2012年11月12日(月)くもり 15.5度
郷山ウォークの続きをアップします。
なかやま花の里公園「三彩館」を出るとまたゆるい坂道(車道)を上る。500mくらい歩くと国道131号(旧日光街道)に出た。そこに案内人がいて右折を指示。距離は丁度コースの真ん中。残り5km。ここももくもくと独り歩き。途中 下野街道中倉一里塚跡の説明板を読む。会津から江戸までは約61里(約252km)。この街道を会津藩主はもとより近隣諸国の藩主が5泊6日の旅程で参勤していた。また年間10万俵に及ぶ会津藩の廻米が駅継ぎによって運ばれた。人馬駄送の時代、街道筋に設置された一里塚は賃金支払いの目安にもなっていた。
また、しばらく国道を上っていくと中山に着いた。ここには八幡の大ケヤキがあり、ボランティアガイドがいて説明してくれた。 『 樹齢:950年 樹高:36m 胸高周囲:1200cm 科名:ニレ 樹種:ケヤキ 』 故事由来によると「天喜3年(1055年)八幡太郎義家が陸奥の安倍 貞任氏を討伐の折り、険路で難渋して中倉村の司 二宮 太郎兵衛宅で休憩した。その折手厚く歓待し、大沼郡尾岐村に至る間道を教えた。賊軍は不意を打たれて敗北した。八幡太郎義家は大いに喜びお礼のしるしに庭先にケヤキを植えた。」と伝えられる。
ガイドにお礼を言い10分ばかり歩くと軽自動車が道路わきに停車して案内人がいた。いよいよここから下野街道。
やっと車道から離れて山道を歩く。下野街道は、会津藩が隣国へ通じる際の本道五筋(下野街道・米沢街道・越後街道・二本松街道・白河街道)として、幕府に報告した一筋です。道幅は二間(約3.8m)。会津藩にとって政治的・経済的に重要な街道でした。
明治17年(1884)大川沿いに現在の国道329号が開通すると、山間を通る下野街道は、一部県道や林道として利用されますが、峠を越える山道や地形上急峻な場所はそのまま残され、道型がかろうじてわかるまでに荒廃した道になってしまった。
平成7年から実施された「歴史の道整備活用推進事業」の調査により、街道の所々には石畳や一里塚、あるいは峠の茶屋の遺構などが確認され、整備をすることになった。(平成11年3月完)
コース途中で木の切り株に腰を下ろして昼食をとる。雨が降り出したので傘を広げての食事となった。後から来た人たちが挨拶をして通り過ぎていく。幸い通り雨だったのでおにぎり1個を食べることができた。
マイペースでまた歩く。(12:30)
大きな馬頭観世音菩薩碑ではボランティアガイドの説明を聞く。『当時の輸送手段は宿から宿へと荷を継いで運ぶ「駅継ぎ」が中心だった。当時、駄賃を稼ぐことで生計をたてていた地区民にとっては、馬は貴重な存在であった。このため馬頭観世音は広く信仰され、町内の各所にも数多くの石碑がみられる。
この碑はその中でも大型のもので、竿石の高さは一間(約1.91m)、台石の重さは約三トンと推定され、後背には安政6年(1859)5月の刻字がある。』
この碑からは下り坂となった。ところどころに石畳が残っている。遠い時代に繋がるこの道を往時の人々はどんな思いで歩いたのだろうか。江戸時代の鼓動を確かめながらゴールの大内宿南一里塚へ到着した。(13:20)
一里塚は対になっているのだがここでは一つしかなかった。
「完歩した方の中から抽選でブリジストンスポーツのウォーキングシューズを10名様にプレゼント」のチラシ広告を楽しみに郷山ウォークに参加したのだが、すでに7名当選していた。残り3名に期待してくじを引くが見事にはずれた。残念。
朝受付でもらったハイキングバッチを提示し、待機していたシャトルバスに乗り、ほぼ満員になってから出発。湯野上温泉駅に13:40頃着く。14:56発の電車で西若松駅へ。
この郷山ウォークは「東武鉄道・会津鉄道合同企画」というが主催者の影がみえない。
腰痛対策としてバイオテックス・トレッキングタイツを穿き、腰にはコルセットをして歩いた。19,419歩。お天気のせいもあるが疲れた。
