加害国日本の加害と被害を意味づけてはじめて
被害国民との連帯が構築できる!
旧日本軍の毒ガス兵器で後遺症 「被害者」
満蒙開拓青少年義勇軍参加の「被害者」
国策として満州に動員した「加害者国民の被害」
この二つの「被害」を繋げるモノは何か!
大量殺戮非人道兵器による被害者救済に時効はないぞ!
人道主義の立場から救済すべきではないのか!
戦後70年安倍談話の棄民思想浮き彫りに!
旧日本軍の毒ガス兵器で後遺症 被害者を支援 8月21日 7時00分http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150821/k10010197241000.html
このうち、当時7歳だった高明さん(19)は、近所に運び込まれた土がマスタードガスに汚染されているとは知らずに遊んでいたところ、翌日、足に水ぶくれができ、病院に運ばれました。退院後は記憶力や免疫力が低下し、今では月に何度もかぜをひくほか、少し動いただけでも全身にだるさを感じるということです。学校では「毒ガスがうつる」と中傷され、卒業後は自宅にこもりきりの生活が続いています。
日本政府は、この事故のあと、毒ガス兵器の処理費用の名目で3億円を中国側に支払い、被害者に分配されましたが、子どもたちを中心に後遺症が悪化し、被害者は日本政府を相手に損害賠償を求める訴えを東京地方裁判所に起こしました。しかし、原告の訴えは退けられ、去年10月に最高裁で敗訴が確定しました。
この裁判を担当した、南典男さんら日本の弁護士グループは、司法による解決の道が閉ざされたあとも、支援の在り方を模索し、中国の民間団体と協力し、救済基金を設立することを決めました。基金は、両国で寄付を募り、継続的な医療支援の実現を目指すもので、これまでに中国企業から日本円で1000万円近くが寄せられたということです。
今月14日に東京で行われた基金設立の調印式には、高明さんも来日し、「家が貧しくて入院もできない」と涙ながらに訴えながらも、被害者を代表して感謝の思いを伝えていました。
また、南弁護士は「被害者の健康状態は治るどころか悪化している。本来は日中両政府が人道的な観点から救済の仕組みを作るべきだが、この基金がその第一歩になればと願っている」と話していました。
慰霊碑に見る満蒙開拓青少年義勇軍 2013-06-16 00:15:01 | Weblog
「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出数のトップは長野県である。「満蒙開拓青少年義勇軍」の「慰霊碑」を、あちこちで見る。これらの「慰霊碑」は、どのようにして建ったのだろうか?「慰霊碑」に「満蒙開拓青少年義勇軍」を見る。
「満蒙開拓青少年義勇軍」は、茨城県の内原で3か月の訓練を終えて、満州に渡ると「満蒙開拓青少年義勇隊」と呼ばれて、訓練所に入った。「満蒙開拓青少年義勇軍」では、「関東軍」のほかに、また「軍」が満州に来たと思われるために、「満蒙開拓青少年義勇隊」と呼ばれた。
「満蒙開拓青少年義勇隊」。
「シベリア俘虜記」。穂苅甲子男 著、光人NF文庫から。
満州に行けば、20町歩がもらえる、「満蒙開拓は国策で、君の幸せを約束するものだ」と、先生に説得されて「満蒙開拓青少年義勇軍」に入った。村長、校長、在校生、村人から盛大に送り出されたが、夢は崩れ去った。現実の満州は、まったく違っていた。だだっ広い原っぱに、粗末な建物、貧しい暮らし、9月には冬が訪れ、マイナス30度になった。
