『この地球で私が生きる場所』-「国境なき医師団」で避難民の袋小路へ
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/4bbc7225e28f94ad61836ea80b19d652
「惨劇からの立ち直り、傷を抱え人は生きる-川名紀美
ボスニア東部の谷あいにある町スレブレニツァに、内戦で難民となった大勢のイスラム教徒が流れ込んでいた。町は、敵対するセルビア人が住む地域にぽつんと残された飛び地だった。1995ンんが明けると紛争各派のあいだで交わした停戦合意がくずれ、セルビア人勢力によるイスラム教徒への攻撃が相次いだ。情勢はしだいに切迫していた。
貫戸朋子(かんとともこ)さんは、「国境なき医師団」のボランティア医師として、フランス人医師や、サラエボ大学医学部の学生らとともに町の病院で働いていた。
人口はそれまでの9倍、4万5000人ほどにふくれあがっていた。国連機関からの食料は必要量の2割ほどしか届かない。停電や断水が断続的につづく。衛生状態も悪化する一方だった。
病院は患者であふれ、地雷や銃弾で足を吹き飛ばされた若者や、全身に金属片が突き刺さった青年が運び込まれていた。貫戸さんは6か月の任期の延長を願い出て、産婦人科の専門分野を超えた治療にあたった。
2月、ユーゴスラビア・ベオグラードの「国境なき医師団」事務所から翌日撤退の指令が届き、町から引き離された。心を通わせた人たちに別れも言えなかった。
東京に落ち着くと、自分だけ安全で満ち足りた場所に戻ったという罪の意識にさいなまれた。おなかはすくのに、食事を前にすると食べられなかった。スレブレニツァの人たちのことが頭から離れない。このままでは大変なことになる-。新聞社や放送局に勤務する知人に訴え、小さな市民グループに招かれて話をしたが、なかなか耳を傾けてもらえなかった。
恐れが現実になった。
その年7月、国連が一切の攻撃を禁じていたスレブレニツァを重装備のセルビア人勢力が攻撃し、何万人ものイスラム教徒を町から追い出した。軽装備で国連平和維持活動(PKO)に就いてい居たオランダ部隊役2000人は、彼らを助けるどころか自分たちが生き延びるのに精いっぱいだった。イスラム教徒7000人以上が行方不明になり、多数が虐殺された。歴史に残る「スレブレニツァの惨劇」である。
貫戸さんは惨劇をニュースで知った。病院で一緒に働いていた医学生の死もインターネットで知らされた。やっぱり。怒りとあほらしさがないまぜになってこみあげてきた。自分がピエロのように感じられた。超越した何者かに自分を認めてもらなわければ生きていけない気がした。
豊かで平和な日本で、どう生きればいいのかわからない。周囲の人たちとの関係がきしんでいった。たわいのない楽しい話題に興味がもてず、いつしか黙り込んで相手に不快な思いをさせた。いちばん身近に大切な人が仕事で挫折を味わい苦しんでいても、その苦しみの大きさがわからなかった。
「魂が泣き切って動かなくなったのでしょうか。周りの人の気持ちに鈍感になってしまった」
そういう自分に落胆した。
医師を志したのは中学生のときだ。人間についてよく知りたいと思ったからだ。
友達とあまり遊ばず、本の世界にこまっていた。スペイン内戦記などを読みふけりながら、せっぱつまった状況に身を置きたいと夢想するような少女だった。京都で産婦人科を開業していた父親は、そんな末っ子をこよなく愛し、時間をみつけてはサッカーを教え、ともに楽しんだ。
医師という職業に就き、専門として選んだのは産婦人科だった。外科であり、内科でもある。誕生から死まで、女性の一生を見守っていく。「その奥深さにひかれました」。仕事がおもしろく、「365日のうち365日、働きました」
いくつかの病院に勤務した。技量と経験が問われる救急医療に明け暮れる日々があり、じっくり患者の話に耳を傾けた時期もある。民間病院の産婦人科医長にもなった。8年が過ぎるころ、気がつくと高揚した気持ちが消えていた。
「成長しているという実感がもてなくなった。貯蓄を食いつぶすのではなく、新しい生き方に使おうと決めました」