郷山ウォークの続きをアップします。
なかやま花の里公園「三彩館」を出るとまたゆるい坂道(車道)を上る。500mくらい歩くと国道131号(旧日光街道)に出た。そこに案内人がいて右折を指示。距離は丁度コースの真ん中。残り5km。ここももくもくと独り歩き。途中 下野街道中倉一里塚跡の説明板を読む。会津から江戸までは約61里(約252km)。この街道を会津藩主はもとより近隣諸国の藩主が5泊6日の旅程で参勤していた。また年間10万俵に及ぶ会津藩の廻米が駅継ぎによって運ばれた。人馬駄送の時代、街道筋に設置された一里塚は賃金支払いの目安にもなっていた。
また、しばらく国道を上っていくと中山に着いた。ここには八幡の大ケヤキがあり、ボランティアガイドがいて説明してくれた。 『 樹齢:950年 樹高:36m 胸高周囲:1200cm 科名:ニレ 樹種:ケヤキ 』 故事由来によると「天喜3年(1055年)八幡太郎義家が陸奥の安倍 貞任氏を討伐の折り、険路で難渋して中倉村の司 二宮 太郎兵衛宅で休憩した。その折手厚く歓待し、大沼郡尾岐村に至る間道を教えた。賊軍は不意を打たれて敗北した。八幡太郎義家は大いに喜びお礼のしるしに庭先にケヤキを植えた。」と伝えられる。
ガイドにお礼を言い10分ばかり歩くと軽自動車が道路わきに停車して案内人がいた。いよいよここから下野街道。
やっと車道から離れて山道を歩く。下野街道は、会津藩が隣国へ通じる際の本道五筋(下野街道・米沢街道・越後街道・二本松街道・白河街道)として、幕府に報告した一筋です。道幅は二間(約3.8m)。会津藩にとって政治的・経済的に重要な街道でした。
明治17年(1884)大川沿いに現在の国道329号が開通すると、山間を通る下野街道は、一部県道や林道として利用されますが、峠を越える山道や地形上急峻な場所はそのまま残され、道型がかろうじてわかるまでに荒廃した道になってしまった。
平成7年から実施された「歴史の道整備活用推進事業」の調査により、街道の所々には石畳や一里塚、あるいは峠の茶屋の遺構などが確認され、整備をすることになった。(平成11年3月完)
コース途中で木の切り株に腰を下ろして昼食をとる。雨が降り出したので傘を広げての食事となった。後から来た人たちが挨拶をして通り過ぎていく。幸い通り雨だったのでおにぎり1個を食べることができた。
マイペースでまた歩く。(12:30)
大きな馬頭観世音菩薩碑ではボランティアガイドの説明を聞く。『当時の輸送手段は宿から宿へと荷を継いで運ぶ「駅継ぎ」が中心だった。当時、駄賃を稼ぐことで生計をたてていた地区民にとっては、馬は貴重な存在であった。このため馬頭観世音は広く信仰され、町内の各所にも数多くの石碑がみられる。
この碑はその中でも大型のもので、竿石の高さは一間(約1.91m)、台石の重さは約三トンと推定され、後背には安政6年(1859)5月の刻字がある。』
この碑からは下り坂となった。ところどころに石畳が残っている。遠い時代に繋がるこの道を往時の人々はどんな思いで歩いたのだろうか。江戸時代の鼓動を確かめながらゴールの大内宿南一里塚へ到着した。(13:20)
一里塚は対になっているのだがここでは一つしかなかった。
「完歩した方の中から抽選でブリジストンスポーツのウォーキングシューズを10名様にプレゼント」のチラシ広告を楽しみに郷山ウォークに参加したのだが、すでに7名当選していた。残り3名に期待してくじを引くが見事にはずれた。残念。
朝受付でもらったハイキングバッチを提示し、待機していたシャトルバスに乗り、ほぼ満員になってから出発。湯野上温泉駅に13:40頃着く。14:56発の電車で西若松駅へ。
この郷山ウォークは「東武鉄道・会津鉄道合同企画」というが主催者の影がみえない。
腰痛対策としてバイオテックス・トレッキングタイツを穿き、腰にはコルセットをして歩いた。19,419歩。お天気のせいもあるが疲れた。