「啄木小伝-故郷渋民の視点から-遊座昭吾(啄木研究家)
-二つの音-
啄木、本名石川一(はじめ)は、北上さんちの山裾、南岩手郡日戸村(現玉山村)の日照山浄光寺に、明治19年2月20日、父一禎、母カツの長男として生まれた。そしてその翌年、北岩手郡渋民村(現玉山村)万年山報徳寺へと移る。彼には二人の姉と一人の妹があった。つまり、一は石川家におけるただ一人の男子であった。
幼少年期の石川一は、この万年山を背にした禅寺で、いつも二つの音を耳にしながら成長していった。一つは四季折々の自然の音-山鳩・鶯・閑古鳥の鳴き声、啄木鳥(きつつきどり)のこだま、そして野分・木枯らしの音であり、もう一つは宗教性を帯びた人工の音-鐘・太鼓・木魚の音、そして父の読経する声である。
少年石川一はこの二つの音の交響する中で成長していくが、やがて後には自らの意志である音を選び、また自らも自分の魂を象徴する音を創造すべく、その苦悩の人生を送っていくようになる。それが文学者石川啄木の、誕生と形成を意味するわけである。
渋民尋常小学校を終えた石川一は、盛岡市立高等小学校を経て、明治31年4月、岩手県立盛岡中学校へと進んだ。このことは、寒村の小さな寺の子としてはむしろ異例なことであった。当時、僧として法燈を継ぐのであれば、あえてこの盛岡遊学の要はなかったからである。しかし、父一禎は安易な世襲の道を嫌い、厳しく自分の道を切り開いていく人生を息子に与え、また期待もかけたのである。石川一はその期待に十分こたえ、128名中10番の成績で合格した。
明治13年開校になる盛岡中学は、実に自由な空気のみなぎる充実した時代を迎えていた。石川一はここで存分に新知識を吸収し、また優れた上級生から暖かい目を向けられた。その中でも特に金田一京助(のちに言語学者)、及川古志郎(海軍大臣)、野村胡堂(作家)の三人の先輩は、特別な心を後輩石川一に寄せ、彼の文学への開眼を誘ったのである。
しかし、優れた成績で入学した石川一は、学年が進むにつれて、文学活動に熱中し、また私立盛岡女学校生堀合節子との恋愛へ傾倒して、次第に学業を放棄していく。そしてついには5年の中途、明治25年10月27日、自ら退学してしまうことになる。
血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野に叫ぶ秋
その月の末に発行された「明星」に、初めて載ったこの一首は、盛岡中学生石川一の終わりを、そして後の歌人石川啄木の始まりを、いみじくも象徴する記念の歌となった。」