昨日のコンサートはプレイエルでの演奏だけれど、もう一台のピアノ(ヤマハ)の上になぜか
「”私の”ベヒシュタイン物語」
という本が置いてあり、
←それぞれの楽器にそれぞれの物語
ぱらぱらとめくってみると、あれ? 見たことある風情の二台のグランド+熊のぬいぐるみの写真が。
shigさんちのピアノ(ベヒシュタイン+プレイエル)でした。
(たくさんあるから)持って帰ってよいとのことだったのでいただいて帰り、今朝の電車の中で読んでいたらば、
ぐいぐい引き込まれてしまって電車乗り過ごした(o_o)
この本は、ベヒシュタインにまつわるマイストーリーを募集したエッセイコンテストの作品と、委嘱作品を集めたもので、それに技術的側面の補足がついている構成。十数名分のベヒシュタイン物語がまとまっている中のひとつが、shigさんの文章でした。「いつかベヒシュタイン」と思ってしまった体験から、ずいぶん経ってほんとにおうちにベヒシュタインが来るまでの話。
shigさんちのベヒシュタインは、古い楽器だけれども、shigさんちに来たのは新しく、そして昔この楽器がどういう歴史をたどってきたのかはわからないわけです。
でも、この本前半には、ベヒシュタインが戦火を潜り抜けて生き延びる様子、再生される様子などが書かれているものがいくつかありました。
それを読むと、丁寧に作られた、魅力的に響く楽器が、どんなふうに人の心をとらえるか、いろいろ困難な時期があってもそれを乗り越えて次に受け継がれていくか、傷んでも再生されてまた美しい楽器として復活するか(そしてその楽器は古さと新しさを併せ持つ)ということがひしひしとわかるのです。
ベヒシュタインのような楽器から感じられる「愛」は、人々がその楽器に注ぐ愛情の「反射」であるように思っていましたが、
実際のところ、そういう表現では正しくない…
人々がその楽器に注ぎ続けてきた愛情の「蓄積」が熟成して「放射」されているようなもののようです。
そしてその「放射」に捕らえられた人がまた新たな愛情を楽器に注ぐのです。
切羽詰まった状況の中、牛車に乗せられて舗装されていない道を延々と運ばれ疎開するベヒシュタインのくだりは胸熱です。まるでベヒシュタイン自身が生き延びる意思を持っているのではないかというような。
スタインウェイも優れた楽器ですが、スタインウェイとベヒシュタインを比べるならば、ベヒシュタインのほうが、楽器と人との個人的な強い絆が作られやすいように思います。また、この本では、ベヒシュタインと人のつながりだけではなく、ベヒシュタインによって人と人とのつながりができていく様子もあれこれ描かれています。
これは、ベヒシュタインでは特に多彩な音色の弾き分けがしやすいことと関係があるのかなと思うのですが、巻末の加藤氏のページでは、「インハーモニシティ」「響板設計」の二つの側面からこのベヒシュタインの特徴について述べられています。「インハーモニシティ」が重要であるからには当然、ベヒシュタインの特徴を生かすには調律が重要ということになります。
つまり、出会ったあとも常々お世話していかないといけないわけですが、まぁ、手のかかる子ほどかわいいというのもあり、そして手をかけていくと楽器も育ち、弾くほうの人も育っていく(弾き方が変わってくる)。そうやって、楽器の数だけ「私のベヒシュタイン物語」が生まれていくわけですね。
もし「私のスタインウェイ物語」というエッセイ募集をしたら、もちろんそれはそれで集まるだろうけど、なんか違った雰囲気の本になりそうです。
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「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社
「”私の”ベヒシュタイン物語」
という本が置いてあり、
←それぞれの楽器にそれぞれの物語
ぱらぱらとめくってみると、あれ? 見たことある風情の二台のグランド+熊のぬいぐるみの写真が。
shigさんちのピアノ(ベヒシュタイン+プレイエル)でした。
(たくさんあるから)持って帰ってよいとのことだったのでいただいて帰り、今朝の電車の中で読んでいたらば、
ぐいぐい引き込まれてしまって電車乗り過ごした(o_o)
この本は、ベヒシュタインにまつわるマイストーリーを募集したエッセイコンテストの作品と、委嘱作品を集めたもので、それに技術的側面の補足がついている構成。十数名分のベヒシュタイン物語がまとまっている中のひとつが、shigさんの文章でした。「いつかベヒシュタイン」と思ってしまった体験から、ずいぶん経ってほんとにおうちにベヒシュタインが来るまでの話。
shigさんちのベヒシュタインは、古い楽器だけれども、shigさんちに来たのは新しく、そして昔この楽器がどういう歴史をたどってきたのかはわからないわけです。
でも、この本前半には、ベヒシュタインが戦火を潜り抜けて生き延びる様子、再生される様子などが書かれているものがいくつかありました。
それを読むと、丁寧に作られた、魅力的に響く楽器が、どんなふうに人の心をとらえるか、いろいろ困難な時期があってもそれを乗り越えて次に受け継がれていくか、傷んでも再生されてまた美しい楽器として復活するか(そしてその楽器は古さと新しさを併せ持つ)ということがひしひしとわかるのです。
ベヒシュタインのような楽器から感じられる「愛」は、人々がその楽器に注ぐ愛情の「反射」であるように思っていましたが、
実際のところ、そういう表現では正しくない…
人々がその楽器に注ぎ続けてきた愛情の「蓄積」が熟成して「放射」されているようなもののようです。
そしてその「放射」に捕らえられた人がまた新たな愛情を楽器に注ぐのです。
切羽詰まった状況の中、牛車に乗せられて舗装されていない道を延々と運ばれ疎開するベヒシュタインのくだりは胸熱です。まるでベヒシュタイン自身が生き延びる意思を持っているのではないかというような。
スタインウェイも優れた楽器ですが、スタインウェイとベヒシュタインを比べるならば、ベヒシュタインのほうが、楽器と人との個人的な強い絆が作られやすいように思います。また、この本では、ベヒシュタインと人のつながりだけではなく、ベヒシュタインによって人と人とのつながりができていく様子もあれこれ描かれています。
これは、ベヒシュタインでは特に多彩な音色の弾き分けがしやすいことと関係があるのかなと思うのですが、巻末の加藤氏のページでは、「インハーモニシティ」「響板設計」の二つの側面からこのベヒシュタインの特徴について述べられています。「インハーモニシティ」が重要であるからには当然、ベヒシュタインの特徴を生かすには調律が重要ということになります。
つまり、出会ったあとも常々お世話していかないといけないわけですが、まぁ、手のかかる子ほどかわいいというのもあり、そして手をかけていくと楽器も育ち、弾くほうの人も育っていく(弾き方が変わってくる)。そうやって、楽器の数だけ「私のベヒシュタイン物語」が生まれていくわけですね。
もし「私のスタインウェイ物語」というエッセイ募集をしたら、もちろんそれはそれで集まるだろうけど、なんか違った雰囲気の本になりそうです。
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「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社