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エンゲル係数からGDPまで、政権の統計不正   文科系

2019年03月18日 10時23分01秒 | 国内政治・経済・社会問題
 安倍政権の統計不正はどうも、「経済数値を密かに改竄した」クーデターとも言うべき様相を呈してきた。以下に観るようにきわめて深刻に。
『安倍が政権に返り咲いた直後の13年以降、全56件の基幹統計のうち、53件の統計の取り方が見直された。うちGDP関連は38件で、10件は統計委で審議されずに見直されたという』
 毎月勤労統計、『修正エンゲル係数』、家計調査における高消費世帯方向への世帯サンプルの見直しから、GDPの嵩上げまで、その凄まじい改竄の全貌がやっと見え始めて来た。こう言う全貌を元自民党平野貞夫氏は「故意」と断定し、「経済クーデター」と呼んでいる。対するに、特別監察委員会のまとめ報告書に、それも2回目のものに、曰く。
『嘘をついているが隠蔽じゃない』??



【 統計不正の安倍首相「ムキになって否定」はモリカケと同じ 2019/03/08 日刊ゲンダイ 

「経済指標を良くしようという行為とは、全く、関わりがない」
「まるで私たちがですね、統計をいじってアベノミクスを良くしようとしている、そんなことできるはずないじゃないですか。そんなことできるはずがないんですよ」


 厚労省の「毎月勤労統計」を巡る不正問題で、野党側の追及に対して安倍首相が度々、感情をムキ出しにして否定する場面が目立っている。昨年のモリカケ疑惑を巡る国会質疑でも繰り返された光景だが、落ち着いて論理的に答弁できないのは、それだけ野党側の追及が的を射ている証左だろう。

 安倍が言うとおり、政権側に何ら後ろめたいことがなく、あくまで厚労省による不適切な統計処理に過ぎない――と考えているのであれば、再発防止のためにも野党と協力して徹底的に真相究明に取り組むべきだ。統計は国家の基幹に関わる重要な指針なのだ。

 ところが、与党側にそんな姿勢は見られない。キーマンといわれた厚労省の大西康之前政策統括官や、特別監察委の樋口美雄委員長ら関係者の参考人招致を当初、ことごとく拒否し、4日から始まった参院予算委では欠席する参考人が続出した。詳細を知る立場にいたとみられる官僚が予算委で「記憶にない」とはぐらかし答弁を連発しても知らん顔で、野党側が求めている前年と同じ事業所を比べた場合の実質賃金の伸び率のデータの公表についても、「可能かどうかということも含めて、今、検討している」(安倍)などとノラリクラリ。

 揚げ句、特別監察委がまとめた統計不正の2回目の報告書の結論は「嘘をついているが隠蔽じゃない」である。全く支離滅裂で、誰がどう見ても問題を隠すための強引な幕引きとしか思えない。


■統計不正は「過失」ではなく「故意」で行われた

「私や妻が関与したのなら、総理大臣も国会議員もやめる」「加計氏とは相談や依頼があったことは一切ない」。
 モリカケ疑惑でも、安倍が大袈裟に反論する一方、参考人招致された官僚がオトボケ答弁を繰り返していたが、今回も全く同じ図式。安倍政権の「十八番」というべき隠蔽パターンの手口だ。統計不正を〈経済クーデター〉と断じる元参院議員の平野貞夫氏はこう言う。
「良識ある国民は今国会でモリカケ疑惑のような答弁を続けている安倍首相や官僚の姿を見て、おそらく『何かを隠そうとしているな』と分かるでしょう。それは言うまでもなく、アベノミクスに都合の良い数字を捏造しようと官邸が関与した疑いです。野党が指摘しているアベノミクス偽装ですよ。安倍政権の統計不正は『過失』ではなく、明らかな『故意』。統計制度は憲法と同じか、それ以上の国家の根幹であって、時の権力が恣意的にねじ曲げて悪用することは絶対に許されない」

 この政権の悪しき特徴は、国民生活への影響を考えず、詳しい説明もないまま、それまでの仕組みや制度を突然、好き勝手に変えることだ。そして、それを追及されても「知らぬ存ぜぬ」と言い放ち、資料やデータは改ざん、捏造、廃棄だ。まさにデタラメの極みだが、モリカケ疑惑と同様、統計不正でも今後、政権の嘘をひっくり返す新たな証拠が出てくる可能性は高いのではないか。


■あらゆる統計の不正が常態化したこの国の政治は末期症状

〈最近見られたエンゲル係数の上昇の動きは剥落し、世帯の可処分所得がピークとなった1990年代後半以降、ほぼ横ばいで推移していることがお分かりいただけると思います〉
 総務省統計局が公式HPに掲載している〈明治から続く統計指標:エンゲル係数〉のグラフを巡っても「偽装統計」疑惑がささやかれている
 エンゲル係数は「消費支出総額に占める食費支出の割合」で、生活水準を表す指数だ。富裕層も低所得者層も食べなければ生きていけない。当然、カツカツの生活費で暮らす低所得者層ほど支出に占める食費の割合は上昇する。つまり、数値が高いほど生活水準は低いと見るのが一般的だ。

 エンゲル係数は06年から12年までは23%台で安定していたが、12年12月の第2次安倍政権発足以降、急上昇。16年は25・8%になった。そこで昨年1月の参院予算委で、民進党(当時)の小川敏夫議員がアベノミクスによって「国民生活は苦しくなった」と指摘。答弁した安倍は「物価変動、食生活や生活スタイルの変化が……」などとゴニョゴニョ言っていたのだが、そうしたらナント! 総務省は密かに「修正エンゲル係数」なる新たなグラフを作成。計算式を「実質可処分所得に占める実質食料支出の割合」に変更し、上昇傾向だったエンゲル係数を打ち消してしまったのだ。経済評論家の斎藤満氏がこう言う。
「『修正エンゲル係数』は『エンゲル係数』という言葉を使っていますが全く別の概念であり、アベノミクスの失敗を隠蔽するために作られた偽装係数と言っていいと思います」



■統計委で審議されずに見直された統計がゴロゴロ

 斎藤氏によると、偽装データはまだある。総務省の「家計調査」だ。
「18年の世帯構成で、世帯主が60歳以上の世帯割合が52・3%と、前年の53・4%から1ポイント以上も減りました。さらに『無職世帯』の割合が18年は33・8%と前年の34・6%から減少。代わって『勤労者世帯』が52・9%と前年の49・6%から大幅に増加したのです。無職世帯の消費額は勤労者世帯に比べて2割程度少なくなるため、勤労者世帯の比率が高まるほど平均消費水準が高まる。つまり、個人消費などの消費水準を高めるために意図的なサンプル変化が行われた疑いがあるのです」

 いやはや、一体、果たして正しい政府統計はあるのか。極め付きは「GDPカサ上げ」疑惑だ。立憲民主の小川淳也議員によると、安倍が政権に返り咲いた直後の13年以降、全56件の基幹統計のうち、53件の統計の取り方が見直された。うちGDP関連は38件で、10件は統計委で審議されずに見直されたという。
 安倍が「GDP600兆円の達成」を掲げたのが15年9月。その後、「国際基準」を理由にGDP算出に新たに「研究開発費」などが組み入れられた結果、15年度のGDPは、旧基準よりも31兆円も増加。内訳は「国際基準」要因が24兆円、防衛装備品などの「その他」が7・5兆円だが、過去のGDP数値を見ると「その他」は主に押し下げの要素が強かったのに、安倍政権では真逆。小川議員が国会で「その他」の大幅増の不自然さを指摘したのも当然だ。

 GDPカサ上げ疑惑を以前から指摘してきた弁護士の明石順平氏は近著「データが語る日本財政の未来」(集英社インターナショナル新書)で、GDPの算出方法の変更で、アベノミクスの失敗を示す6つのデータのうち、4つが消えた、と指摘している。明石順平氏がこう言う。
「アベノミクスはデータで見ると壮絶に失敗していると言える。私は(それを糊塗するため)GDP関連の数値は明らかに政権の意向が強く働いていると考えています」