ソ連の満州侵攻で、「満蒙開拓青少年義勇隊」は、撃たれた。そして、シベリアに抑留され、死亡したり、行方不明になった。
「自分は、死線をくぐりぬけて、なんとか日本に帰ることができた。しかし、友は銃弾に倒れた、凍死した、餓死した、行方不明になった」「戦後、黙っていたが、このままでは、友は浮かばれない」「亡くなった友の霊を祀りたい、そうしなければ、三途の川を渡ってあの世に行けない」「生存者を探し求めることから始めて、死者、行方不明者の名簿の作成をし、生存者と連絡を取り合って慰霊碑の建立の説明をして、賛同を得て、寄附を募り、故郷のどこかに慰霊碑を建てよう」ということで建設された「慰霊碑」だ。
「満蒙開拓青少年義勇軍」の「慰霊碑」を、いくつか訪れて、どのようなことが書いてあるのか? を見る。「満蒙開拓青少年義勇軍」のことがわかるし、「慰霊碑」のこともわかる。
「八洲魂」(やしま)。善知鳥峠(うとうとうげ)、塩尻市。
八洲魂歌誌
昭和13年早春 国策として満蒙開拓義勇軍発足し 県下多数の青少年がこれに参加しましたが、その内の300数名と高知出身者61名を以て折山中隊を編成し、元満州国黒河省嫩江県八洲訓練所に入所して北満の荒野に若き開拓の情熱を燃し その地に開拓団として入植し中には妻子もあり 一家の経営としている様になりました。戦果次第に烈しくなるや若者は戦列に加わる者多く その間に散華したる者や開拓途上や終戦時に又帰国後に物故された者等子女を含め多数の同志を失いました。それらの方々の霊を弔い慰めんと八洲会員一同相計り 当地矢彦沢良一氏の御協力を得て茲善知鳥峠の分水嶺地に八洲魂碑を建て慰霊祭を営み 亡き同志の冥福を切に祈るものです。
昭和45年8月16日 元満州国黒河省嫩江県第1次八洲義勇隊開拓団員八洲会一同
この「慰霊碑」から、つぎがわかる。「満州国開拓青少年義勇軍」は、国策として昭和12年に制定されたが、昭和13年というのは、極めて早い時期に満州に渡っている。そして、訓練所で3年の訓練期間を終えると、「八洲義勇隊開拓団」に入植し、やがて、「大陸の花嫁」をもらって、家族で農業経営が始まった。
しかし、戦局が悪化した。「満州開拓団」を守る「関東軍」は南方に渡って、いなかったから、「満州開拓団」の15歳~45歳の男は、ねこそぎ動員で、非常召集され、ソ連の銃弾に倒れたり、シベリアに抑留された。残された女、子どもは「地獄の逃避行」で多数が命を絶った。
「慰霊碑」の建立は、終戦の昭和20年8月15日から、25年後の昭和45年8月16日である。
「拓友之碑」、佐藤中隊。長野県護国神社、松本市。
碑に寄せて
思えば昭和14年 満蒙開拓青少年義勇軍 大いなる夢と希望を抱いた300余名の14、15才の少年が 国策の第一線興亜の大業をめざして 遠く異国の地に骨を埋める決意も固く懐かしい故国を後に敦賀港より壮途につきました。満洲国勃利(ぼつり)訓練所への道は遠く 1日48キロの行程に大陸の野の花を見るゆとりもなく空腹と疲労を克服し 1人の落伍者もなく到着 涙なくして開拓の途は歩めない辛苦の4年有余 やがて大東亜戦争勃発 数多くの者が応召され 或は病に倒れ終戦を迎えました 其の間の労苦は筆舌に尽し難いものがあります 不幸にして病に倒れ 戦果に散り 永遠に満蒙の地に眠る同志に対し哀惜の感に堪えません 終戦後同志を捜し求むる術もなく20数年の歳月は水の如く流れ去りましたが同志の熱意によりここに「拓友の碑」の建立を見ましたことは同志と共に歓喜に堪えません 当時中隊長佐藤剛吉 昭和48年4月17日拓友会一同建之
