【主張②・11.16】:三笠宮妃殿下薨去 激動の時代生き抜かれた
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【主張②・11.16】:三笠宮妃殿下薨去 激動の時代生き抜かれた
安らかに、息を引き取られたという。
三笠宮崇仁(たかひと)親王妃百合子殿下が薨去(こうきょ)された。今月上旬に体調が悪化し、都内の病院で療養されていたが、ご回復を願う国民の祈りは届かなかった。
謹んで哀悼の誠を捧(ささ)げたい。
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明治以降の皇室で最高齢の101歳であられた。大正12年に高木正得(まさなり)子爵の次女として誕生し、昭和16年10月、昭和天皇の末の弟宮である三笠宮崇仁親王と結婚された。日米開戦の2カ月前だった。
崇仁親王は、戦前戦中に数々の苦難を経験された。当時の皇族のならいとして貴族院議員と軍人になり、支那派遣軍総司令部や大本営、航空総軍の参謀として勤務された。
その間、妃殿下は留守を守られた。20年5月には米軍機の空襲で、青山東御殿と呼ばれた宮邸が全焼し、防空壕(ごう)での不自由な生活を送られた。
戦後は、歴史学者の道を歩まれた崇仁親王に寄り添いつつ、恩賜(おんし)財団母子愛育会の総裁を長年にわたり務め、日本赤十字社の名誉副総裁にも就かれた。ご夫妻で全国各地のさまざまな行事に臨席し、国際親善にも尽くされた。
皇室を取り巻く環境が激変する中にあっても、妃殿下は女性皇族としての役割を果たし、後進の妃殿下方に範を示されたのである。
お子様は5人で、お二方は民間に降嫁した。平成14年に三男の高円宮憲仁(のりひと)親王、24年に長男の寬仁(ともひと)親王、26年に次男の桂宮宜仁(よしひと)親王が薨去された。
崇仁親王は結婚70周年を迎えた平成23年、「陰になり日なたになり私を助けてくれたのは、何といっても妻百合子であった」とのご感想を宮内庁を通じて発表されている。
妃殿下の、献身的な支えがうかがえる。
昭和天皇からの信頼も厚く、しばしばご夫妻で皇居に招かれ、会食された様子が宮内庁編纂(へんさん)の『昭和天皇実録』に記されている。
28年に崇仁親王が100歳で薨去されてからの晩年は、お住まいの赤坂御用地を車いすで散策するなど静かに過ごされていた。国民の幸せを日々願われていたという。
大正、昭和、平成、令和にわたるご生涯をしのび、心からの感謝を申し上げたい。
元稿:産経新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【主張】 2024年11月16日 05:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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