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随筆  『俺の「自転車」』    文科系 

2019年03月28日 01時35分31秒 | 文芸作品
 今七十七になる俺は、週に三回ほど各十キロ近くランニングしている。その話が出たり、ダブルの礼服を着る機会があったりする時、連れ合いがよく口に出す言葉がある。
「全部、自転車のおかげだよね」。
 この礼服は、三十一歳の時、弟の結婚式のために生地選びまでして仕立て上げたカシミアドスキンとやらの特上物である。なんせ、俺の人生初めてにして唯一の仮縫い付きフル・オーダー・メイド。これがどうやら一生着られるというのは、使い込んだ身の回り品に愛着を感じる質としてはこの上ない幸せの一つである。よほど生地が良いらしく、何回もクリーニングに出しているのに、未だに新品と変わらないとは、着るたびに感じること。とこんなことさえも、「生涯自転車」の一因になっているのだ。

 初めて乗ったのは小学校中学年のころ。子供用などはない頃だから、大人の自転車に「三角乗り」だった。自転車の前三角に右足を突っ込んで右ペダルに乗せ、両ペダルと両ハンドル握りの四点接触だけで漕いでいく乗り方である。以降先ず、中高の通学が自転車。家から五キロほど離れた中高一貫校だったからだ。やはり五キロほど離れた大学に入学しても自転車通学から、間もなく始まった今の連れ合いとのほぼ毎日のデイトもいつも自転車を引っ張ったり、相乗りしたり。
 上の息子が小学生になって、子どもとのサイクリングが始まった。下の娘が中学年になったころには、暗い内からスタートした正月元旦家族サイクリングも五年ほどは続いたし、近所の子ら十人ほどを引き連れて天白川をほぼ最上流まで極めたこともあった。当時の我が家のすぐ近くを流れていた子どもらお馴染みの川だったからだが、俺が許可を出した時には、文字通り我先にと身体を揺らせながらどんどん追い越していった、あの光景! 
 この頃を含む四十代は、片道九キロの自転車通勤があった。これをロードレーサーで全速力したのだから、五十になっても体力は普通の二十代だ。自転車を正しく全速力させれば、腕っ節も強くなるのである。生涯最長の一日サイクリング距離を弾き出したのもころ。知多半島から伊良湖岬先端までのフェリーを遣った三河湾一周の最後は豊橋から名古屋まで国道一号線の苦労も加えて、実走行距離は百七十キロ。
 その頃PTAバレーにスカウトされて娘の中学卒業までこれが続けられたのも、その後四十八歳でテニスクラブに入門できたのも、この自転車通勤のおかげと振り返ったものだ。

さて、五十六歳の時に作ってもらった現在の愛車は、今や二十年経ったビンテージ物になった。愛知県内は矢作川の東向こうの山岳地帯を除いてほぼどこへも踏破して故障もないという、軽くてしなやかな品だ。前三角のフレーム・チューブなどは非常に薄くて軽くしてあるのに、トリプル・バテッドと言ってその両端と真ん中だけは厚めにして普通以上の強度に仕上げてある。いくぶん紫がかった青一色の車体。赤っぽい茶色のハンドル・バー・テープは最近新調した英国ブルックス社のもの。このロードレーサーが、先日初めての体験をした。大の仲良しの孫・ハーちゃん八歳と、初めて十五キロほどのツーリングに出かけたのである。その日に彼女が乗り換えたばかりの大きめの自転車がよほど身体に合っていたかして、走ること走ること! 「軽い! 速い、速い!」の歓声に俺の速度メーターを見ると二十三キロとか。セーブの大声を掛け通しの半日になった。
「じいじはゆっくり漕いでるのに、なんでそんなに速いの?」、
「それはね、(かくかくしかじか)」
 こういう説明も本当に分かったかどうか。そして、こんな返事が返ってきたのが、俺にとってどれだけ幸せなことだったか! 
「私もいつかそういう自転車買ってもらう!」
 そんなこんなからこの月内にもう二度ほどハーちゃんとのサイクリングをやることになった。二人で片道二十キロ弱の「芋掘り行」が一回、ハーちゃんの学童保育の友人父子と四人のがもう一度。前者は、農業をやっている僕の友人のご厚意で宿泊までお世話になるのだが、彼にも六歳の女のお孫さんが同居していて、今から楽しみにしているとか。