この「拓友の碑」から、つぎがわかる。昭和14年と早い時期の「満蒙開拓青少年義勇軍」である。
辛苦の開拓に4年ほどかかった。が、戦争が勃発して、多くが応召され、倒れた。
同志の消息を探すのは困難であったが、終戦から20数年後に「拓友の碑」を建立した。
「供養塔 満州開拓 鳳鳴義勇団」。貞松院、諏訪市。
昭和15年3月 満蒙開拓を志す少年300余名 第3次青少年義勇隊小林中隊を編成し 内地訓練を終えて 同年7月渡満 現地教育を修め18年10月北満の鳳鳴に入植す 後多くは関東軍の軍籍に列し偉勲を挙げしも ソ連参戦により 戦死せし者 抑留中若しくは引揚途上にて病死せし者 少なからず ここに同志の霊を祀りて供養せるものなり 昭和41年1月23日 鳳鳴同志会建之
この「供養塔」から、つぎがわかる。昭和15年7月と比較的早い時期の渡満で、訓練所で3年の訓練期間を終えて、「鳳鳴開拓団」に入植している。
しかし、ソ連の参戦で戦死や、シベリア抑留、引き揚げ時の「地獄の逃避行」で死者が多数でている。「満蒙開拓青少年義勇軍」は「関東軍」の指揮下にあった。
「供養塔」の建立は、終戦の昭和20年8月15日から、20年後の昭和41年1月23日である。
「少年義勇隊之碑」。温泉寺、諏訪市。
碑 文
昭和19年3月 当時国策の一環であった半軍半農の 旧満蒙開拓青少年義勇隊 第7次郷土中隊として 諏訪 上伊那 下伊那 3郡により 273名の当時15才 16才の少年隊員で編成され 茨城県内原訓練所に入所2ヶ月程訓練を受け祖国の為 大陸の荒野に立たんと胸弾ませ 渡満したのも束の間 翌20年8月11日 関東軍の指令により出動 8月15日終戦と共にソ連軍捕虜となり 捕虜生活中 病死または栄養失調に臥し76名の隊員を喪う 21年9月帰還の途に着き 約1ヶ月かかり10月 日夜忘れえぬ故郷の地に帰還できました 此の碑は 我等帰還者により亡き友の霊を弔う 慰霊碑建立の声が盛り上り昭和50年5月頃より隊員から寄附を願い 町村より台石を寄贈戴き尚温泉寺の御厚意に頼り永代供養として建碑出来たものである。建立には諏訪隊員が主体となり 建設委員の奉仕により約7ヶ月かかり建碑の完成を得ました。 昭和51年3月14日 建立
この「慰霊碑」から、つぎがわかる。敗戦が濃厚となった昭和19年3月に、273名が満州に渡っている。1942年(昭和17年)の末には、ミッドウエイ海戦で海軍が大敗北して、半身不随の状態になっていた。
そして、この第7次郷土中隊は、関東軍の指令により出動し、ソ連軍の捕虜となり、病死、栄養失調で、273名のうち、76名が亡くなっている。
「慰霊碑」の建立は、昭和21年10月に帰還してから、30年後の昭和51年3月14日である。
「拓友之碑」、斉藤中隊。長野県護国神社、松本市。
碑 文
元満蒙開拓青少年義勇軍斉藤中隊は 217名の隊員をもって編成 昭和19年6月 斉藤義男中隊長指揮のもとに14 5才の少年達が肉親と別れ 遥か満蒙の広野に開拓の意気高く 時の国策を信じ大陸に渡る しかし昭和20年8月 国境を突破したソ連軍の怒涛の進攻の前になんら為す術もなく 全員捕虜となる銃口を背に 過酷な重労働を強られ 寒さと飢えと疲労のため つぎつぎに病に倒れ 実に120余名の隊員が 異国の土となる あれから30余年の星霜が流れ とかく忘れがちなこの厳粛な事実に思いをいたし きょう茲にわれら生存者は美須々の森に集い 亡き師 亡き友を偲び 御霊の安からんことを祈願し この地に拓友の碑を建立する 歳月は流れども われらはいつもこの碑に集い 師を憶い 友を語り やがていつの日にか碑下にて相まみえんことを誓い 以て恒久平和への礎としたい 昭和51年11月吉日建立 興安拓友会