 こんなにも統計不正が常態化している先進国はないだろう。この国の政治は末期的状態だ。】
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戦争論、正誤二つの理解   文科系

2019年03月17日 07時54分15秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 一つの試みとして、正しい戦争理解と、よくある誤った理解とを以下に述べてみたい。まず、誤った戦争論から。

 誤った戦争論の典型、最近テレビで語られた安倍首相のそれを解説してみよう。そして、その誤りがどこにあるかを論じてみたい。爆笑問題の太田光とのテレビ対談で、安倍はこんなことを述べていた。
 日本国憲法前文の「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、(われらの安全と生存を保持しようと決意した)」を読み上げた安倍が、これを否定して見せた所から2人のやり取りが始まった。これを、こう切って捨てたのである。
「他力本願ですよ、ベトナム戦争、イラク戦争など戦争はいっぱい起こっているのに・・・」

 安倍がここで言う「戦争という現実」の例二つは、アメリカが起こしたものだ。21世紀の地球上の大きい戦争も、アメリカが関わったものがほとんどである。安倍はそのアメリカにべったり張り付いて、その戦争を常に支持してきた。これを言い換えれば、安倍も戦争の世界を作るのに寄与して来たということになる。世界第3の大国の首相の影響力を持ってして、現にそんなことに彼は努めてきたわけだ。

 こうして彼の言う「戦争という現実」は、人間の宿命のようなものではないどころか、自分も創っているその現実を何か自然に起こっているものと、他人事のように語っているのである。 こういう安倍を支持する人々も同じであって、自分も世界の戦争を作っているのにその自覚はなく、これが自然に起こっているもののように錯覚しているわけだ。
 つまり、こういう人々にあっては、安倍がこの対談でも叫んでいたようなこんな言葉は、全部嘘になってしまう。
「そりゃ、イラク戦争のように人が死ぬのは残念ですよ」
「戦争はない方がよいですよ」


 対するに、正しい戦争論は21世紀の今や、こういうものとして見えてきたと、言えるはずだ。
①人類に、闘争本能?とか、生まれつき戦争するものだというような「戦争宿命」のようなものは存在しない。戦争に関わって存在するのは、ただ一つ、戦争の人類史だけである。

その戦争の人類史では、特に最近の200数十年ほど前から、こういうことが示されている。
・「自由 平等 博愛」というように、人の命がどんどん等しいものと観られるようになった。人種、異民族の差別も悪となった。
それにともなって、戦争が悪いものと理解されるようになって来た。ちなみに、昔は戦争は悪どころか「我が信じる神の栄光」というような「正義」だったのである。悪魔のような異民族を、その悪魔宗教もろとも地球から無くすというようなものとして。
・ちなみに、アメリカの今のイスラム敵視には、この国に多い聖書原理主義思想が関与してはいないだろうか。州の学校教育から進化論を排除する力を持った所もあるような、それである。
・そして、戦争を無くそうという世界組織、世界法も作られるようになった。20世紀に生まれた国際連盟、国際連合のようなものは、もっともっと人類の宝物になっていくはずだ。今のアメリカが新たに、これの無視をどれだけ強めているとしても。

③こうした世界史の流れは、これを否定する論も絶えず生まれているとしても、人類の支持を得てやがて戦争をなくするだろう。これからの人類自身、その民主主義実践だけがこれを決めることだろうが。
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明治以降75年の日朝史(4)朝鮮併合から新憲法へ   文科系

2019年03月16日 01時36分01秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 このシリーズの終わりです。

【 (4)朝鮮併合後の日本と新憲法   文科系 2014年05月23日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 今朝の中日新聞「9条の配当 われらの憲法」シリーズに、こんな言葉があった。
「犬死で無かった証拠にや 新憲法のどこかにあの子の血がかよう」
 平和憲法は全ての戦死者の生まれ変わりなんです」
 そう、明治維新以来の日本は1945年の敗戦まで無数の戦争、武力侵攻を犯してきた。その結末が、初めての厳し過ぎる太平洋戦争敗戦であり、この敗戦に至るまでの「長い戦争史」の出発が朝鮮なのであると、今回の旅行と勉強でつくづく理解できたものだ。調子に乗ってどんどん事を起こし、手痛い敗戦を喫して「国体」が替わり、新憲法が生まれたと。しかも、新たな保守派は、そのことの反省もほとんどないのである。

1910年の朝鮮併合までとその後と、日本は常に戦争をしてきた。そのいくつかの軌跡を年表として記してみよう。

(1867年 明治維新)
1874年 台湾出兵
1876年 朝鮮、江華島事件 不法侵入による艦砲砲撃、上陸戦、要塞や民家の焼き討ちも含んだ小さな戦争である。
1884年 朝鮮、甲申政変 日清間主導権争い。日本派によるクーデターと日本の参戦・敗北。
1894年 東学農民戦争、日清戦争   
1904~5年 日露戦争
1910年 朝鮮併合
(併合と言うけど、植民地化へと武力で屈服をここまでエスカレートさせて来たということだ。何せ江華島事件から34年かけて徐々に主権を奪っていったのだった。この間もこれ以降も、ずーっと絶えず大小の抵抗運動が起こっている)

1914年 第一次世界大戦参戦
1918年 シベリア出兵
1919年 朝鮮3・1独立運動とその鎮圧
 『3・1運動のなかでの朝鮮人の死者は、7,509人、負傷者15,849人、逮捕者は46,306人に及ぶとされる』(岩波新書「シリーズ日本近現代史」 その「③日清・日露戦争(原田敬一著)」P143ページ)
(1919年 関東軍設置)
(1923年 帝国国防方針改定 仮想敵第一が、ロシアからアメリカに換わる)
(1925年 日ソ国交樹立)
(1927~29年 世界大恐慌)
1927~28年 山東出兵(満州、華北への勢力拡大を狙ったもの)
1928年 張作霖爆破事件
1931年 柳条湖事件 満州事変
1937年 盧溝橋事件 日中戦争
1941年 太平洋戦争
1945年 敗戦

 朝鮮相手の小さな「戦争」についても、ほんの一例を挙げてみよう。日清戦争後1895年の閔妃暗殺事件である。

『1895年10月8日、漢城で大事件が起きた。14日、『ニューヨーク・ヘラルド』「王妃殺害の全容」という記事は、「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性3人を殺害した」という第一報を10日漢城から発信したが、東京で差し止められていた、と報じ(中略)
 国際的非難を受けた日本政府は、三浦梧楼駐韓公使を召還し、関係者とともに裁判(広島地方裁判所)に付したが、世界史に類のない蛮行であるにもかかわらず、「証拠十分ならず」として48人全員無罪・免訴という最悪の結果となった』

(岩波新書「シリーズ日本近現代史」 その「③日清・日露戦争(原田敬一著)」P193ページ)

 こういう日本近代戦争史を見るとき、敗戦と新憲法はこういう流れの一時代の結末として時代を画するものであったのだとつくづく噛み締めるのである。この反省が少な過ぎるように見受けられる今の政権は、自ら戦争を起こすことになるという可能性について、あまりにも無自覚だと思われてならない。

