たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ミュージカル『モーツァルト』-2021年4月19日帝国劇場(2)

2021年05月13日 22時44分56秒 | ミュージカル・舞台・映画
ミュージカル『モーツァルト』-2021年4月19日帝国劇場
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/b9348c701aee65f6a6ede8f4d12b6f87

ミュージカル『モーツァルト』-2021年4月14日帝国劇場(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/daa644a4b79e41b6d997c0c7c92e89f6


 昨夜も福永悠二さんがホストをつとめたミュージカルウィークをYouTubeで視聴しました。福永さん、ニューヨークにダンス留学していた19歳の時、一時帰国中の日本で帝国劇場の『モーツァルト』を観劇して音楽の力に圧倒され歌もやりたいと思ったそうな。ものすごくいい声。何役もこなすアンサンブルキャストのみなさん、どの舞台を観劇しても思いますがすごい方ばっかりです。『モーツァルト』、2014年、2018年に続いて観劇しましたが、まだまだ気づいていないところがたくさんあるのだとわかり、このあとで観劇したかったと思いました。奥が深い作品。裏話もいろいろ。小池修一郎先生は天才、細かいところまでこだわりがあり動きの指示がものすごく細かい、山口祐一郎さんのすごいところは無駄な動きがひとつもない、最小限の動きで台詞も歌もない瞬間の舞台をうめられる帝王感、市村正親さんは70才を超えて足がここまで(顔の前まで)あがるしすごい、アマデの子役ちゃんたちがすごくかわいい、歴代アマデ、シカネーダーが登場する場面は袖でノリノリになっている、台詞も歌もなくほぼ出ずっぱりだからストレスたまるよね、アマデすごい、コロレド大司教とヴォルフガングが対峙する場面でコロレドの手を払いのけるときのヴォルフガングの動きがゆんと育三郎さんでは違うなどなど。稽古場でずっとマスク、外で一緒に食事することもできないから舞台上で会わないキャスト同士は顔が認識できないままだったり、スタッフさんもマスクだから外で会ってもわからないだろうと。コロナ禍の制約による苦労を乗り越えながら圧巻の舞台を帝国劇場に届けてくださり、Wヴォルフガングを観劇することができたのは奇跡でした。

 ミュージカルウィークに登場されたアンサンブルキャストのみなさん、『モーツァルト』の中でいちばん好きな曲は「モーツァルト!モーツァルト!」をあげる方が多かったようです。2幕終盤、市村正親さん扮する仮面をつけた人物から依頼された「レクイエム」をかくことに命を注ぐ場面、それまで羽ペンで曲をかき続けてきたアマデが見つめる中、「自分の力でかくのです」という依頼人のことばどおり、依頼人が落としたお金をコートのポケットに入れるとそのコートを脱いで狂ったように机に向かうヴォルフガング。そのヴォルフガングに向けてヴァルトシュテッテン男爵夫人、コロレド大司教、そしてそれぞれのキャストが自分のいくつもの旋律をうたいながら最後はかさなって重厚なコーラスになっていく「モーツァルト!モーツァルト!」。音楽の泉が涸れて力尽きたヴォルフガングがアマデの差し出した羽ペンで胸を刺し、アマデと共に命果てるフィナーレの「影を逃れて」まで、毎公演わかっているはずなのに鳥肌と涙、涙。

 仮面をつけた依頼人をヴォルフガングの父レオポルト役の市村さんが演じるのは小池先生のオリジナル、『モーツァルト』は家族の葛藤の物語でもあるという小池先生の想い、2014年公演のプログラムに掲載されたレオポルト像を読むと、市村さんがこのレオポルト像に忠実に演じられていることがわかります。 

2018年『モーツァルト』_家族の物語
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/d6e0021f79b76b90411634a1f521b5cd

https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/93b7638720293d5e787edf4419840769


『エリザベート』のトート、『モーツァルト』のアマデ、自分の中に存在するもう一人の自分を擬人化し、他の人にはみえないもう一人の自分と常に葛藤しながら生きる物語を生み出す精神性はどこからくるものなのでしょうね。今回アマデのトリプルキャストは全員女の子。14日と19日共に、設楽乃愛(しだらのあ)ちゃんでした。素顔はかなりの美人さんなんだろうなと思いました。目の力で役を生きるアマデ、今回はじめて小さいアマデがトートのように場面を支配しているようにも感じる場面がありました。記憶があやふやですが、アマデの手の動きの先からヴァルトシュテッテン男爵夫人が登場したきたようにもみえたり、2018年公演の時には場面を支配しすぎているように感じた巨大ピアノの舞台装置と物語の親和性が今回は高くなったこともあるかもしれません。ヴォルフガングの運命を左右する人々がアマデにあやつられるようにピアノの影から舞台に登場してくる、それぞれのおかれた状況によっても解釈がちがってくる奥の深い作品ということでしょうか。

「モーツァルト!モーツァルト!

