「提出した」というカタチを作るためだけにやっつける宿題というものが、学びとは違う何かであることは先生だってわかってるだろうに、どうにかならないものかねぇ…
←がんばってる公立中があるのねぇ
と、思っていたところへ、見つけたこの記事:
なぜ宿題は「無駄」なのか?――“当たり前”を見直した公立中学校長の挑戦
宿題をなくしてしまった公立中があるとのことで、びっくり(o_o)
私の先日の記事は、おおむね小学校を想定して書いたものだけど、それで小学校であれば、先生の工夫で無駄な作業たる宿題のない運営というのも可能だと思うし…たぶんごく一部ではなされている。
でも公立中で、しかも学校で丸ごとというのはほんとにすごい。いちばん遠い話だと思っていました。
それというのも…うちではまたろうが公立中に通って高校受験をしたのでよくわかるのですが、宿題というのはまさに、先生に「誠意」をアピールするアイテムなのですよ。先生の指示どおり、すぺてローカルルールを守ってきっちり提出することで、「関心・意欲・態度」という観点に高評価がつく仕組みです。そしてその評価というものは受験に直結し、そのいかんによって大げさにいえば人生が左右されるわけですから。
先生にとっても、「依怙贔屓で評価した」なんていらん疑いをかけられないようにするため、明朗会計明朗評価の仕組みがあれば助かります。期日どおりに提出した/しない、なんてのは最も数値化しやすいですよね。しかも事実です(その事実にどんな意味があるのかはさておき)。
上記の記事でも、そこんとこにずばり言及していました。
「批判や誤解を恐れずに言えば、教員が宿題を出すのは子どもたちの『関心・意欲・態度』を測り、評価(通知表)の資料とするためではないですか。もっと私たちは専門性を発揮しないといけない」
つまり、提出は何回、手を挙げたのは何回とかそんなことでなくもっと実質的なところを見られるでしょう、プロなんだから。といっている。
まぁ実際、継続的に指導している中で「関心・意欲・態度」がどの程度であるかということはたいがいわかるものじゃないかとは思うんだけど。ただ、誰かにいい成績をつけて誰かに悪い成績をつけなきゃいけないとなると、うまく説明できないようなところにも無理に線引きしなきゃいけない場面があり、そこで悩みそうだ。
ところが、この校長先生がおっしゃるには、「私は全員に「5」を与えてもまったく問題がないと考えています。教員にそう伝えたところ、ある教員が「本当に、そんな評価をつけてよいのですか?」と聞き返してきました。私は「もちろんです。全員の成績を上げるのが、私たちの仕事ではないですか?」と即答しました。」(上記の続きの、定期考査をなくした話)…現在の建前は絶対評価なんだから、十分な状態であれば差をつけずみんながいい成績でもかまわないというわけ。
理念としてはわかるんだけど、こういうことしちゃうと、教育委員会から文句来るらしいですね。だって、ある学校がこんな方針で、そしてほかの学校は低い成績つけてたら、高校入試として公平性を欠くでしょう。でももちろん、本来、それぞれの学校や先生の裁量で(絶対評価たる)成績をつけてかまわないはずで、なんでいちいち方針の統一というか他校との整合性がなきゃいけないのかっていったら高校入試で使おうとしているからで。
結局、内申を使った入試というのが問題をややこしくしているのよね。
宿題の話に戻すと、全員に同じ「宿題」を義務付ければ、わかっちゃってる子にとってはただの「作業」「やっつけ」。わかっていない子にとっては宿題になっていてもできない(から飛ばすしかない)。ただの重荷。
「自律的に学ぶ経験を積まないと、決して工夫して仕事ができる人にはなりません。」自分に必要なことは何かを考えて、どうするのがいいか方法を工夫して、そうやっていいなら勉強は楽しいし、身につく。
「宿題を全廃したことで、最も喜んだのは、受験を控えた3年生の生徒たちでした。それは「負担が減って楽になったから」ではありません。自分にとって重要ではない非効率な作業から解放されたからです。」そりゃそうだよね。受験勉強には宿題はいらない。自分に必要なことをやればいいことだもの。