 折しも、GAFAの株価時価総額がドイツ1国のGDPを越えるというような株価「虚飾」はともかくとして、世界にまともな職業のなさ、失業者の多さ、賃金の少なさなどなどから100年に一度と言われた世界恐慌状態が続いていることは明らかである。現在の世界に弱肉強食社会をもたらしている新自由主義金融経済は、世界の至る所にいざこざ、にくしみあい、紛争をもたらしている。こういう弱肉強食世界に日本が乗っていくのか、これを正そうとするのか、そんな今主としてアメリカを相手にした集団的自衛権行使への解釈改憲って上記75年の反省が足らなすぎると思えるのである。
 朝鮮に対しても1876年江華島事件以来これだけのことをしでかしながら、今は悪びれた様子さえないように見える。慰安婦問題一つをとってもこんな批判も十分に可能であろうに。
「上記のように長い間朝鮮を疲弊させてきた末の1929年世界大恐慌後などは、日本農村などでも『娘売ります』もあった時代。朝鮮の米は群山などから日本に送って、朝鮮人は粟などを食べていた時代でもある。日本が朝鮮にそうさせたわけだ。万一ネトウヨ諸君が言うように強制がなかったとしてさえ、事実としては強制と同じ事をしてきたのではないか」

(このシリーズはこれで終わります)】
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悪魔の仕業、ベネズエラの電力破壊  文科系

2019年03月15日 08時17分37秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 これも「マスコミに載らない海外ニュース」サイトからの転載である。ベネズエラの発電所がサイバー攻撃を受けて、同国電力事情に大災害をもたらしている。同じことが以前にイランでも起こっていたというその内容付きで、アメリカはシカゴのある記者の報告である。題して「当初思われたより遥かに深刻なトランプ政権によるベネズエラ電力戦争 2019年3月10日 Stephen Lendman」とあった。

 それにしても、アメリカ発の「マドゥロの酷さ」ニュースだけは伝える日本マスコミが、なぜこの大事件を報道しないのだろうか。アメリカ為政者と同じで、「『独裁者』の下の国民は生きる資格もない」と考えているとしか思えないのである。嘘の理由をでっち上げて開戦したイラク戦争で、関連死含めて50万人のイラク国民が亡くなったのと同じ構図と言える。


【 木曜(文科系注 3月7日のこと)、混乱を最大にすべく、ラッシュアワー時間の午後5時00分に、ベネズエラのグリ・ダム水力発電所がサイバー攻撃された。
 ベネズエラの最大80%が影響を受け、与えられた損害は最初考えられていたよりずっと深刻だ。この出来事の前には、何週間、あるいは何カ月もの計画があった可能性が高い - こういうものを成功させるには相当な専門知識が必要なのだから、アメリカの闇の勢力が背後にいるのはほぼ確実だ。


 金曜日に二度目のサイバー攻撃、土曜日に三度目の攻撃が続き、電力が復活した地域に影響を与え、問題解決をさらに複雑にしたとマドゥロが述べている。
 ベネズエラのおよそ70%で電力が回復した後「白昼、我々はもう一つのサイバー攻撃を受け、再接続作業が乱され、昼までに達成した全てが駄目になった」と付け加えた。
 「完璧に機能していた発電装置の一つ」が電力会社を内部から攻撃する潜入者により再び破壊工作された。」

 電力は「手作業で」復活されており、コンピュータ化されたシステムがなぜ故障したかの情報を正確に得る努力が続けられている。ボリバル共和国変電所の変圧器の後に複雑にされたものが爆発して燃え事態は悪化しているが、更なる妨害活動を示唆している。】

(以下略。略した内容は、これと同じことが、ずっとアメリカの仇敵とされてきたイランでも過去に起こったというもの。その詳細を描いている。書き出しはこんな風に)

【 ベネズエラで起きていることは、2010年アメリカ/イスラエル共同諜報活動で、スタクスネット悪性ソフト・コンピュータ・ウイルスが、イランのブーシェルとナタンズ原子力施設を感染させたのに似ている。エドワード・スノーデンが、出来事は、ウイルスのせいだとした。

 当時、操業は無期限に停止された。イランは事件を敵対行為と呼んだ。ゴラム・レザ・ジャラリ司令官は、もし影響を受けた施設が、感染したまま、オンライン接続すれば、イランの全ての送電網が停止していた可能性があると述べた。

 問題を完全に解決するのに数カ月を要した。2010年夏の攻撃に引き続き、悪性ソフトは、施設の遠心分離機を感染させ続け、それらの交換が必要になった。】
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明治以降75年の日朝史(3)朝鮮の英雄・安重根  文科系

2019年03月15日 07時59分14秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
【 明治以降75年の日朝史(3)朝鮮の英雄・安重根  文科系 2014年05月18日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など


 前回見た江華島事件(1875年)から1910年の朝鮮完全征服まで、日本による朝鮮制圧深化と人民の抵抗運動はどんどん進んでいく。ソウルの「安重根義士記念館」パンフレットに載っている19世紀末だけをとってみても、これだけの事件があった。
 壬午軍変(じんごぐんへん、1882年)、甲申政変(こうしんせいへん、1884年)、東学農民戦争と日清戦争(1894年)、乙未事変(いつびじへん、1895年)などなどと。反乱が起こって鎮圧したり、日本の大軍を初めて外国に常時駐留させることになったり、日本支配に抵抗した王妃を斬殺・死体焼却させたり。この斬殺は、三浦梧楼という公使(武官)が犯人だと分かっていて、証拠不十分とかで釈放になっている。さらには、朝鮮を巡って清国や日本抵抗勢力と戦争にも発展した東学農民戦争は、朝鮮半島南部全域に広がるという激しい抵抗運動だった。ちなみに、安重根獄中自叙伝には「伊藤博文の罪状 15か条」が付されているが、その第8にこう書かれている。
『国権回復のために蜂起した大韓国の義士たちと、その家族10万余人を殺害した罪』

 こういう諸事件の一つの結末が、1910年の朝鮮併合である。韓国ではこの併合のことを普通に、その年の呼び名を付けて「庚戌国恥」と呼んでいる。安重根事件はその前年のこと。1909年にハルピンで日本朝鮮総統・伊藤博文を暗殺したのである。記念館パンフレットではこれを「ハルピン義挙」と記していた。

 さて、この「義挙」に関わってこの1月、日本でこんな出来事があった。伊藤博文暗殺の現地・ハルピンに中国が安重根記念館を開館して韓国が謝意を表したという問題で、菅官房長官が「テロリストに対してなんたることか!」と反撥意見を表明したのである。正式抗議もしたようだ。どっちも理ありとも見えてなかなか理解の難しい問題であるが、安倍政権のこの態度を以下のように批判したい。


 当時の「法律」から見たら当然テロリストだろうし、今の法でも為政者殺しは当然そうなろう。が、35年かけて無数の抵抗者を殺した末にその国を植民地にしたという自覚を日本側が多少とも持つべきであろうに、公然と「テロリスト」と反論・抗議するこの神経は僕にはどうにも理解しがたい。これで言えば、前回に書いた日本による江華島事件などはどう批判したらよいのか。国際法に違反して一方的に首都近くまで艦砲砲撃を進め、城や民家を焼いて35人を殺しているのである。これだけでも安重根の罪よりもはるかに重いはずだ。前にもここで述べたことだが、安重根テロリスト論はさらに、こんなふうに批判できると思う。

『 さて次に起こるはずのこの理解はどうか。ならば、「向こうは『愛国者』で、こちらは『テロリスト』と言い続けるしかないのである」。僕は、こういう理解にも賛成しかねる。
 今が民主主義の世界になっているのだから、やはり植民地は悪いことだったのである。「その時代時代の法定主義」観点という形式論理思考だけというのならいざ知らず、現代世界の道義から理解する観点がどうでもよいことだとはならないはずだ。「テロリスト」という言い方は、こういう現代的道義(的観点)を全く欠落させていると言いたい。当時の法で当時のことを解釈してだけ相手国に対するとは、言ってみるならば今なお相手を植民地のように扱うことにならざるをえないはずだと、どうして気づかないのだろうか。僕にはこれが不思議でならないのである。こんな論理で言えば、南米で原住民の無差別大量殺人を行ったピサロを殺しても、スパルタカスがローマ総督を殺しても、テロリストと呼んで腹を立てるのが現代から観ても正当ということになる』(『「テロリスト」「愛国者」、安重根記念館 2014年04月05日』)