大学病院という安定した職場をあっさり辞めた。医師生活10年での転身だった。もう一度、別の面から人間に迫ってみたかった。心理学を学ぶためにスイスのジュネーブ大学へ。医療現場を離れたことで、やり残したことに気がついた。」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/4bbc7225e28f94ad61836ea80b19d652
「惨劇からの立ち直り、傷を抱え人は生きる-川名紀美
ボスニア東部の谷あいにある町スレブレニツァに、内戦で難民となった大勢のイスラム教徒が流れ込んでいた。町は、敵対するセルビア人が住む地域にぽつんと残された飛び地だった。1995ンんが明けると紛争各派のあいだで交わした停戦合意がくずれ、セルビア人勢力によるイスラム教徒への攻撃が相次いだ。情勢はしだいに切迫していた。
貫戸朋子(かんとともこ)さんは、「国境なき医師団」のボランティア医師として、フランス人医師や、サラエボ大学医学部の学生らとともに町の病院で働いていた。
人口はそれまでの9倍、4万5000人ほどにふくれあがっていた。国連機関からの食料は必要量の2割ほどしか届かない。停電や断水が断続的につづく。衛生状態も悪化する一方だった。
病院は患者であふれ、地雷や銃弾で足を吹き飛ばされた若者や、全身に金属片が突き刺さった青年が運び込まれていた。貫戸さんは6か月の任期の延長を願い出て、産婦人科の専門分野を超えた治療にあたった。
2月、ユーゴスラビア・ベオグラードの「国境なき医師団」事務所から翌日撤退の指令が届き、町から引き離された。心を通わせた人たちに別れも言えなかった。
東京に落ち着くと、自分だけ安全で満ち足りた場所に戻ったという罪の意識にさいなまれた。おなかはすくのに、食事を前にすると食べられなかった。スレブレニツァの人たちのことが頭から離れない。このままでは大変なことになる-。新聞社や放送局に勤務する知人に訴え、小さな市民グループに招かれて話をしたが、なかなか耳を傾けてもらえなかった。
恐れが現実になった。
その年7月、国連が一切の攻撃を禁じていたスレブレニツァを重装備のセルビア人勢力が攻撃し、何万人ものイスラム教徒を町から追い出した。軽装備で国連平和維持活動(PKO)に就いてい居たオランダ部隊役2000人は、彼らを助けるどころか自分たちが生き延びるのに精いっぱいだった。イスラム教徒7000人以上が行方不明になり、多数が虐殺された。歴史に残る「スレブレニツァの惨劇」である。
貫戸さんは惨劇をニュースで知った。病院で一緒に働いていた医学生の死もインターネットで知らされた。やっぱり。怒りとあほらしさがないまぜになってこみあげてきた。自分がピエロのように感じられた。超越した何者かに自分を認めてもらなわければ生きていけない気がした。
豊かで平和な日本で、どう生きればいいのかわからない。周囲の人たちとの関係がきしんでいった。たわいのない楽しい話題に興味がもてず、いつしか黙り込んで相手に不快な思いをさせた。いちばん身近に大切な人が仕事で挫折を味わい苦しんでいても、その苦しみの大きさがわからなかった。
「魂が泣き切って動かなくなったのでしょうか。周りの人の気持ちに鈍感になってしまった」
そういう自分に落胆した。
医師を志したのは中学生のときだ。人間についてよく知りたいと思ったからだ。
友達とあまり遊ばず、本の世界にこまっていた。スペイン内戦記などを読みふけりながら、せっぱつまった状況に身を置きたいと夢想するような少女だった。京都で産婦人科を開業していた父親は、そんな末っ子をこよなく愛し、時間をみつけてはサッカーを教え、ともに楽しんだ。
医師という職業に就き、専門として選んだのは産婦人科だった。外科であり、内科でもある。誕生から死まで、女性の一生を見守っていく。「その奥深さにひかれました」。仕事がおもしろく、「365日のうち365日、働きました」
いくつかの病院に勤務した。技量と経験が問われる救急医療に明け暮れる日々があり、じっくり患者の話に耳を傾けた時期もある。民間病院の産婦人科医長にもなった。8年が過ぎるころ、気がつくと高揚した気持ちが消えていた。
「成長しているという実感がもてなくなった。貯蓄を食いつぶすのではなく、新しい生き方に使おうと決めました」
大学病院という安定した職場をあっさり辞めた。医師生活10年での転身だった。もう一度、別の面から人間に迫ってみたかった。心理学を学ぶためにスイスのジュネーブ大学へ。医療現場を離れたことで、やり残したことに気がついた。」