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なぜ宿題は「無駄」なのか?――“当たり前”を見直した公立中学校長の挑戦
宿題をなくしてしまった公立中があるとのことで、びっくり(o_o)
私の先日の記事は、おおむね小学校を想定して書いたものだけど、それで小学校であれば、先生の工夫で無駄な作業たる宿題のない運営というのも可能だと思うし…たぶんごく一部ではなされている。
でも公立中で、しかも学校で丸ごとというのはほんとにすごい。いちばん遠い話だと思っていました。
それというのも…うちではまたろうが公立中に通って高校受験をしたのでよくわかるのですが、宿題というのはまさに、先生に「誠意」をアピールするアイテムなのですよ。先生の指示どおり、すぺてローカルルールを守ってきっちり提出することで、「関心・意欲・態度」という観点に高評価がつく仕組みです。そしてその評価というものは受験に直結し、そのいかんによって大げさにいえば人生が左右されるわけですから。
先生にとっても、「依怙贔屓で評価した」なんていらん疑いをかけられないようにするため、明朗会計明朗評価の仕組みがあれば助かります。期日どおりに提出した/しない、なんてのは最も数値化しやすいですよね。しかも事実です(その事実にどんな意味があるのかはさておき)。
上記の記事でも、そこんとこにずばり言及していました。
「批判や誤解を恐れずに言えば、教員が宿題を出すのは子どもたちの『関心・意欲・態度』を測り、評価(通知表)の資料とするためではないですか。もっと私たちは専門性を発揮しないといけない」
つまり、提出は何回、手を挙げたのは何回とかそんなことでなくもっと実質的なところを見られるでしょう、プロなんだから。といっている。
まぁ実際、継続的に指導している中で「関心・意欲・態度」がどの程度であるかということはたいがいわかるものじゃないかとは思うんだけど。ただ、誰かにいい成績をつけて誰かに悪い成績をつけなきゃいけないとなると、うまく説明できないようなところにも無理に線引きしなきゃいけない場面があり、そこで悩みそうだ。
ところが、この校長先生がおっしゃるには、「私は全員に「5」を与えてもまったく問題がないと考えています。教員にそう伝えたところ、ある教員が「本当に、そんな評価をつけてよいのですか?」と聞き返してきました。私は「もちろんです。全員の成績を上げるのが、私たちの仕事ではないですか?」と即答しました。」(上記の続きの、定期考査をなくした話)…現在の建前は絶対評価なんだから、十分な状態であれば差をつけずみんながいい成績でもかまわないというわけ。
理念としてはわかるんだけど、こういうことしちゃうと、教育委員会から文句来るらしいですね。だって、ある学校がこんな方針で、そしてほかの学校は低い成績つけてたら、高校入試として公平性を欠くでしょう。でももちろん、本来、それぞれの学校や先生の裁量で(絶対評価たる)成績をつけてかまわないはずで、なんでいちいち方針の統一というか他校との整合性がなきゃいけないのかっていったら高校入試で使おうとしているからで。
結局、内申を使った入試というのが問題をややこしくしているのよね。
宿題の話に戻すと、全員に同じ「宿題」を義務付ければ、わかっちゃってる子にとってはただの「作業」「やっつけ」。わかっていない子にとっては宿題になっていてもできない(から飛ばすしかない)。ただの重荷。
「自律的に学ぶ経験を積まないと、決して工夫して仕事ができる人にはなりません。」自分に必要なことは何かを考えて、どうするのがいいか方法を工夫して、そうやっていいなら勉強は楽しいし、身につく。
「宿題を全廃したことで、最も喜んだのは、受験を控えた3年生の生徒たちでした。それは「負担が減って楽になったから」ではありません。自分にとって重要ではない非効率な作業から解放されたからです。」そりゃそうだよね。受験勉強には宿題はいらない。自分に必要なことをやればいいことだもの。
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