 全く安倍政権はどういう外交論理を持ち、どういう神経をしているのだろう。相手の立場の尊重という一片の理性も見えず、言ってみるならば「人間関係はケンカ、対立が当たり前。こちらの論理を語るだけ」と述べているに等しい。社会ダーウィニズムを思い起こさせるような人としての拙さ、幼稚さだと思う。】
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大異変、欧州CLも日本サッカーにも!   文科系

2019年03月14日 10時08分20秒 | スポーツ
 欧州チャンピオンズリーグの今年の闘いは、決勝トーナメント1回戦が終わって、大異変が起こっている。ベスト8のうち4つがイングランド勢で、あとはアヤックス(オランダ)、ポルト(ポルトガル)、ユベントス(イタリア)、バルセロナ(スペイン)と、4国4チームが綺麗に並んだ。
 スペインのレアルとアトレティコの両マドリッド勢、ドイツのバイエルンとドルトムント、フランスのパリサンジェルマンなどの常連がここに居ないのが目立つのである。それだけ、イングランド・プレミアリーグの上昇、成功が著しいということだ。急上昇中のパリはマンチェスター・ユナイテッドに負け、ドイツの2強豪もイングランド勢に敗れた。

 さて、僕は日本サッカーでも大きな異変が起こりつつあると観ている。アジア・チャンピオンズ・リーグにおける日本勢の雲行きがどうも怪しいし、現在進行中のカップ戦でも長崎、柏とJ2勢が活躍しそうな上に、名古屋のJリーグ戦3連勝、首位なども予想外の大異変と言えるからだ。因みに僕は、大金叩いた神戸や、監督が注目を集めるセレッソには全く期待せず、札幌や横浜マリノスに注目している。その戦術の個性もやがて柔軟性を生んでいくだろうし、その下での選手らの急成長にも目が引き付けられるからだ。

 最近の世界では、バルサの繋ぎ尽くすサッカー、ドイツ発の「高位置で潰して得点するサッカー」という二つの流れがあったが、そろそろ新しい流れに世界が入って来た頃ではないかと、僕は観ている。繋ぎ潰しともに最先端を行き、かついろんな攻守組織を使い分けるサッカーとでも言ったら良いのだろうか。彗星のように急台頭して最近のプレミアを引っ張り上げてきたクロップ・リバプールを観ていれば、新たな潮流が生まれて当然という状況のように思うのである。あれだけ得失点ともに多かったクロップのチームが失点を極端に減らしているのが、数十年ぶりに起こったリバプール大躍進の特徴だからだ。ちなみに、今年のACLアジア勢は中国勢、豪州勢を筆頭に皆強い。特に、組織的潰しの力が、日本を上回っているように見える。日本勢がACLの戦い方を換えねばならないと思えるほどに。それができる柔軟性がある日本チームが勝ち残っていくだろう。

 川崎と鹿島は勝ち残るだろう。後の2チームは、特にACLの闘いに必要な柔軟性が欠けるという意味で、最近のACLについては経験不足ではないか。
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喜寿ランナーの手記(252)久々の外走りは、キロ6分50秒    文科系

2019年03月14日 07時33分00秒 | スポーツ
 喜寿ランナーの手記(252)久々の外走りは、キロ6分50秒 文科系

 2月22日以来、久々の外走りを昨日おそるおそるやってみた。風邪をこじらせて気管支炎症状にもなってしまい、走るのが怖かったのである。その後約20日、ジムで怖々走ってみたのも最近2回だけで、3回目が昨日の外走り約8キロ。ランニングウオッチにはこんなデータが残っていた。

 キロ平均6分50秒、ストライド87センチはともかく、分当たり心拍数は実に162。この最後の数字は、多すぎてびっくり仰天だ。いつもよりも15は多い。最近の好調時と比べたら20は多いだろう。ちなみに、風邪を引く前の22日、最後の外走りは、同じ数字がこういうものだった。6分45秒、95センチ、141。
 老人がしばらく走らないと筋肉はさほどではないがまず心肺機能が衰えると、改めて痛感したのである。

 それにしても、78歳で162って、スポーツマン心臓と言えるのかも知れない。こんな大きすぎる数字ほどには、走っている時も、翌日である今日も疲れは感じられなかったのだし・・・。

 さー、これからまたゆっくりじっくりと復活していくぞ! こんな1か月の後のキロ6分50秒、心拍162などという数字が、ぎゃくに僕にちょっと勇気を与えてくれた。
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明治以降75年の日朝史(2)維新後すぐに侵略  文科系

2019年03月14日 06時29分34秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
(その2)維新後すぐに侵略 江華島事件

 朝鮮征服は1910年だが、事実としてこれに結びついていった出来事が既に1875年に起こっている。明治維新の10年足らずで起こした江華島事件とその結果結ばれた日朝修好条規である。「国内統一を果たした直後に朝鮮に攻めていった秀吉と同じだ!」、これがこの事件を最初に知ったときの僕の印象である。そして、これ以降完全に征服した1910年まで、同じ動きをどんどんエスカレートしつつ絶えず起こしてきたのだった。つまり、日本は朝鮮を40年近くかけて征服したのである。その間の抵抗がどれだけ凄まじく、それへの弾圧がどんなに苛酷なものであったか! 朝鮮の人々には当然、常識に属することである。

 江華島事件とはこういうものだ。軍艦揚雲号がソウルへの川を不法にさかのぼった。川岸などの3つの砲台から順に砲撃されて艦砲で撃ち返し、2つ目の砲台では陸戦隊を送り込んだ上に砲台の城を焼き払って交戦となり、3日目の同じく第一砲台の交戦では35名を殺戮している。これは3日間にわたって国際法違反を重ね続けた戦争と言って良いものだ。江戸湾内へ強行侵入したペリー来航に習ったと説明されてきたが、この結果結ばれた以下のような日朝修好条規が将来に禍根を残していく。
「太平の眠りを覚ますジョウキセン・・・」、ペリー来航が、日本にどれだけ凄まじい衝撃を与えたかを考えてみれば、この事件が朝鮮にとってあまりに大きすぎるものだったことが分かるはずだ。日本史におけるペリー来航は、今はもう「明治維新の起点」と見られているが、これがもし軍艦揚雲号と同じことをやっていたらと、そう考えてみればよいのではないか。

 この結果結ばれた日朝修好条規は、大変な不平等条約になっていた。 
『釜山他二港の開港、日本人の「往来通商」を認め、「日本の航海者」に海岸随時自由測量を、さらに日本の領事裁判権を認める。付属条約と通商章程によって日本通貨の流通、日本の輸出入商品への無関税も決められた』(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の①、井上勝生著「幕末・維新」から、221ページ)

 なお、韓国ではこの条約のここが強調されている。「清国からの独立」という側面である。つまり、清の保護下から暴力でもって日本側へ一歩引き寄せた条約であると。つまり、後の日清戦争に繋がっていく側面が既にこの時に存在していたと言える。今顧みれば、朝鮮に対する新たな帝国主義・植民地化の第一歩だったということだろう。
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明治以降75年の日朝史(1)朝鮮併合   文科系

2019年03月13日 14時32分57秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 お隣の国に文政権ができてから、日朝関係が大変ぎすぎすとし始めた。改めて正論を掲げる文政権に対して、安倍政権の頑なさが目について仕方ない。明治以来150年、朝鮮半島に対して何を行ってきたかの認識不足だと言いたい。そのことについて、今回また過去の連載を転載してみたい。


 このブログの性格上、右の方々が過去常にここを訪れていろんな反論を書いてくださった。そのうちブログ発足以来最も勉強してみえると思われる右の方との「日本15年戦争、1931~45年」についての長い論争が11年3~4月にここであったけど、その最後の応答、「まとめ」を以下に転載する。そこでは、「日本による朝鮮征服目指した40年」ほどをどう見るかが、日本のその後の戦争の性格規定にとっても決定的なことだと、まとめさせていただいた。


