会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

京都夏の旅27

2011-08-28 23:06:07 | 旅行
2011年8月 28日(日)快晴 
27日(土)は超ハードな日であった。
MEパソコンのハードデスクを別なパソコンに繋いでデーターを取り出そうと試みたができなかった。残念だがデーターはあきらめた。
 午後1時半には湊町笹山原で除草とダイコンの種蒔きをした。午後4時59分には会津鉄道「生ビール」列車に乗り田島まで往復。
 翌28日(日)は町内のアメシロ消毒。大発生。薬をかけると雪が降るようにぼたぼたと落ちた。町内役員・青壮年19名が3台の散布車に便乗して作業をした。町内の協力に区長として感謝する。町民も同じ気持ちである。午後12時半からは秀長寺の本堂を借りて直会をした。異年代が集まって飲食し町内の事など語り合う。これがとっても大事。 

忙しさ 汗をかいての 生ビール

7月19日(火)くもりのち風雨 「豊国神社と方広寺」


 「
 養源院を出ると目の前が三十三間堂である。ここは何度か来ているので通り過ぎ、横断歩道を渡って北へ500mくらい歩くと右側に豊国神社があった。
 豊国神社は慶長3年(1598)に没した豊富秀吉が、「豊国大明神」の神号を与えられてまつられた豊国社が起源。創建当初の社殿は豊臣氏が滅亡すると徳川家康によって取り壊されている。現在の社殿は、明治13年に復興、再建されたもの。国宝の大唐門は伏見城の城門を移築したもので創建当時のものとされている。宝物館では秀吉ゆかりの品々が公開されている。
 方広寺すぐ隣にあった。
 この寺は豊臣秀吉が奈良の東大寺大仏殿にならい、京都に大仏と大仏殿を建立した。奈良の大仏を上回る大きさで、完成は1595年。地震や火災により被害を受け、秀吉の死後、徳川家康の勧めで豊臣秀頼と淀殿が、創建時よりもさらに大きな大仏殿を建造、その後金銅大仏も完成させた。この梵鍾の銘「国家安康・君臣豊楽」は家康の2字を切っていると慶長19年(1614)7月開眼供養前に、家康から突然延期が伝えられた。
これで大阪冬の陣・夏の陣が起こり、豊臣方は破れ、秀頼・淀殿は自害した。

 方広寺は現在 本堂と大黒天堂と大鐘楼が残っているだけである。
 タクシーを拾い京都駅へ。(京都夏の旅 完)
 これで京都夏の旅は終わります。お付き合いありがとうございました。

 京都に魅せられた男は晩秋には大原三千院や比叡山へ行く予定です。その時は「京都ひとり旅」となるでしょう。