松本市の長野県護国神社には、「拓友之碑」が2つある。昭和19年のこの斉藤中隊と昭和14年の先の佐藤中隊で、2つの「拓友之碑」の間は、数十メートルほどである。
昭和19年の斉藤中隊の「拓友之碑」から、つぎがわかる。満州に渡った217名の内、120余名が異国の土となった。6割ほどが亡くなるという高い死亡率であった。
昭和19年(1944年)6月とは、敗戦間近に満州に渡っている。昭和17年(1942年)の末に、ミッドウエイ海戦で海軍が大敗北して、半身不随の状態にあった。そして、1944年末には、日本の敗戦も近いという情報が中学生の間にも流れていた。また、「満蒙開拓青少年義勇軍」の悲惨な状況も満州から伝わってきていた。
「拓友之碑」の建立は、敗戦から30余年の昭和51年11月である。
最後に、伊那市の伊那公園には3つの「碑」がある。「満蒙開拓青少年義勇軍招魂碑」、「吾等の魂を永遠に此処に刻む」、それに、「少年の塔」である。「満蒙開拓青少年義勇軍招魂碑」と「少年の塔」を紹介する。
「満蒙開拓青少年義勇軍招魂碑」、伊那公園、伊那市。
碑 文
満州国開拓青少年義勇軍は 昭和12年 我が国の国策にして満州国(現中国東北)の広大にして肥沃なる未開の原野を開拓し食糧の増産と友好国大満州国建設の礎石なるべく強健なる体力と精神力を持った青少年による移民団であり 又の名を鍬の戦士と呼ばれた 昭和12年先遣隊渡満以来 終戦まで数百万の青少年が大望を懐いて渡満した 然るに昭和20年8月15日終戦により 日本引揚げを余儀なくされた この間異郷にありて大理想郷建設の為 日夜激務に精励し其の尊き犠牲となり 又不幸にして病に仆れ
或は大東亜戦争に出征し 命を戦場に散したる 全県下の拓友の尊い数多の御霊を慰めんため戦後21年を過ぎた今日 生還せし同志相集いて此処に碑を建立し其の聖霊を祀る 曙 会
「少年の塔」。伊那公園、伊那市。
太平洋戦争中 いくたの若い生命が満蒙開拓青少年義勇軍としてまた学徒動員として 祖国の平和を願いながら消えていったその若くして散った霊をなぐさめるために この塔をたて永遠の平和を祈念するものである
これまで、「満蒙開拓青少年義勇軍」の「慰霊碑」を見てきて、気がついたことがあった。それは、「慰霊碑」は、生き延びて日本に帰ってきた生存者が建立していることである。国策で満州に行った「満蒙開拓青少年義勇軍」だが、「慰霊碑」は、国でも、県でもない、市でも、町でも、村でもない、仲間が作っているのである。
「信濃教育会」は、「満蒙開拓青少年義勇軍」を満州に、積極的に送り込んだ。しかし、「信濃教育会」は、「慰霊碑」の建立に関わっていない。「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出には、「信濃教育会」は勧進元になっている。
「下伊那のなかの満州」、満蒙開拓を語りつぐ会編では、「満蒙開拓青少年義勇軍」の生存者はつぎのように言っている。「碑を建てようということになったんです。費用のことで「信濃教育会」に言ったら、そんなものは知らんぞ、お前たち勝手にやりなさいと、言われました」
「自分が生き延びるだけがやっとで、友がどうなっているのか? 考えられなかった」と、生き残って日本に帰ってきた人たちが、20年~30年経って、重い口を開いた。「亡くなった友の御霊を鎮めよう」と。そして、寄附をして作った「満蒙開拓青少年義勇軍」の「慰霊碑」である。(引用ここまで)