【 ざくろさんのアジア・太平洋戦争観  文科系 2011年04月02日

前置き

 1国の戦争には、確かに意図と結果が存在しよう。そして、意図の通りに結果が出るものでもないだろうし、結果からだけ戦争の善悪を云々してみても無意味だ。
「泥棒に入った家にもう1人泥棒が居て、両者が殴り合いになった結果、家としては何も盗まれなかった。よって後からの泥棒が良い事をした」
と、こんな事を語って何か意味があるのか。
 かくのごとく意図と結果は別物であるのだから、歴史を論ずるやりかたではないのである。歴史は事実、真実の流れを叙述するというのが基本でなければならず、意図と結果はむしろそこから判明してくるということだろう。
(中略)

1 朝鮮併合

 僕はざくろさんにこう語った。
『明治維新直後の征韓論出兵騒動や江華島事件などなどの1870年代からおよそ40年かかって日本が朝鮮半島を併合したのも、「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」であるのか? この40年間に独立国であった朝鮮抑圧への反発を武力で抑えるべく、どれだけの方々を殺したことだろう。それもみんな「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」と貴方は言い張るのか。そもそも「朝鮮の人々のためにこそ40年かかって併合したのだ」という理屈を、朝鮮の人々が認めているとでも言われるのか? 』
 これに対して、彼はこう反論した。
『日本が明治維新直後から、ずっと朝鮮半島を狙っていた、というふうな見方は明らかに偏見でしょう(自覚あります?)。明治初期の征韓論は――理由はそれだけではありませんが、立場・考え方の違いから原因の一つとして――内乱(西南戦争)にまで発展して、一旦は消え去っています。』
 歴史的事実を上げておきたい。僕があげておいたのに彼が無視した1875年の江華島事件と、ここから生まれた不平等条約、日朝修好条規。1882年の壬午事件。その結末の一つに日本軍の常時駐留があるが、これは、帝国初の平時外国駐留軍ということになる。1884年の甲申事変では、反日感情が急増している。1894年の東学教徒反乱事件に際した日本の大兵力出兵。これは、日清戦争のきっかけになった事件でもある。朝鮮がきっかけで日清戦争も起こったというこの事実は、朝鮮のこの40年と後の日中戦争が結びついて何か象徴的な出来事のように僕は思う。
 こういう事実が続いていれば、『ずっと朝鮮半島を狙っていた』かどうかは別にして、上のように、僕がこう述べるのはごく自然な事のはずだ。
『明治維新直後の征韓論出兵騒動や江華島事件などなどの1870年代からおよそ40年かかって日本が朝鮮半島を併合したのも、「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」であるのか? 』
(以下略) 】


(続く)
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国連報告者のベネズエラ報告が無視されている 文科系

2019年03月12日 11時51分23秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 米軍のベネズエラ介入工作、世界世論作りは、親米の南米諸国がこぞって反対したことで不可能になった。コロンビア、ブラジル、アルゼンチンなどでさえ反対したのである。親米諸国も今や、アメリカの利己主義的暴力無理押しをよく知っていて、嫌悪してきたということだろう。だが、アメリカのベネズエラ介入は、今に始まったことではなく21世紀になってずっと続いてきた執拗なものだ。以下のように、国連をさえ押さえつけて。
 以下の文章は例によって「マスコミに載らない海外記事」のサイトから取った。著者は、こんな人物だ。『元アメリカ経済政策担当財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリプス・ハワード・ニューズ・サービスとクリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。』
 日本のマスコミも、アメリカニュースだけを流していると、イラク戦争開戦の片棒担ぎと同じ悪名を冠されることになる。嘘の理由に熱狂して開戦したに等しいあのイラク戦争を思い出すべきだ。


【 ベネズエラに関する国連報告を見て見ぬふりをする売女マスコミ 2019年3月8日 Paul Craig Roberts(アメリカ、元財務次官補)

 ベネズエラには「人道的危機」偽ニュースを画策するのに、イエメンやガザの全く本物の人道的危機を売女マスコミが無視しているのは何か怪しいと思われないだろうか?
 現状を評価するため、国連からベネズエラに派遣された専門家アルフレッド・モーリス・デ・ザイヤス報告に、どの欧米マスコミも,欧米政府も全く関心を示さないのは、何かが本当に酷く腐敗していると思われないだろうか?
 ベネズエラの金、210億ドルを盗み、国を不安定化し、ベネズエラ政府を屈伏させる取り組みで制裁を課しておきながら、「国民の飢餓」をもたらしたとしてベネズエラ社会主義(本質的には石油会社国有化)を非難し、「人道的援助」で、たった2100ドルしか提供しないワシントンは、いささか度が過ぎると思われないだろうか。
 アメリカには、まっとうな印刷マスコミもTVマスコミも完全に欠如しているので、当ウェブサイトなどのインターネット・メディアが、欠けている誠実なジャーナリズム機能を負担させられることになる。
 報じられているベネズエラの飢餓や人道的危機に関して、ザイヤスはこう言っている。

 国連食糧農業機構(FAO)の2017年12月と2018年3月の報告は37カ国の食物危機をリストしている。「ベネズエラ・ボリバル共和国はリストにない。」
 「2017年、ベネズエラ・ボリバル共和国は「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」に医療支援を求めたが、ベネズエラは「そうしたものが適格ではない、まだ高収入の国だ」というかどで嘆願は拒否された。」
 ベネズエラの「危機」は「数ある中でも、ガザ、イエメン、リビア、シリア・アラブ共和国、イラク、ハイチ、マリ、中央アフリカ共和国、南スーダン、ソマリア、あるいはミャンマーの人道的危機とは比べものにならない」。
 狙った政府の信用を失墜させるため、暴力的政権転覆を受け入れ易くすべく、人権分野での失敗が最大化される。ライバルに対して、人権が「武器として利用されて」いる。

 報告の第37段落で、デ・ザイヤスは言う。「現在の経済制裁と封鎖は、中世、降伏を強いることを狙った町の包囲攻撃に相当する。21世紀の制裁は、町だけでなく、主権を持った国家を屈服させることを狙っている。おそらく、この二つの違いは、21世紀の制裁は、犯罪行為を、人権という「建前」で正当化する印象を与えるために「偽ニュース」や攻撃宣伝やエセ人権言説を利用した世論操作が伴っていることだ。国連憲章と主権国家平等の原則に支配される対等な司法世界秩序のみならず、最有力国家を軍事力と経済力で他の国々と結び付ける地政学体制の階層を反映する上下関係の世界秩序もある。地政学的犯罪を生み出すのは、これまで全くお咎めなしですんでいる、後者の地政学体制だ。」

 ベネズエラに関する全ての言説の偏りとニセ情報の酷さに、アルフレッド・モーリス・デ・ザイヤスは懸念を表明している。報告の42番目の段落でこう指摘している。「不安をかきたてるマスコミ・キャンペーンが、見ている人々を、ベネズエラ・ボリバル共和国は「人道的危機」にあるという先入観に無理やり追い込もうとしている。自立した専門家は、「人道的危機」が軍事介入の口実として、不正に利用される究極の手口であることに留意し、誇張を警戒しなければならない。」
 「特定の国[つまりアメリカ]が、ベネズエラ紛争の平和的解決を望んでおらず、ベネズエラ国民が苦しむのを引き延ばし、状況が人道的危機の閾値に達し、政権交代を押しつける軍事介入をしようと期待しているので」政治的解決が阻止されているのだ。