 ランニングとサイクリングの楽しさは、俺の場合兄弟みたいなものだ。その日のフォーム、リズム、気候諸条件などが身体各部の体力にぴったり合っているらしい時には、各部がぴったり合った最小限の力で気持ちよくどこまでも進んで行けるというような。そして、そんな時には身体各部自身が協調しあえていることを喜び合っているとでもいうような。自分の視覚や聴覚の芸術ならぬ、自分の身体感覚が感じ導く自作自演プラス鑑賞付きの、誰にでも出来る身体芸術である。
残り少なくなった人生だが、まだまだこんな場面を作り続けたい。そして、ランナーで居られる間は、続けられると目論んできた。自転車が五九歳にしてランを生み、退職後はランが自転車を支えて、まだまだ続いていく俺の活動年齢。
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随筆 「子育て現役」喜寿男   文科系

2019年03月28日 00時31分48秒 | 文芸作品
「ジイジ、池田さんに二重跳びを教えたんだって? 凄く喜んでたよ」。
 学童保育に二年生の孫ハーちゃんを迎えに行った帰りに、彼女が突然こんなことを言い出す。「池田さんがそう言ってたの?」と尋ね返すと、「今日、学級であった『最近嬉しかったこと』の発表授業で、ジイジのおかげで三回しかできなかったのが二十回を超えたと池田さんが発表したから、驚いた」。事実は、直前の日曜日にこんなことがあったというだけのことだ。パパが参加しているPTAバレーボールの練習に下の四歳男児の子守を頼まれて僕が同行した時に起こったことの一つなのである。

 同じようなことで、こんなこともすぐに思い出した。ハーちゃんの学童保育の一年上の女の子に水泳を教えた体験だ。この子の弟がハーちゃんと同じ教室、時間帯に通っていて、いつも見学に行く僕がそこで会っているご両親に「上の子もここに入れようかと考えている」と相談されたことがあった。何故か咄嗟に僕がこう応えてしまったのは、この家族が何か格別に気に入っていて、娘家族との付き合いが続くようにと願ったからのようだ。「この教室は良くないし、この年で入門するのは心理的にどうも? 僕が教えようか?」と。そして、二か月ほど合計十回ちょっとの個人レッスンで、この子が二五メートルを二〇本も、少々の間を置いて泳げるようになったのだが、このことには僕の方がよほど感動させられたもの。両親の、さらに上を行く喜びようは言うまでもなく、両家族のパーティーとか、家族サイクリングとかにも繋がっていった。もちろん、僕も招待されて。という以上に、家族サイクリングなどは僕の発案によるものだった。

 さて、これら全てを今振り返ってみれば、娘の長期戦略の結果なのだ。幼少期から自分が僕にされたことを覚えていて、そんな僕を忙しい共働き生活の中に引っ張り込んだのである。今で言えば、下の四歳男児の保育園や学童保育の送迎(学童保育のお迎えが、今は週4日もあるのだ)、熱発お助けマンから、ママ友パーティーとか家族旅行とかの参加要請まで。それどころか、保育園や学校の行事参加にまで発展して行った。たとえばパーティーは僕の持参ワインを、家族旅行は「いざという時などの子守支援」を当て込んでいるのだろうが、これら全て何故ババでなく、僕に来るようになったのか? おそらく、僕の方が頼みやすかったのだ。それにしても、保育園、学童保育の夏季キャンプから、孫以外の子らの歓送迎会までって、ちょっと頼みすぎだろう? がこれも、今は明確にこんな狙いだったと理解すれば、僕も心から乗っていけるのである。好奇心が強く、子ども好きの僕を引っ張り出しておけば、孫やお婿さん、その周囲とより深く繋がってくれて、いろいろと好都合であると。 

そんなわけでさて、昨日は(ババが断ったから)五人の下呂一泊旅行から帰ったばかりで、この金曜日にはハーちゃんを歯医者に連れて行き、月末には学童保育で親しんだ六年生の送り出し会、新年度すぐに保育園の山の家キャンプがあって、ゴールデンウイークにはまた家族サイクリング。今年七八歳の僕だが、こんなに楽しめる老後になるって、想像もできなかった。今は一時間で九キロほどと遅くなったランナーの体力だが、こういう全てにこれほどに役立つことになろうとも、全く予想していなかったことだった。
コメント (1)
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