス租界封鎖問題で日本との対立を深めていたイギリスに対する支援の姿勢を明確にするために、日米通商航海条約の廃棄を日本政府に通告した。さらに、40年9月に日本軍が北部仏印に進駐すると、同月末には鉄鋼、屑鉄の対日輸出を禁止し、金属・機械製品などにも、次第に輸出許可制が導入されていった』
こういうことの結末がさらに、石油問題も絡む以下である。太平洋戦争前夜、ぎりぎりの日米関係をうかがい見ることができよう。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった』
(続く)』