 ワシントンによるベネズエラ攻撃は確立している国際法の違反だ。「国際関係における、主権国家への不干渉と内政非干渉の原則は、慣習国際法の一部であり、国連総会決議、特に2625(XXV)と3314(29)、1993年のウィーン宣言と行動計画で再確認されている。1974年、国連総会で採択された、諸国家の経済的権利・義務憲章の第32条は、いかなる国も、他国の主権的権利の行使を自国に従属させ又は他国から何らかの利益を得る目的で他国を強制するために、経済的、政治的その他いかなる形の措置も使用してはならず、またその使用を奨励してはならないと規定している。」米州機構憲章の第4章第19条は「いずれの国又は国の集団も、理由のいかんを問わず、直接又は間接に、他の国の国内又は対外の事項に干渉する権利を有しない。この原則は、武力のみでなく、国の人格又はその政治的、経済的及び文化的要素に対する他のいかなる形態による干渉又は威嚇の試みも禁止するものであると明記している。」

 決めた鋳型にはめようと圧力をかける狙いで、任務が恫喝される雰囲気があったとザイヤスは報じている。自分のペースで進めるな、こういう報告を書け、と言うアメリカから資金を得ているNGOの手紙を彼は受け取った。ベネズエラ到着前に、彼の人格に疑問を投じ、偏見があると非難するFacebookとツイッターでの宣伝攻勢が開始された。https://off-guardian.org/2019/02/09/what-the-press-hides-from-you-about-venezuela/

 ワシントンの制裁と通貨操作は地政学上の犯罪なのだから、どのような賠償が制裁被害者に支払われるべきかザイヤスは問うている。栄養失調と薬品や医療機器の欠如とで死を招きかねないワシントンの強圧措置を国際刑事裁判所が調査するよう彼は勧めている。
 「21年間で初めて、ベネズエラを訪問し報告する国連当局者だったにもかかわらず、ベネズエラ経済危機の原因に関する自分の調査は、これまでのところ、国連やマスコに無視され、人権理事会で、ほとんど議論されなかった、とデ・ザイヤスは述べている。
 「彼の報告が、ベネズエラでは政権交代が必要だという広く流布している言説に反しているので無視されたのだと彼は考えている。」
https://off-guardian.org/2019/02/09/what-the-press-hides-from-you-about-venezuela/

 ベネズエラには、金、ボーキサイトやコルタンを含め、世界最大の石油埋蔵量と豊富な他の天然資源がある。だがマドゥロ政権の下では、そうしたものにアメリカや多国籍企業が手をつけられないのだ。】
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太平洋戦争、右翼のデマに(9)慰安婦問題の史実   文科系

2019年03月12日 03時05分26秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 「右翼のデマ」の最後は、いわゆる慰安婦問題です。慰安婦に関わった当時の政府文書二通を、京都大学文学研究科教授の永井和氏が紹介していルその現物の転載です。後者の「陸軍省副官発」文書には、こんな記述さえ見られます。
『募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ』 


【 慰安婦問題、当時の関連2通達紹介  文科系2014年09月22日

 以下二つは「日本軍の慰安所政策について」(2003年発表)という論文の中に、著者の永井 和(京都大学文学研究科教授)が紹介されていたものです。一つは、1937年12月21日付で在上海日本総領事館警察署から発された「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」。今ひとつは、この文書を受けて1938年3月4日に出された陸軍省副官発で、北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」です。後者には、前に永井氏の説明をそのまま付けておきました。日付や文書名、誰が誰に出したかも、この説明の中に書いてあるからです。

『 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件
 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        記
領事館
 (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
 (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
 (ハ)渡航上ニ関スル便宜供与
 (ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答
 (ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス
憲兵隊
 (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
 (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締
武官室
 (イ)就業場所及家屋等ノ準備
 (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
 
右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス
(中略)
昭和十二年十二月二十一日
         在上海日本総領事館警察署 』



『 本報告では、1996年末に新たに発掘された警察資料を用いて、この「従軍慰安婦論争」で、その解釈が争点のひとつとなった陸軍の一文書、すなわち陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日付-以後副官通牒と略す)の意味を再検討する。
 まず問題の文書全文を以下に引用する(引用にあたっては、原史料に忠実であることを心がけたが、漢字は通行の字体を用いた)。

支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス』】


 さて、これを皆さんはどう読まれるでしょうか。なお、この文書関係当時の北支関連国内分募集人員については、ある女衒業者の取り調べ資料から16~30歳で3000名とありました。内地ではこうだったという公的資料の一部です。最初に日本各地の警察から、この個々の募集行動(事件)への疑惑が持ち上がって来て、それがこの文書の発端になったという所が、大きな意味を持つように僕は読みました。】


(この連載はこれで終わります。長くお読み頂いた方、有り難うございました。)
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太平洋戦争、右翼のデマに(8) 南京大虐殺の史実   文科系

2019年03月11日 08時56分41秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 右翼種本の太平洋戦争論は、太平洋戦争とそれ以前の日中戦争を別のものと観て、ことを論じてきた。よって、南京虐殺をここで語れば、ネトウヨ諸君はこう言うだろう。「南京虐殺? 太平洋戦争とは無関係だろう」

 さて、そもそも、満州事変に始まる日中戦争と太平洋戦争とは、分けられるものではない。日本は、満州事変によって国連に裁かれ、これを脱退した。以降は「もう、国際法には縛られない」とばかりに、どんどん中国を南下侵略していったのだった。この侵略・侵攻の深まりに応じて、アメリカが今の北朝鮮に対してと同様に、日本に対する制裁をどんどん強めていった。ここに、米北の「無法行為と制裁強化とのチキンレース」と同様の、日米チキンレースが始まったのである。南京大虐殺もこうして、後の日米英蘭戦争に繋がっていくのである。だからこそ、東京裁判は満州事変からこの裁きを始めている。南京大虐殺の司令官・松井岩根が死刑になったのも、この戦争責任からである。


【 南京虐殺の史実と資料   文科系 2017年03月13日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」
 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

 ①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

 ②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したと考えるの普通だろう。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏にということが大事だった。

 ③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全土から集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

 ④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。

 さて、以下の当事者の日記がまた、以上すべてを裏付けるものである。


『 南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。

『大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。
「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」


 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。実に卑怯、姑息な日本軍、奴らである。命令を出した奴らが卑怯、非道なのであるが。もっとも。当時はそれほどに人命が軽かったと言うことだろう。植民地流儀とか人種差別も、現在より遙かに酷かったろうし。』】
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太平洋戦争、右翼のデマに(7)東條英機への熱狂振り   文科系

2019年03月10日 03時59分24秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
【 ”東条英機首相への熱狂ぶりと、その源泉” 2010年11月24日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

はじめに

 本日ネット虫さんが興味深い記事を載せて下さった。41年12月8日、この日を当時の子どもがどう覚えていたか。これを一気に読んで、すぐに表記の記事を書こうと、僕は思い立った。当時の子どもたちの心にさえ深く刻み込まれた「戦争への感動」、その象徴的存在であった東条首相への熱狂ぶりについて書いてみようと。僕の同人誌にも軍国少年、軍国少女がお一人ずついらっしゃる。お二人とも、その後の人生はなかなか優秀だったろうとお見受け出来る方々である。今は多分、その正反対の人生観をお持ちのはずだが。
 東条英機は、A級戦犯の象徴的存在。41年12月8日開戦時の首相にして内相であって、陸軍大臣までを兼務した、現役の陸軍大将である。また、陸軍参謀総長も兼任していたから、大元帥・天皇の大本営の幕僚長でもあった。彼の前歴には、関東憲兵隊司令官というものもあった。満州国の治安の要に位置する機関であって、35年9月から37年2月のことである。娑婆、「地方」(軍隊は軍隊の外の世界をこう呼んだのでした)、世相にも、よく通じているのである。
 彼は、天皇の信任は篤く、水戸黄門まがいの「民衆査察」を行い、ラジオ、新聞を上手く使って民心を躍らせ、掌握した。ヒットラーにも劣らないその掌握術を、ご紹介したい。種本は例によって、岩波近現代史シリーズ10巻本の第6巻「アジア・太平洋戦争」。この巻の著者は吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授である。【 】がほとんどであるが、ここからの抜粋を示している。 