 清らかで
 モーツァルト!
 神秘的
 モーツァルト!
 心ゆする
 魔術的
 モーツァルト!
 悦楽
 音楽の泉を持つ
 彼の中に
 何処から湧き出す?
 神がつかわした 奇跡の人
 時を超え輝く 永遠の星よ

 海を越え
 人を酔わせる
 のちの世に
 夢を見続けさせる
 新しい
 いつまで
 たっても
 モーツァルト!モーツァルト!
 癒される
 迷いと苦しみに
 勇気与え
 希望見出す
 その響きが立ち向かう
 この地上の痛みと悲しみ

 神がつかわした 奇跡の人
 世界果てる日まで 奇跡は終わらない
 神の子 モーツァルト!」






4月14日の帝国劇場





4月19日の帝国劇場







 圧倒的な音楽の力をもつミュージカル。札幌公演、無事に幕があがることを祈っています。和音美桜さんのナンネールのことも書きたいですが、いい加減長くなりすぎたのでまた後日にします。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

『この地球で私が生きる場所』-「国境なき医師団」で避難民の袋小路へ(3)

2021年05月13日 15時04分20秒 | 本あれこれ
『この地球で私が生きる場所』-「国境なき医師団」で避難民の袋小路へ(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/1d108356e8a07e3d8adabaf3634e26ef

「フランスに本部をもつNGO「国境なき医師団」に手紙を書いた。三人の青年医師の手で設立されたこの団体のことは新聞で知っていた。人はだれでも医療を受ける権利がある。その権利を奪われた人々のために政治や思想、民族、宗教を超えてどこにでも出かけていく。シンプルな理念に引きつけられた。この原点に立ち返ろう。

 手紙の返事はすぐに来た。本部での面接を経て、最初の任地、スリランカへ赴いたのは数か月のちのことだった。

 医療の人道援助をする「国境なき医師団」の活動は世界各地にひろがって、99年にはノーベル平和賞を受賞した。日本からも貫戸さんにつづいて38人の医療従事者が世界各地に飛んでいる。登録者数は2002年2月末で198人にのぼる。

 貫戸さんは現在、「国境なき医師団」東京事務所で働いている。どこでどんな活動をするか、その計画を立てるのがオペレーションディレクターの仕事である。フランス本部の指示を待つだけでなく、アジアにふさわしい活動をしたいと手探りがつづく。8人のスタッフをまとめながら、アジア地域を対象に調査にあたる。ミャンマーへ、タイへ。海外と日本を往来する日々だ。

 スレブレニツァ徹底から6年を経て、ようやく、「困難に直面して苦しむ人たちとの出会い、彼らと生きた時間をかけがえのない贈り物だと受け止められるようになった」と話す。

 2001年7月までの2年間、国際協力事業団から派遣され、メキシコに住んだ。子宮頸がんの検診システムを充実させることが目的だった。貫戸さんは、そのプログラムを通じて、先住民から最も貧しい女性たちが自分で健康を守る力をつける教育活動を支援した。

 陽気な仮面の下に強固な階級意識や打算、差別がのぞく。現地の人たちとの人間関係は、一筋縄ではいかなかった。貧民街に住みながら、一つひとつ困難を乗り越えた。食べるのがやっとで、ただ与えられる診療を受けるだけだった女性たちが、自分の体を知ることで人生についても考えらえるようになった。そんな姿にふれるとき、喜びを感じることができた。

 現在は、スタッフとともに国内のホームレスの人たちへの援助にも力を注いでいる。まず生きる。そのための手助けに内外の別はない。東京・隅田川の川べりなどで他の市民団体とともに医療相談会を開いている。大阪・釜ヶ崎に診療所を開けないかと、現場へ足を運ぶ。

 近づいたり遠ざかったりしながらも、結局は苦しむ人たちのそばから離れずにきた。その営みの積み重ねこそが、本人も気がつかないうちに痛みを和らげ、活力に変えてきたのではないだろうか。

 惨劇から6年あまり、2001年11月の終わり、私は貫戸さんが八か月を過ごしたスレブレニツァを訪れた。町は雪の谷間にひっそりと沈んでいた。やがて行き止まりになる一本道の両側に、へばりつくように家が建つ。町を囲む山々には地雷が無数に埋められている。「町全体がどこにも行けない収容所でした」。貫戸さんの言葉がその地に立つと実感となって迫ってきた。

 家々のれんがや石の壁には砲弾の跡が残っている。悲劇はここで、まちがいなく起きた。

 民族の存亡をかけた戦いで住民がそっくり入れ替わり、今はセルビア人の町になっている。

 貫戸さんが懸命に働いたというスレブレニツァ市民病院は、95年の惨劇以来、使われていない。何者かが設備や医薬品を持ち去ったためだ。

 隣接する保健所が病院代わりになっている。所長のスペトザール・マリンコビッチさんが病院内を案内してくれた。病室や廊下の壁土がはがれ落ち、マットレスのなくなったベッドがいくつも放置されていた。

 貫戸さんが親しかったイスラム教徒の女性エミラも、町にはいなかった。かつての家の近くに住む人たちにたずねてみたが、近所の人たちの顔ぶれも変わっている。誰も行方を知らなかった。

 そのなかで、あるセルビア人夫婦が「別の大きな町にイスラム教徒の知り合いがいあるから」と、何件も電話をかけて聞いてくれた。二つの民族に憎しみだけがあるのではない。それがわかって、うれしかった。

 エミラはきっと生きている。だれもが傷を抱え、生き抜いていく。そう思った。」