1 人々の東条支持熱

 その人気は、一時の小泉旋風などという次元のものではない。戦争の英雄たちの、そのまた大元締、空前絶後の国民的大英雄なのである。そういう大英雄が、マスコミによって実に身近な存在に描かれるところがまた、お見事というほかはないのである。
 【 東条首相は、各地で国民に熱烈に歓迎された。42年7月27日、大阪の中央公会堂で開催された「大東亜戦争完遂国民総力結集大講演会」の折には、講演を終えて退場する東条首相を熱狂した群衆がとりかこんだ。28日付の『朝日新開』は、その場の状況を、「熱狂した数千の聴衆は帽子、扇子を打ち振り打ち振り、〃万歳々々″と歓声をあげ、(中略)あつといふ間に東条さんを取り囲む。「しつかりやります、やりますとも」「米英撃滅だ、東条閣下お願ひします」「東条首相万歳」と群がる市民は熱狂して全く感激のるつぼだ」と報じている。これが誇張でないことは、同日の首相秘書官の記録に、「公会堂発」、「総理自動車会衆の圧倒的歓迎に取り囲まれ約十分、会衆の中を徐行す」とあることからもわかる(伊藤隆ほか編『東条内閣総理大臣機密秘録』東京大学出版社1990年)。
 さらに、東条に関するすぐれた評伝をまとめた作家の保阪正康も、この頃の東条について、「東京・四谷のある地区では、東条が毎朝、馬に乗って散歩するのが知れわたり、その姿を一目見ようと路地の間で待つ人がいた。東条の乗馬姿を見ると、その日は僥倖に恵まれるという〈神話〉が生まれた」と書いている。東条は、一般の国民にとって、「救国の英雄」だった(保阪『東条英機と天皇の時代(下)』) 】

 当時、東条報道を新聞がどう行ったかもなかなか興味深い。【例えば、42年8月18日付の『読売報知』は】として、こんなことが抜き出されていた。
【 「忙中忙を求める東条さん」、「割引市電で街の視察 鋭い観察力と推理力の種は正確なメモ 拾った民情必ず”決済”」という見出しの記事を掲載し、「キビキビした政務の処理、そして電撃的な民情視察・・・国民は曾てこれほど”首相”を身近に感じたことはなかった。・・・とにかく、そこに新しい一つの”指導者の形”が打ち出されているのは確かだ」と論じている 】

2 民心操縦術

【 総力戦の時代は、多数の国民の積極的な戦争協力を必要不可欠なものとする。そうした時代にあっては、力強い言葉と行動で、直接国民に訴えかけるタイプの指導者が求められる。東条は、そのことをよく理解していた。43年9月23日、東条は側近に次のように語っている(伊藤隆ほか編『東条内閣総理大臣機密秘録』東京大学出版社1990年)
  国民の大多数は灰色である。一部少数の者が批判的言動を弄するものである。そこで国民を率いてゆく者としては、此の大多数の国民をしっかり摑んでぐんぐん引きずつてゆくことが大切である。大多数の灰色は指導者が白と云へば又右と云へばその通りに付いてくる。自然に白になる様に放つておけば百年河清を待つものである。
 東条の芝居がかったパフォーマンス、特にたびかさなる民情視察は、識者の反発と顰蹙をかった。特に、東条が住宅街のゴミ箱をチェックしてまだ食べられるものや再生可能なものが捨ててあると非難したことは多くの国民の失笑をかった。首相として他にやるべきことはないのかという批判である 】

3 政治的力の源泉、宮中工作など

 マスコミ総動員で作ったこういった東条の「表の顔」の他に、政治家としての裏の顔があるのもまた当然。
 【 政治資金の面でも、東条首相は有利な立場にあった。陸相として陸軍省の機密費を自由に使うことができたからである。この点については、いくつかの証言がある。例えば、元陸軍省軍務局軍事課予算班長の加登川幸太郎は、「何に使ったかわからんけど、東条さんが総理大臣になった時、(中略)三百万円という機密費三口を内閣書記官長に渡せ、と来るんだね。(中略)あの頃二百万円あったら飛行機の工場が一つ建ったんだから」と回想している(若松会編『陸軍経理部よもやま話』)。 (文科系による中略)
 なお、臨時軍事費中の機密費の支出済額をみてみると、42年段階で、陸軍省=4655万円、海軍省=2560万円、44年段階で、陸軍省=1億2549万円、海軍省=1865万円であり、陸軍省が機密費を潤沢に使用していたことがわかる。
 東条首相の政治資金の潤沢さについては、44年10月15日に、反東条運動の中心となっていた政党政治家の鳩山一郎が、近衛文麿と吉田茂(戦後の首相)との会談の中で語っている内容が参考になる。同席していた細川護貞は、その内容を次のように記録している(『細川日記』)。
  一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、附け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話〔鳩山より〕出で、例えば秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産あり、中に各顧問官それぞれのイニシアル入りの万年筆等も交りありたりと。又牧野〔伸顕元内大臣〕の所には、常に今も尚贈り物ある由。
 この後、鳩山は、「東条の持てる金は16億円なり」と語り、近衛は東条の資金源は、中国でのアヘンの密売からあがる収益だと指摘している。アヘン密売との関係については確証がないが、46年7月の国際検察局による尋問の中で、近衛の側近の富田健治が、東条はアヘン売買の収益金10億円を鈴木貞一陸軍中将(興亜院政務部長)から受けとったという噂があると指摘している。興亜院は、アヘンの生産と流通に深くかかわった官庁である。皇族への「附け届け」については、史料的に確認することができる。42年12月月30日付の「東久邇宮稔彦日記」に、「この度、陸軍大臣より各皇族に自動車をさし上げる事となれり」とあり、この日、東久邇宮のところには、陸軍省関係者から、アメリカ製の自動車が届けられているからである。 】

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太平洋戦争、右翼のデマに(6) 天皇の戦争責任   文科系  

2019年03月09日 02時11分22秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
【 太平洋戦争、右翼のデマに(6)  文科系 2010年11月22日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

太平洋戦争と天皇

 表記のことについて、右翼の方々はこのブログでもこのように語られてきた。天皇の統治権は形式的なものであって、戦争政策においても実際に何かを決めたというわけではない、と。そのことについてこの本(岩波新書日本近現代史シリーズ10巻のうち、その6「アジア・太平洋戦争」、著者は、吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授)はどう書いているか。それをまとめてみたい

1 軍事法制上の天皇の位置 「統帥権の独立」

『統帥権とは軍隊に対する指揮・命令の権限のことをいうが、戦前の日本社会では、大日本帝国憲法(明治憲法)第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」という規定を根拠に、この統帥権は天皇が直接掌握する独自の大権であり、内閣や議会の関与を許さないものと理解されていた。
 明治憲法上は、立法権、行政権、外交権などの天皇大権は、国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使されることになっており、統帥権だけが国務大臣の輔弼責任外にあるという明文上の規定は存在しない。それにもかかわらず、天皇親率の軍隊という思想の確立にともない、制度面でも統帥権の独立が実現されてゆく。1878(明治11)年の参謀本部の陸軍省からの独立、1893(明治26)年の軍令部の海軍省からの独立、1900(明治33)年の陸海軍省官制の改正などがそれである』
『一方、参謀本部と軍令部(統帥部と総称)は、国防計画・作戦計画や実際の兵力使用に関する事項などを掌握し、そのトップである参謀総長と軍令部総長は、陸海軍の最高司令官である「大元帥」としての天皇をそれぞれ補佐する幕僚長である。この場合の補佐は、国務大臣の輔弼と区別して輔翼とよばれる。国務大臣は、憲法に規定のある輔弼責任者だが、参謀総長・軍令部総長は、憲法に明文の規定がない存在だからである。
 軍事行政と統帥の二つにまたがる「統帥・軍政混成事項」については陸海軍大臣が管掌したが、国務大臣としての陸海軍大臣も統帥事項には関与できないのが原則であり、参謀本部・軍令部は、陸軍省・海軍省から完全に分立していた。以上が統帥権の独立の実態である』

2 「能動的君主」としての天皇

9月6日決定の「帝国国策遂行要領」
『統帥に関しては、「能動的君主」としての性格は、いっそう明確である。天皇は、参謀総長・軍令部総長が上奏する統帥命令を裁可し、天皇自身の判断で作戦計画の変更を求めることも少なくなかった。また、両総長の行う作戦上奏、戦況上奏などを通じて、重要な軍事情報を入手し、全体の戦局を常に把握していた(山田朗『大元帥 昭和天皇』)。通常、統帥権の独立を盾にして、統帥部は首相や国務大臣に対して、重要な軍事情報を開示しない。陸海軍もまたお互いに対して情報を秘匿する傾向があった。こうしたなかにあって、天皇の下には最高度の軍事情報が集中されていたのである』
 そういう天皇であるから、重大な局面ではきちんと決断、命令をしているのである。本書に上げられたその実例は、9月6日御前会議に向けて、その前日に関係者とその原案を話し合った会話の内容である。まず、6日の御前会議ではどんなことが決まったのか。
『その天皇は、いつ開戦を決意したのか。すでに述べたように、日本が実質的な開戦決定をしたのは、11月5日の御前会議である。しかし、入江昭『太平洋戦争の起源』のように、9月6日説も存在する。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英欄)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第1項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努」めること(第2項)、そして(中略)、が決められていた』
 さて、この会議の前日に、こういうやりとりがあったと語られていく


3 前日9月5日、両総長とのやりとりなど

『よく知られているように、昭和天皇は、御前会議の前日、杉山元参謀総長と水野修身軍令部総長を招致して、対米英戦の勝算について厳しく問い質している。
 また、9月6日の御前会議では、明治天皇の御製(和歌)、「四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を朗読して、過早な開戦決意を戒めている。
 ただし、天皇は断固として開戦に反対していたわけではない。海軍の資料によれば、9月5日の両総長による内奏の際、「若し徒に時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり」という永野軍令部総長の説明のすぐ後に、次のようなやりとりがあった(伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(下)』)。
 御上[天皇] よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更致しますか。如何取計ませうか。
 御上 変更に及ばず。

 永野自身の敗戦直後の回想にも、細部は多少異なるものの、「[永野の説明により]御気色和らぎたり。ここに於いて、永野は「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」を奏聞せしが、御上は「それでは原案の順序でよし」とおおせられたり」とある(新名丈夫編『海軍戦争検討会議議事録』)。ここでいう「原案」とは、翌日の御前会議でそのまま決定された「帝国国策遂行要領」の原案のことだが、その第一項は戦争準備の完整を、第二項は外交交渉による問題の解決を規定していた。永野の回想に従えば、その順番を入れ替えて、外交交渉優先の姿勢を明確にするという提案を天皇自身が退けていることになる』
 こうして前記9月6日の「帝国国策遂行要領」は、決定された。つまり、対米交渉よりも戦争準備完整が優先されるようになったのである。続いて10月18日には、それまで対米交渉決裂を避けようと努力してきた近衛内閣が退陣して東条内閣が成立し、11月5日御前会議での開戦決定ということになっていく。この5日御前会議の決定事項とその意味などは、前回までに論じてきた通りである。】
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ベネズエラ潰しは米長年の懸案だった  文科系

2019年03月08日 09時21分05秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 ベネズエラに対する米国の転覆策動は昔からのもの。今回米国が述べているような「マドゥロの大統領選挙不正」などが原因ではないことは、明らかである。13年に亡くなったチャベスの生前からずっと続いていたことなのだ。その都度潰しの理由が替わってきたということである。旧稿を再掲してみる。 

【 ベネズエラの「政権転覆策動」 文科系2017年05月15日 | 国際政治・時事問題(国連・紛争など)

 南米のチリ・アジュンデ政権がアメリカCIAの画策によって倒されたというのは、世界史上周知の話。ここでも、記録映画「チリの闘い」を昨年10月21日に紹介した。ところで、現在チリの二の舞になりそうな情勢が続いているのが、同じ南米のベネズエラである。反米国連総会演説などで有名だったチャベス大統領が13年に亡くなってから、執拗な政権転覆が図られてきたようだ。
 周辺国と欧米にしか興味がないような日本では南米の事件はなかなか話題にならないが、アメリカ大陸外交で最大の問題だと思う。ちなみに、この国は石油埋蔵量世界一。2位のサウジアラビアと並んで、ダントツなのである。同じく4、5位に並ぶイラン、イラクの歴史を見ても、ベネズエラで何かが起こらない訳はないと、凄く不安になっている。


 チャベスが死んだ翌14年には、こんなことが起こった。
 ベネズエラ政府が野党関係者に対して人権侵害を犯しているとして、ベネズエラ政府関係者23名につきアメリカへの入国が拒否されたほか、アメリカに保有する資産や口座が凍結された。これに対し、マドゥロ大統領が、「在ベネズエラアメリカ大使館 の不正な活動内容の証拠を握っており、アメリカ政府による内政干渉を受け入れない 」と強く批判した上で、 アメリカ政府との外交関係を見直し始めた。15年3月2日、ベネズエラ側からこう持ち出された。
「アメリカのベネズエラ大使館で勤務する職員と同数にしたい。両国は対等な立場でなければならない」として、同国駐在アメリカ大使に対し15日以内にアメリカ大使館職員を100人から17人に削減するよう求めた。これに対し、アメリカ国務省は、声明を出し、反発した。また、ベネズエラのマドゥロ大統領は2月28日、同国を訪れる全てのアメリカ国民にビザ取得を義務付けると発表し、アメリカ外交団削減も要求した。
 ベネズエラ側の理由を、大統領はこう説明している。
「在ベネズエラアメリカ大使館 の不正な活動内容の証拠を握っており、アメリカ政府による内政干渉を受け入れない 」
 なお、この両国対立の焦点には激しくなるばかりの反政府デモが関わってきたが、これもチリと同じ。

 16年にはさらに、こんな深刻な事態になっている

『(World | 2016年 05月 16日)
 ベネズエラ大統領が非常事態宣言、「米国などが政権転覆計画」
[カラカス 13日 ロイター] - ベネズエラのマドゥロ大統領は13日、国内の一部勢力と米国が仕組んだ政権転覆計画があるとの理由から、60日間の非常事態を宣言した。
マドゥロ氏は非常事態宣言の詳しい内容を示さなかったが、昨年コロンビアとの国境近くの州で実施したケースでは、これらの地域で人権保障関連部分を除く憲法の適用を停止した。

これに先立ち、米国の情報機関当局者は記者団に対して、ベネズエラが経済的・政治的に崩壊する可能性への懸念を高めていると語った。

ベネズエラでは食料および医薬品不足や停電の頻発、物価高騰など経済危機が深刻化し、野党がマドゥロ氏の罷免を目指している。しかしマドゥロ氏は任期を全うする構えで、米国が水面下でのクーデターを扇動していると批判している。
マドゥロ氏は13日の国営テレビで、ブラジル上院でルセフ大統領の弾劾法廷設置が承認された動きを引き合いにして「米政府はベネズエラの右派の要請に基づいて具体的な手段を発動しつつある」と力説した。』


 物不足と超インフレ、野党が組織する市街戦のような政権転覆デモ、アメリカによる政権批判、ベネズエラ政府からの「政権転覆計画暴露」などなどは、チリ転覆前と全く同じこと。ベネズエラの近い将来に、チリが辿った運命を重ねざるを得ないのである。次いで、今年起こったのが、ベネズエラ副大統領の「麻薬絡み事件」と、それによるアメリカからの「制裁」だった。この問題は現在、非同盟諸国会議などに持ち出されて国際問題になっている。】
コメント (16)
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